第13話 死なせたくない女
ハイデマリー・フォレストは魔法の天才だった。
毒で身体の自由は利かなかったが、魔法によって意識だけは保っていた。だから、自分を救おうとしている見知らぬ魔力が、あのいけ好かないオオカミ青年のものであることも解っていたし、回復した自分が何をすべきなのかも知っていた。
ぼんやりとした視界が揺れる中、ふらつく身体をゆらして立ち上がる。
マルタが手を貸してくれた。すぐそこで、疲弊したヴォルフラムが額の汗を拭っている。
ぼんやりとした視界の中に、巨大な水球に浮かぶ3体のゴーレムが見えた。それを出現させただろう赤毛の少女は膝をつき、大柄な絡繰仕掛けの男が彼女を守るように立っている。彼らの前に立ちはだかるのは、ひときわ大きなゴーレムだ。
それは、ハイデマリーの愛してやまない男――アルベルトを吹き飛ばした。光月が受け止めようとして、支えきれず岩壁に激突する。ぐったりと、妹のように思っている鬼の娘が、角の生えた額を天に晒した。
それでもハイデマリーは怒らなかった。
正確には、怒りを感じてはいた。けれど、それを露わにすることはなかった。彼女は優秀な魔法使いであったので。
魔法の精度は魔法使いの精神が安定しているほどに増す。故に、優秀な魔法使いほど、精神制御に優れているものだ。
強い感情を引鉄に、強靭な精神で力を行使する。
それが魔法使いであった。
彼女の細い指先が上を指す。結界の最も薄い天井の中央を。
寝ている間に解析は済ませていた。
「
ハイデマリーの指先から赤い光が放たれた。
細く、直線的な光線は、まっすぐ天井に伸びていく。岩肌の隙間に吸い込まれていった閃光は、岩と岩の隙間を滑るように枝分かれし、内部に張り巡らされた結界を破壊していく。
バリン、とガラスが割れたような音が響いた。すると、途端にゴーレムたちがぐずぐずとただの土の塊に戻っていく。
「ゴーレムたちが……」
「結界を壊された事で、ゴーレムを操っていた魔法使いが退いたんだろう」
マルタの疑問に、ハイデマリーが冷静に答える。
そうしている間も、ぐらぐらと地面は揺れ、岩壁は天井の中央から徐々に壊れはじめていた。
「オイ、崩れてんぞ!」
「もともと魔法で支えていた岩壁だったんだ。結界を壊せば崩れるよ!」
「急いで脱出しましょう! ――アルくん!」
マルタがアルベルトを呼んだ。
しかし、応答がない。
岩壁に強かに体を打ったせいだろうか、アルベルトと彼を抱えた光月は壁にもたれかかって動かない。気絶しているようだった。
「おいテオ! でかぶつ! 起きろ!」
それはテオとディーデリヒも同様だった。
疲労が限界に達したのか、テオはうつむいたまま動かず、ディーデリヒは立ち尽くしたまま目を閉じている。体からは白い煙が上がっていた。
駆け寄ったヴォルフラムは、男の身体がひどく熱を持っていることに気が付いた。オーバーヒートを起こしているのだ。
「ハイデマリー! 転移魔法は!?」
悲鳴じみたマルタの言葉に「無理だ」と首を振る。
「魔力が足りない」
「ヴォルフラム! あなたは【魔力装填】は使えないんです!?」
「使えるワケね~だろボケ!」
使えたとしても、ヴォルフラムに他人に譲渡できるほどの魔力は残っていなかった。
ヴォルフラムは唇を噛む。
(やれる事は全部やった……なのに、こんな所で死んでたまるか)
腕の中に抱えた赤毛の女を、死なせるわけにはいかないと思った。
これは戦ったことのない女だ。柔い肉と細い四肢しか持たない女が、ここまで奮戦したのだ。それなのに、こんな幕引きはあんまりじゃないか。
「おい!」
ヴォルフラムがマルタ達に向かって叫んだ。
「……絶対に、避けるなよ」
睨みつけるように念を押すと、返事は待たなかった。
すっと息を吸って、止める。
ヴォルフラムの身体は瞬く間に銀の毛に覆われ、鋭い爪が生え、むくむくと巨大化ししていく。鼻ずらが伸び、その容貌は徐々に獣に近づいていった。
やがて、崩れ行く洞穴に現れたのは、1頭の巨大な銀色の狼だった。
「あ、あれは?」
「完全獣化……」
驚愕するマルタにハイデマリーが答えた。
完全獣化は『獣憑き』とよばれる者が使うギフトの奥義のようなものだ。獣化深度を最大まで引き上げ、似姿を完全に獣のそれにする。そうすることによって、彼らは尋常ならざる力を得るのだ。
もちろんリスクは存在する。
完全獣化した『獣憑き』は理性が飛びがちだ。狂暴化するとも謂われていた。
ぐるぐると喉を鳴らして唸る獣は、まっすぐにマルタ達に突進した。
***
――ダンジョン1層『はじまりの迷路』の入口にて。
ダンジョンの入口は最も冒険者の集まる場所だ。
新米冒険者が探索しているというのも1つの理由であるし、パーティの合流地点になっている事もあるからだ。
今日も、これから初めてダンジョンに潜るという新米冒険者のパーティが、緊張した面持ちで周囲を見渡していた。両手剣を持った青い鎧の戦士、赤い衣装の女魔法使い、緑色のマントを付けた弓使い……見てくれは立派だが、戦闘経験はほとんどない新参者がひしめき合っている。
「ああ、早く魔物と戦いたい。巨大な怪物を俺がぶった切るんだ」
「そうだね、援護はまかせてくれ」
「え~、あたしは戦いなんて面倒だから嫌よ」
口々に新米たちは言いあうが、1層に出てくる魔物なんて、小さなコウモリや両手で抱えられるくらいのスライムくらいのものだ。期待しているような大立ち回りはする機会もないだろう。
実際、後ろにいた先輩冒険者は呆れたように笑った。
「魔物らしい魔物は5層より下さ」
「こんな所にそんな大型の魔物なんて出るものかよ」
ははは、なんて笑い声が響く1層に、轟くような獣の咆哮が響いた。
「な、なんの声だ?」
それはダンジョンの入口から聞こえる。地鳴りのような足音がどんどん近づいてくる。
冒険者たちはどよめいた。
何か、得体のしれないものが近づいてくる。
「キャアアアアアッ!」
それが現れた途端、魔法使いの女が悲鳴を上げた。
それは、人間の数倍は大きな銀の狼だった。紫の瞳をした美しくも恐ろしい獣。口には金髪の男を咥えている。
「ひ、人食い狼だ」
「う、嘘だろ……魔物がダンジョンから出てくるなんて」
先ほどまで冒険に夢を馳せていた新参者たちは、突然目の前に現れた脅威に色を失った。恐怖で足がすくむが、背を見せれば食い殺されるやもしれぬという予感から、逃げ出すこともできずにその場でくぎ付けになっている。
獣――ヴォルフラムは洞穴から出るために完全獣化を行い、その場にいた全員を背に乗せてダンジョンを駆けあがったのだった。
威嚇するように雄叫びを上げれば、魔物たちは一目散に逃げていく。逃げ遅れた魔物を蹴散らしながら、20層から地上まで駆け上がるのに、そう時間はかからなかった。冒険者たちからは見えないだろうが、背中の後ろの方にはマルタ達がほうぼうの体でしがみついている。
ヴォルフラムは入口から這い出ると、ゆっくりと前進した。べっと、咥えていたディーデリヒを地面に放る。右手を失った男の身体がガチャンと落ちた。
「ば」
緑のマントの少年が矢をつがえた。顔は青く、唇は恐怖で震えている。
「ばけもの!」
がむしゃらに放たれた矢は正確にヴォルフラムの巨体を襲った。眉間に当たった矢は、固い毛皮に弾かれる。
「ギャッ」
顔の近くに飛んできたことで、ヴォルフラムは怯んだ。獣がよたよたと後退すると、冒険者たちは何とかこの化け物をダンジョンに押し込もうと活気づく。近寄るのは恐ろしいのだろう、弓を持っている者は矢を放ち、持っていない者は石を投げた。
「ギャウッ」
矢や石は大したダメージにはならない。
完全獣化によって得た毛皮は、ヴォルフラムに非常に高い防御力を施すからだ。
それでも、人間に攻撃されるというのは困る事だった。
本能の強くなったヴォルフラムでも、人間を殺してはいけないことくらいはわかっていたからだ。喧嘩は好きだが、相手を死なせたいわけではない。巨大な獣の爪は、その気になれば彼らの命を容易に奪えてしまう。
どうしたら良いかわからずに戸惑っていると、ハイデマリーやマルタが声を上げた。
「彼は魔物ではない、冒険者だ!」
「攻撃をやめてください!」
2人の必死の叫びは興奮している人間たちには聞こえていない。
彼らはこの巨狼を排除しなければいけないという意識に囚われていた。突然目の前に現れた脅威に対する恐怖と、混乱。そしてこの美しき獲物を逃したくないという欲の表れだ。
獣がキュウと弱弱しい声を上げる。痛くはないが、同じ人間に礫をぶつけらるのは、なんだか堪えた。
「っいい加減に……!」
マルタが我慢ならんとばかりに拳を握った時だった。
赤い髪の女が冒険者たちとヴォルフラムの間に割って入ったのは。
眼を覚ましたテオは、ヴォルフラムを庇うように両手を広げて彼の前に立った。
ヴォルフラムに触れて《透過》をするのが最善だったのかもしれない。彼女自身、飛び出してから気が付いた。気づいたら彼を守るように立っていたのだ。
彼女は冒険者ではないから。スキルを日常的に使うような生活はしていないのだ。だから、咄嗟に動くのはやはり自分の身体だった。
「あうっ」
小石が彼女の額を割り、飛んできた矢が肩口に刺さる。
「えっ」
矢を放った少年が思わず声を上げた。
獣を守るように飛び出してきた女の存在に、やっと気が付いたのだ。
ふらりと崩れ落ちる小さな身体を前に、冒険者たちは攻撃の手を止めた。テオに駆け寄ったマルタとハイデマリーは、やっと落ち着いた群衆に苦々しい顔をする。
「ヴォルフラム、テオさんが怪我を」
「人型にもどって治療してくれ」
2人が頭上の狼に声をかけた。
かけるが、狼が人型に戻る様子はない。ふうふうと息を荒くし、戸惑う群衆たちを凝視している。ぞわぞわと背筋を舐める悍ましい気配は――殺気だ。
「……ヴォルフラム?」
その刹那、ゴウッと大きな音が彼の口から放たれた。
鼓膜ごと頭を吹き飛ばそうとするような音の砲撃が、群衆に向けて放たれたのだ。突然の反撃に彼らは膝を震わせることしかできない。
それは1番最初に矢を放った少年も同じだった。
目の前の銀狼が己を殺さんと迫ってきても、指先ひとつ動かすことはできない。
――その鋭い牙は、少年に届く前に止まった。
「うん! 実に好い
彼の牙を受け止めたのは、先ほどまで地面に放り出されていた金髪の男だった。普通の人間なら死んでいるほどの肉体の損傷だったが、その表情は明るい尾。驚くことに機械仕掛けの身体をしているようだった。
その奇天烈な男は少年と狼の間に、強引に自身の身体をねじ込んだのだ。その逞しい上半身に獣の牙が深々と食い込んだが、びくともしない。痛みすら感じていないのか笑顔で、片手で狼の鼻面をなだめるように撫でてすらいる。
「大事な女の子を傷つけられた、キミの怒りは痛いほど伝わったとも。……けれど、キミは怒っている場合ではないんだ。彼女を救えるのはキミだけなのだから」
狼はぱちりを瞬きをした。ふうふうと荒い息をしながらも、言葉の意味を理解するように、瞬きを1回、2回。
そうしてやっと、ゆっくりディーデリヒの身体を離すと、するすると元の姿に戻っていく。人型に戻った彼は、目の前にあるディーデリヒの肩口に獣が懐くように額をつけると「わり」と短く謝罪の言葉を口にした。
ディーデリヒが二の句を告げる前に踵を返す。テオのもとに戻ると、すぐに治療を始めた。
「ああ、皆さん驚かせて悪かったね! 察しのとおり彼は人間だ!」
ディーデリヒはそう宣言すると、近くの冒険者に「治安維持隊に連絡をとってくれ。遭難者2名が帰還した」と告げた。
その後ろですっかり腰を抜かしてしまった少年が「お、俺はどうしたら……」と狼狽えている。自分が人間を射ってしまった事だけは、なんとか理解できていた。
「誰も責めたりはしないさ。だがまあ、ダンジョンは咄嗟の判断が生死につながる。次は冷静にね」
事故のようなものだということはわかっていたので、年若い冒険者も便乗した他の冒険者も、責める気にはならなかった。
かといって、ヴォルフラムを攻撃し、テオを傷つけられたことに思う所がないわけではない。そっけない態度をとった自分を、ディーデリヒは珍しく思った。
「遭難者? 奈落に落ちて助かったのか?」
ぼそりと群衆の1人が言った。
奈落に落ちる遭難者は、過去にもいた。
事故であったり、故意であったりと、理由こそ様々であったが、一様に帰還できた者はないとされている。ほとんどは奈落に墜落して死ぬか、極楽鳥に食われて死ぬからだ。運よくダンジョンへ逃れても、何の準備もない人間が生き残れる場所ではない。
テオが五体満足で生きて戻ったのは、実は異例の事態なのだった。
「そうとも、実に凄い子なのさ」
ディーデリヒは得意気に笑った。
運もそうだが、知恵が回り、勇気がある。仲間を信頼し、信頼される懐の広さも。冒険者でないのが惜しまれるくらいだった。
「ヴォルフラム、もういいです……治りましたよ。治りましたから……」
嗚咽交じりのマルタの声を聞いて、ディーデリヒは速足でテオのもとに戻った。
倒れるテオの肩口に手を置いて、ヴォルフラムは回復魔法をかけつづけている。その横でハイデマリーとマルタが彼を止めようとしていた。
俯いた彼の白い鼻からはぽたぽたと血が流れ落ち、汗と、涙とで、その顔はぐしゃぐしゃだ。ほとんど意識もないのだろう。自分を止める女たちの声は聞こえていないようだった。
もともとヴォルフラムの魔力はほとんど残っていなかった。そこから無理に捻り出そうとすれば、身体のどこかに影響が出てもおかしくはない。
「ツァーベルくん」
ディーデリヒがそっと彼の手をとった。ぶるぶると震える手に力は入っていない。指先まで冷たかった。
滂沱のごとく流れる涙と鼻血にまみれた青い顔で、呆然と見上げてくるヴォルフラムに、努めて優しい声をかける。
「もう大丈夫だ。――少し眠るといい」
その声に導かれるように、ヴォルフラムはコトリと眠りについた。
「遭難者が帰還した」
「怪我人がいるぞ、治安維持部隊はまだか」
「2番街に連絡をとれ、怪我人はひとまずそっちに搬送しよう」
そんな声を聞きながら、壁にもたれかかっていたアルベルトは、うっすらと瞼を持ち上げた。己の膝の上で寝息を立てる光月の頭を優しく撫でながら、目の前の光景を「面白くないな」と眉を寄せる。
ヴォルフラムによって治療されたテオが、担架に乗せられて運び出されていく。意識を失ったヴォルフラムを、あのディーデリヒとかいう男が抱えて運んでいた。
「完全獣化のあとは動けなくなるはずなのになぁ。気合いとかそういうやつ? 根性論って嫌いだな……それにしても」
あの獣に、あそこまで心を許す存在が現れるとは。
「……随分、懐いちゃったな」
ぽつりと落とされた不穏な言葉は誰にも拾われることはなく、喧騒の中に溶けて消えた。
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