第16話 強くなりたい理由

 ヴォルフラム・ツァーベルは本土シュトレンの首都郊外にあるスラムで生まれた。

 

 襤褸でできた狭いテントが立ち並ぶ貧民街。貧乏人と病人と社会からはじき出された鼻つまみ者しかいない集落の片隅で、母親と2人で慎ましく暮らしていた。

 生活はお世辞にも豊かとは言えず、空腹や寒さに震える夜もあったが、心優しい母がいてくれればへっちゃらだった。

 母が生きていたこの頃が1番幸せだったと、ヴォルフラムは今でも思う。

 

 母のカティンカは美しく、そして強い人だった。

 もともとはズィーリオス島で冒険者をしていたらしい彼女は腕っぷしがめっぽう強く、スラムで暮らす女性には珍しいことだが、用心棒めいた仕事をしていた。

 息子が1人いるとは思えない程に若々しく、長く美しい銀髪をなびかせながら戦う姿に惚れたと、言い寄る男は後を絶たなかったが、どれだけ言い寄られても、彼女が首を縦に振ることはなかった。カティンカは、息子と夫のことを心から愛していたからだ。

 

 そんなカティンカは、働き者であったが、治らない持病を抱えていた。

 決して命に係わる病ではなかったが、それは適切な治療を受けられた場合の話。スラムという不衛生な環境や、息子を守り育てなければならない気負いもあっただろう。ヴォルフラムが6歳を過ぎる頃には床に臥せることも珍しくなかった。そのため病床の母を家に残し、幼いヴォルフラムは生活していくため、働きに出なければならなかった。

 

 そんな幼いヴォルフラムに手を差し伸べた男がいる。

 同じスラムの住人で、名前をライマーという。日焼けした肌が健康的な、陽気な雰囲気の男だった。かつてカティンカに惚れたと交際を持ちかけてきたことから知己となり、振られてからも後腐れることなく、母子2人暮らしを案じて様子を見に来てくれていた。

 彼はヴォルフラムに仕事と報酬をくれた。金銭の価値などヴォルフラムにはわからなかったが、少し多めに貰っていたと思う。そういう事にしている。何にせよ母と自分が暮らせるだけの分が貰えればなんだってよかったし、どんな仕事でもこなせた。

 

 ライマーはヴォルフラムにとって年の離れた兄のような存在だった。

 たまに御馳走してくれるご飯は美味かったし、仕事の終わりに頭を撫でてくれる大きな手が好きだった。「お前は本当に馬鹿だなぁ」なんて、言いながら優しく物事を教えてくれる面倒見の良い所も気に入っていたのだ。何を教わったのか、――もしかしたら文字や計算だったのかもしれないが――それらは何故だか思い出すことができないのだけれど。

 そんな楽ではないが辛いばかりでない日々が終わったのは、ヴォルフラムが8歳になった日のことだ。

 

「坊主、今日誕生日なんだってな」

「そ~だぜ! ひとつおとなになったんだ」

「俺からすりゃまだまだおこちゃまだけどなあ」

「なにを~!」

 

 仕事終わりに声をかけてきたライマーはムキになるヴォルフラムの頭を乱暴にかき混ぜて、「誕生日なら何かくれてやらんとな」なんて言いながら飴玉を1つくれた。甘いものなんてめったに食べられるものではない。コロリと機嫌をよくした子どもはお礼を言いながら飴玉を口の中に放り込む。飴玉はとろりと甘くて美味しかった。

 

 本当に美味しかった。

 けれど、そこから先の記憶がない。


 気が付けば、鉄の格子で囲まれた大きな檻の中にいた。

 両手には鉄の枷がつけられている。冷たくて重い鉄枷は、ヴォルフラムの心をより一層凍えさせた。

 

「ライマー、どこ?」

 

 震える声で兄貴分の名前を呼ぶ。匂いで近くにいるのはわかっていた。もしや、あの後何者かに襲われたのか。だとしたら自分と一緒にいた彼は無事なのか、心配だった。


「起きたのか」

「ッライマー!」


 鉄格子の向こうからひょっこりと姿を現した兄貴分に、ヴォルフラムは安堵する。無事だった。

 その安堵もつかの間、おかしなことに気が付く。いつもと変わらない様子の彼が、鉄格子の向こう側にいるのはどうしてだろう。どうして、柄の悪そうな連中と一緒にいるんだろう。


「ライマー、何で……」

「……お前は本当に馬鹿だなぁ」


 にやり、と男の顔が歪んだ。

 こんな顔は知らない。いつもの優しい困り顔じゃない。心の底から嘲るような笑み。


「『獣憑き』なんて高く売れる商品、見逃すわけないじゃないか」

「……うそだ」

「嘘なもんか。お前はこれから売られるんだ。新しいご主人様の所にな。何をされるか……鞭で叩かれるかもしれないし、生きたまま手足を引きちぎられるかもな、極東の島国じゃ『獣憑き』の扱いは家畜以下だ」

「いやだ!」


 鉄格子に縋って隙間から男に手を伸ばす。――裏切られたのだという事を、幼いヴォルフラムはまだよく理解できていなかった。わかりなくなかったのかもしれない。まだ、何かの間違いなのではないかと信じる気持ちがあった。


「か~さんのところに帰る!」


 涙声で叫んだ子どもを鼻で笑うと、男は鉄格子を荒っぽく蹴り飛ばした。驚いてひっくり返ったヴォルフラムの頭の上に、ゲラゲラと下品な笑い声が降って来る。


「カティンカの事は心配すんなよ。お前を売った後は面倒をみてやる。ガキさえいなけりゃいい加減なびくだろ」

「ふざけんなクソ野郎!」

「俺は大真面目だぞ。あんないい女、薄汚ねえスラムの隅で死なせるなんてもったいねえ。『獣憑き』のガキなんていなけりゃ、今頃もっとマシな暮らしができただろうに」

「えっ」

「何だ知らなかったのか。シュトレンじゃあ『獣憑き』は人間じゃねぇんだよ。んなガキ生んだ女がまっとうな場所で生きていけるわけねえだろうが。おおかた、旦那にも実家にも見放されたんだろうぜ。他ならねえ、お前が生まれたせいでよ」

「そんなこと……!」


 ない、とヴォルフラムは否定することができなかった。

 父親がいないことについて、気にならなかったわけではない。

 昔、父親がどうして一緒に暮らしていないのか聞いた事もある。けれど、母はその話題になると、遠くを見ながらとても悲しそうな顔をするので、あまり聞かないようにしていたのだ。だからヴォルフラムは自分の父親についてたった1つしか知らない。

 母曰く「住む世界が違った」のだと。

 あれは、そういう意味なのだろうか。

 心からヴォルフラムを愛してくれる母と違い、父にとっては自分は人間ですらない存在なのだろうか。


「――うちのヴォルくんに、邪な考えを植え付けないでください」


 凛とした声が響いたかと思うと、ライマーの首めがけて白銀が閃いた。

 咄嗟にのけぞった男の首の皮を薄く裂いた刃を操るのは、長い銀髪を靡かせた絶佳の女だ。深い緑の瞳に怒りを称え、尻もちをついた男の首筋に刃を押し当てる。彼女の両の手に収められた持ち手の終わり――鵐目しとどめという部分を鎖で繋いだ片刃の双剣は、すでに血で染まっていた。


「カ、カティンカ……」

「っか~さん!」

「ヴォルくん。少しの辛抱ですよ。すぐに片付けますからね」


 狼狽えるライマーを牽制しながらも、カティンカは檻の中の我が子を安心させるように微笑んだ。


「み、見張りは何をやってる!」

「殺しました」

「ひっ」


 喚くライマーを追い詰めるように、なんてことないようにカティンカは言い捨てる。彼女の纏う白い襤褸の服は、たしかに夥しい量の血で汚れていた。

 彼女は普段こそ朗らかで優しい雰囲気の女性であったが、それはあくまで波風立てずに生きていくための外面に過ぎなかった。我が子の危機には仮面を脱ぎ捨て、冷徹で苛烈な戦士になるのだ。そのことをライマーはもちろん、息子であるヴォルフラムですら、この時初めて知った。


「くそっ! オイ、あれを出せ!」


 ライマーの声に呼応して、ヴォルフラムの近くにあった檻の扉が開く。

 そこから出て来たのは、カティンカよりもはるかに身の丈のある巨大な生物――9つの頭を持つ蛇、ヒドラ。

 その赤い相貌の禍々しさに、思わずヴォルフラムは悲鳴をあげて母を見つめたが、怪物と対峙している当の本人は、薄く笑んだまま剣を軽く振ったのみであった。


「ははっ、何笑って……」


 一瞬。

 ライマーの余裕が続いたのは、文字通り一瞬のことだった。

 カティンカが深く身体を沈めた後に、人間離れした速度で一直線に駆け、9つある蛇の頭を瞬く間にはね飛ばしたからである。


「そんな、馬鹿な……ズィーリオスで冒険者100人を食い殺したバケモンだぞ……」

「そうですか。でも私、ヒドラなら昔100匹は狩りましたので」


 飛び散るヒドラの鮮血は紫色をしていた。コバエを叩き落とすかのように事もなく怪物を屠った女は、鉄格子に近づくと力任せに扉をはぎ取った。


「か~さん!」

「ああ、ヴォルくん! お怪我はありませんか?」

「ない! か~さん、凄かった! 強い!」

「そうでしょう! 母は強いのです!」


 喜び勇んで飛び出してきた息子を抱きとめた母親は、抱きとめて勢いのままくるくると回る。その際に逃げるライマーの背に短刀を投擲するのも忘れない。抱きしめられていたヴォルフラムにはよく見えていなかった。

 だが、あの男は2度と自分の前には現れないだろう。その事にただただ安堵していた。


「さあ、おうちに帰りましょ……ごほっ」

「か~さん!? どこか怪我したのか?」

 

 咳き込んだ母を癒そうと、ヴォルフラムの両手が白い光を帯びる。

 この拙い回復魔法は生まれた時から何となく使えるものだった。カティンカは「お父さんに似たのですね」ととても喜んだが、ヴォルフラムは嬉しくなかった。この力は母の病を良くしてくれるわけではないからだ。


「大丈夫。いつもの発作です。少し休めば、すぐに元気になりますよ」


 屈強な男にもヒドラにも負けない母の顔は青かったが、ヴォルフラムは素直にその言葉を信じた。

 けれど3日経っても、7日経っても母の体調は回復しなかった。

 そして、この事件の起こった10日後、ついにカティンカは眠るように息を引き取ったのだった。


 母を喪った大きな悲しみの中、ヴォルフラムに芽生えたのは、弱さに対する憎悪だった。

 ライマーの事は不思議と怨む気にはなれなかった。もうすでに死んでしまっているだろうし、スラムで生きる大変さは身に染みている。誰もが生きるために必死なのだと知っているからだ。

 ならば、恨むべきは己の弱さのみ。

 

 役に立たないものが嫌いだ。

 父から受け継いだらしい回復魔法は、母の病を治せるものではなかった。獣のような耳も、尻尾も、厄介ごとは運んで来る癖に、役に立ったためしがない。こんな力などはいらなかった。母のような力があれば、病床の母に無理をさせることもなかったのだ。

 ――強い男になりたい。

 幼い狼は願った。

 誰にも負けない男になりたいと。

 もう、何も取りこぼすことがないように。


***


「ヴォルフラムくん、眠っているのかい?」

「……寝てねえ」


 4番街にあるディーデリヒの邸宅でただ飯にありついていたヴォルフラムは、食休み中にうとうとしていた所に声をかけられた。

 真っ白でふかふかのソファは、まるで寝具のように眠気を誘ってくる。懐かしい夢を見てしまった。

 慌てて涎を拭くヴォルフラムに、ディーデリヒは「眠かったら泊まって行くかい?」と声をかける。ヴォルフラムは眉間に皺を刻んだまま、首を横に振った。

 この変人は誠に油断のならない人間で、寝起きのヴォルフラムに蹴り落とされたいという理由で、布団に潜り込んでくることがある。とても驚くのでやめて欲しい。


「それに、今日はババアに渡すモンがあるからな」

「ああ、なるほど」


 長い足の傍らに転がる獲物袋を見て、合点がいったように金髪の美丈夫は頷いた。


「魔物の加工は鮮度が命だものね。なら、早い内に帰らないと怒られてしまうな」

「別に怖かね〜よ。あんな死に損ないのババア」

「おやおや、そんな事を言っていると、テオ嬢に叱られるよ」

「……」


 ヴォルフラムの相貌がさらに険を帯びたのを見て、ディーデリヒは「失言だったね、悪かったよ。忘れてくれ」と謝る。ヴォルフラムは不機嫌そうに鼻を鳴らした。

 

 ヴォルフラムの機嫌が悪い時、ディーデリヒは必ず謝ってくる。下手に出ているとか、機嫌をとっているとか、そういう露骨なものではなく、あくまで場を丸くおさめようとしてくるのだ。

 こういう、賢い大人の対応をされるのは苦手だ。

 叱られている訳ではないのに、自分が悪いことをしているような気分になる。


「ま、日のある内に帰った方がいいのは本当さ」


 話題を変えるように、またはこれが本題だとでも言うかのように、ディーデリヒは切り出した。


「最近、行方不明者が多くてね。その殆んどがエルフや妖精などの所謂亜人種なんだ」

「……前の罠の奴らか?」

「断言はできないけど、関わりはあると見ている。ただ、今回はダンジョン内の話じゃなくてね」

「街中で拐われんのか」

「その通り」


 ディーデリヒは神妙な顔で頷く。


「ダンジョン内での誘拐は露見しにくいだろうけど、武装した冒険者は無力化するのに時間がかかるからね。こっちの方がてっとり早いのさ」

「よくわからなかったから、簡単に言え」

「一般人の方が拐いやすい」

「くそかよ」


 ヂッと舌を打つ。

 ディーデリヒは「これは武装してない冒険者も含まれるからね」と真っ直ぐヴォルフラムを見つめた。



「あん?」

「……最近、スラムで回復魔法の練習をしてるだろう。天使様だっけ?」

「それやめろや!」


 がんっとヴォルフラムは目の前のテーブルを蹴る。その顔は真っ赤に染まり、尻尾は警戒する猫のように膨らんでしまっている。


 天使様。

 それはスラムの一部で浸透してしまった――本当にまったく遺憾ながら浸透してしまった、ヴォルフラムの呼称だ。


 テオとの一件から、回復魔法も練習しておいた方がいいと感じたヴォルフラムは、積極的に魔法を使うようにしていた。けれど、素早く回避の得意な自分や、身体の殆どが機械でできているディーデリヒでは練習の機会がない。

 そこで、貧しいために怪我を放置しがちなスラムの住人に、片っ端から回復魔法をかけて回ることにしたのだ。押し売り強盗ならぬ押し売り治療である。

 相手の許可も取ってない治療行為なので、しかるべき機関に訴えられると負けるのだが、相手がスラムの住人であるため、そういった大事にはならずにすんだ。

 代わりと言っては何だが、ヴォルフラムの押し売り治療をありがたがった一部の人間が呼び始めた『天使様』という呼称が、望まない二つ名として広まりつつあるのだった。やっとのことで発端であるロッタにはやめさせたのだが、時すでに遅し。

 

「まあ、キミの似合わない二つ名はさておき」

「そんな呼び名断じて認めねぇ」

「『獣憑き』の、しかも回復魔法の使い手は需要がありすぎる」


 ディーデリヒの言葉は予測がついていたのだろう。特に驚いた様子もなくそっぽを向いたままのヴォルフラムに「くれぐれも気を付けてね」と念を押す。ヴォルフラムは不機嫌そうな顔のまま「どいつもこいつもうるせ~よな」とぼやく。そして足元の獲物袋を担ぐと、ディーデリヒの家を後にした。


 同じようなことを『ダンデ・ライオン』の店主も、リーヌスとかいう猫耳女も言ってきた。そのどいつもが二言目には「テオが心配する」と宣う。大きなお世話だ。

 心配なんてしなくていいのだ。ヴォルフラムは未だ望んだ強さには及ばないものの、それなりに実力もついてきた。こんなでかい男の己を、わざわざ捕まえようとする奴がいるものか。いたとして、大抵の相手なら返り討ちにできる自信がある。


「ガキん頃とは、ちげ~んだわ」


 言い聞かせるような言葉が、夕暮れ時の町に溶けていった。

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