第10話 ディーデリヒ・ハーバーという男
明朝、テオとヴォルフラムは42層を抜け、会敵を避けながら38層に到達した。2人という少人数でヴォルフラムの嗅覚を駆使すれば、こちらに気づいていない魔物を避けることは難しくない。
テオが非常に惜しんだのは《ハンマースペース》をストックしていないことだ。売れそうな素材は見つけたものの、それを収納する鞄や袋がない。ヴォルフラムに「諦めろ」と諭されたことは1度や2度ではなかった。
「37層からは砂漠地帯になります。このあたりで飲み水を確保しておきましょう」
「あそこ苦手なんだよな」
「毛皮にはきつい場所ですよね」
「獣扱いすんな」
竹を割って作った水筒を2つ提げたテオを、ヴォルフラムが先導する。彼には水の匂いが何処からするのかわかるのだ。
38層は『未明の湿地帯』としては最も浅い層になる。空気には湿り気があり、植物は巨大であるが、下層ほど水は淀んでいない。緑の濃い、美しい森だ。
道のない森の中を、草を踏み分けながら進む。カーテンのように垂れ下がる藤色の植物の下を潜ると、その先に小さな泉があるのを見つけた。
「さすがです」
「たりめ~だ」
ふん、と鼻を鳴らして何でもないという顔をしているが、尻の周りで銀の尾がごきげんに揺れる。
「ここの水なら飲めそうですね」
水を汲みながらほっと息をつく。
その襟首をヴォルフラムが掴んだ。見上げると、彼は怪訝そうな顔で背後の茂みの方を見つめている。
「ヴォルくん?」
「誰かいる」
「人ですか?」
「……よくわからねえ。多分人間だけどよ、嗅いだことのない匂いだ」
ヴォルフラムの鼻はかなり正確だ。遠くにいる魔物の匂いを察知して言い当てることが出来る。彼は1度、50層まで到達していたので、このあたりに遭遇したことのない魔物はないはずだ。そんな彼が”よくわからない”と答える匂いとは。
「見に行ってみましょう」
危機回避と好奇心が戦って、好奇心が圧勝した。ヴォルフラムも好奇心に負けたらしく、じりじりと茂みの方へ寄っていく。2人は音を立てないように近づいて、そっと茂みの向こうをのぞき込んだ。
――この選択を5分後には後悔するとも知らずに。
茂みに近付くうち、テオの耳にも音が聞こえてきた。
粘質をもった纏わりつくような水音だ。ぐちゃくちゃと断続的に聞こえるそれは、咀嚼音のようにも思える。
「スライムっぽい匂いがする」
「いや、スライムじゃないですか。ここまできたら」
この音を聞いても、ヴォルフラムは音の主を断定できずにいた。スライムの匂いはするのだ。あれらは胃酸によく似た匂いがするから分かりやすい。
(それに混じって匂うこれは何だ? 人間に混じって、鉄と油と、よく分からないものの匂いがする)
疑念を抱きながら茂みの向こうを覗く。
そこには巨大なゲル状の生物がいた。大きさは人間の2倍程度。不定形で、弾力があり、顔はない。水辺によくいるスライムだった。
「誰か食べられてます!」
テオの指した所に、人間――恐らくは男の手足が、一本ずつ生えている。絶え間なくスライムが蠢いているのは、これを咀嚼するためだったのだ。
「助けないと」
「ハァ!? ちょっと待てよ!」
制止も聞かず走り出した丸腰の一般人を、これまた丸腰の冒険者が追いかける。
スライムは強い敵ではないが、物理攻撃の利きはよくない。その事をこの女はわかっているのだろうか。いや、知ってはいるだろうが、何も考えていないに違いない。短い付き合いだがそれくらの事は予想がつく。
ヴォルフラムは舌を打った。
(当たり前みたいに飛び出していきやがって、イイコちゃんがよ)
けれども、彼女のそういう所に助けられたのも事実だ。嫌いにはなれない。好きとは絶対に言わないけれど。
テオはスライムにたどり着くと、突き出た男の足を掴んで引っ張った。スライムに食われかけている男の足は重く、びくともしない。
「ちょっと退いてろ」
テオの襟首を掴んで後ろに下げると、ヴォルフラムは大きく吠えた。威嚇をする獣の雄叫びだ。ビリビリと空気を震わせるこの音の砲撃は、生き物の生存本能に恐怖を与えるものだ。
スライムは大きく震えた。怯えたようにふるふると震える体からは力が抜けているように思える。
「今だ!」
2人は思いっきり男の足を引いた。するとあまりにあっけなくスポンと抜けたものだから、もしや腰から先は付いていないのではと思われたが無事なようだ。
地面にぽいと放られた人物は、年若い金髪の男だった。背丈は2mを越えるのではないかと言うほど大柄で、粘液まみれでなければ上品な色をした金髪は、腰の辺りまで伸ばされていた。肌の色は白く、目鼻立ちはしっかりとしている。
スライムに消化されかかったためだろうか、服は辛うじて下肢が隠れる程度しか身に付けていない。
「人間か?」
「僕には人間に見えますが……」
姿を見ても、ヴォルフラムは彼が人間だと確信がもてなかった。近くで男の匂いを感じると、余計に疑念が募る。人間のような見た目と、そうではない匂い。まるで人形が人間の皮が被っているような違和感を感じるのだ。
顔を覗き込んでいると、男は不意に目を開いた。
秋の空のような、澄んだ青い瞳。
目は大きく、眉は凛々しい。なんとも男前な顔をしている。そんな美しき男は、ぼんやりと2人の顔を交互に見て、
「君たちか? 私の蜜月を邪魔したのは」
などと宣った。
「は?」
「みつげつ?」
困惑する2人を余所に身体を起こした美丈夫は顔を赤らめながら「今日の子は粘性が強くて積極的だったな……」などと陶酔した声を出している。
(変な人だ)
咄嗟にテオは年下の狼を背に隠した。言葉の意味を理解していない彼は不思議そうな顔をしているが、スライムの補食シーンを蜜月と称するのは、どう考えても一般的な人間の思考ではない。
「ああ、失礼。はしたないところをお見せしたね」
こちらの困惑した眼差しを感じ取った美丈夫は、にこりと爽やかな笑みを浮かべる。粘液まみれでなかったら思わずため息をついたかもしれない。顔のパーツ一つ一つに華がある。
「私はディーデリヒ・ハーバー。しがないフリーの冒険者さ」
「冒険者ァ?」
「フリーってことは御一人ですか? ここはソロで挑むような場所ではありませんよ」
「そりゃあ、魔物を討伐したり、採集を行うならそうだろうね」
ディーデリヒは肩をすくめた。
「けど、私は彼らと愛し合うために来たからノー・プロブレムなんだ」
バチコーン、と効果音がつきそうな綺麗なウインクが飛んできた。「うげ」と背後の狼が嫌がるような声をあげる。無理もない。助けた男が斜め上の変人だったと気づいたのだ、誰でもそういう反応になる。
(変な人じゃなくて変態だった……)
公序良俗の観点から割愛させていただくが、ディーデリヒ・ハーバーは魔物を性的趣向として好む男だった。日夜ダンジョンに潜っては、好みの魔物とよろしくやっているらしい。魔物にとってはただ捕食しようとしているだけなのだろうが、この男は類稀なる頑健さでものともしない。一方通行な両想いが成立していた。
「下品な話になるのだがね。――私はスライムによって穴という穴を責め立てられないと満足できない身体なんだ」
というのがもっとも印象的だった言葉だが、即座に「子どもの前なんでやめてもらっていいですか」とテオによって遮ぎられていた。
後ろで未成年が「ガキ扱いすんな!」と吠えたが、未知の生物を前に顔を赤くして震える様を見れば、テオの判断は間違いではなかっただろう。
「次、彼の前で下世話な話をしたら殴りますからね。その辺の石とかで」
「う~ん、中々いい殺気だ! とても好い! 凶器が適当なのもぞんざいに扱われている感じがして……おっと、すまない。黙るのでその大岩は降ろしてくれないか。さすがに動けなくなるのは困ってしまう」
《空中浮遊》によって岩を浮かしたテオを前にディーデリヒは平謝る。
「これでも仕事中でね。完遂するまでは趣味に没頭するわけにもいかない」
「今までのは何だったっていうんですか。あなたの雇用主に心底同情しますよ」
服が溶けるのを予期していたのだろう。彼は泉の近くに置いてあった荷物から替えの服を取り出して身にまとった。身にまとったのはぴったりとした白いズボンだけであり、上半身は裸である。もともと何も身に着けていないようだった。
ディーデリヒは荷物からカップを人数分取り出し、コーヒーを注いだ。勧められるまま2人はカップを受け取る。
「最近、ダンジョンで行方不明者が出ているのは知っているかい?」
「行方不明者?」
「ダンジョンなんてそんなんばっかだろ」
「それが結構な人数でね。魔物に遭遇したというわけでもなく、忽然と姿を消したという証言もある。当然、行方不明というからには死体もあがっていない」
「それは、確かに奇妙ですね」
行方不明、という言葉にテオは浮かない顔をする。
「どういう事だ?」
「ダンジョン内での行方不明は、ほとんどが魔物や罠によるものです。パーティメンバーに気づかれずにというのは些か不自然です」
「まさにお嬢さんの言う通りさ。各ギルドの長はこの事件を人売りによるものとし、私に調査を命じたというわけさ」
意気揚々と頷くディーデリヒを見てテオは目を見開く。
ギルドの長じきじきに依頼をされるということは、彼はかなりの実力者で島の有力者からの信頼も厚い人物ということになる。彼の言動や見た目からは、とてもそんな大物には見えないのだが。
「キミたちは全く別件の遭難者のようだね」
「ええ、残念ながら」
「ノー・プロブレム! 私もそろそろ地上に戻ろうと思っていた所さ! 一緒に行こうじゃないか!」
テオと肩を組もうとするディーデリヒの間にヴォルフラムは割って入った。低く唸るヴォルフラムに抱えられながら、テオは「それはちょっと」と言葉を濁す。猫の手も借りたい状況ではあったが、変質者を傍に置くのは気が引けた。
「そんなつれない事を言わないでくれ! こう見えて私は高性能だぞ!」
ディーデリヒが笑顔を崩さぬまま悲鳴のような声を上げた時、聞き覚えのある咆哮が轟いた。大地を震わすこの声には覚えがある。
「この声……」
「あのトラか!」
2人は顔を強張らせるが、ディーデリヒは「42層のベネット嬢かな」と能天気な声をあげる。それからヴォルフラムに視線を向けて「君の雄たけびに反応したのさ」と指摘した。
「マゴケトラは縄張り意識が非常に強い。縄張りの中で別の種族があんなに派手に威嚇行動を起こそうものなら、とんで来るとも」
「じゃあ、てめ~のせいじゃねえか」
「それはそうだね!」
そもそも彼がこんなところでスライムと戯れているのがいけない。ヴォルフラムは清々しいまでの責任転嫁を行う。別に助けてほしいといった覚えはなかったが、ディーデリヒは鷹揚とそれを受け入れた。
「まあ、2人とも落ち着いてくれ」
慌ただしく逃げ支度をする2人にディーデリヒは待ったをかける。迫りくる湿地帯の王者の気配を恐れることもなく「私がなんとかしよう」と胸を叩いた。
「お嬢さんは懐のレッカタケを準備しておいてくれ。合図をしたら燃やすんだ」
「え、ええ」
「犬の君は鼻を塞いでいた方がいい」
「狼だばか! ……オイ、来るぞ!」
ヴォルフラムの叫びと、茂みから巨大な緑のトラが飛び出してくるのは、ほとんど同時だった。
踏み殺さんとばかりの勢いで猛進してくるトラの真正面にディーデリヒは立ち、両膝を曲げて前傾になる。ちょうどトラが襲い掛かるその瞬間、肘から筒のような突起が飛び出し、後方に向けて風を巻き起こした。がっちりとトラの前足の付け根を捉え、離さない。それだけではなかった。かかとからは留め具のような部品が飛び出して、地面に食い込むことで後退を妨げている。本来ならば筋肉や骨が悲鳴をあげるような衝撃だったはずだが、彼の身体は機械的な軋みを訴えるのみである。
「ああ~っ! 好い! 実に好い! この衝撃は母親だと思っていた女が実は侍女だった時の衝撃に匹敵する! 痛みはそれ以上だ! 巨大な牙が肩に刺さっているな! まるで巨大な錐に串刺しにされている気分だ! とても好いぞ! だがもっとだ! もっと強く噛んで欲しい!」
噛まれながらも、絶対に離さないという気概を感じる。
マゴケトラを相手に1歩も譲らないその姿は、彼の実力がまぎれもない本物であることを物語っていた。言っていることはちょっとよくわからないが。
「絡繰の身体……」
「からくり?」
「鉄や鋼で作った部品を組み合わせたものですよ。ゴンドラの魔女が魔導騎兵なる鉄と魔法で動く戦士を作ったことがきっかけで発展した分野です。……といっても、この島ではほとんど見られないですが」
「だからあいつ鉄と油のにおいがすんのか」
テオにとってはにわかに信じがたい話だったが、ディーデリヒの身体はそのほとんどが鉄と鋼によって作られているらしい。
ヴォルフラムの方は変に納得していた。道理で奇妙な匂いだと思っていたのだ。だがまあ、鉄の塊が人間の皮を被っているならそういう匂いもするだろう。
「ん? ”ハーバー”?」
彼の名乗った名前が引っ掛かった。たしか、ゴンドラの魔女も同様のファミリーネームをしていたはず。
(ゴンドラの魔女、ブリギッタ・ハーバーは晩年シュトレンの王族に嫁いだという話だったような……その子孫が今のズィーリオス島の領主をしている筈、それなら彼は――……)
「お嬢さん、火を!」
「!」
思案している間もなく合図がかかった。テオは懐から取り出したレッカタケにマッチで火を付けた。黒い笠をしていたキノコは、火を付けると松明のように燃え上がる。そして鼻に染み付くような、嫌な臭いを放ち始めた。
「ぎゃあっ!」
「ウギャアァッ!」
ヴォルフラムとトラが悲鳴を上げたのは同時だった。ヴォルフラムはその場でひっくり返り、トラは一目散に逃げていく。よほどこの匂いが嫌らしい。トラの背中に手を振る美丈夫を見ながら、テオは燃えるキノコを泉に投げ入れる。
その後ろで逃げ遅れた狼が、刺激臭に打ちのめされてしくしくと泣いていた。
「私は幼い頃から魔物が好きでね。戯れているうちに彼らのいろんな事を知ることが出来た。その過程で肉体の殆どを失い、今は7割ほどが絡繰でできているが、頑丈になったことだし、まあ問題ない。どうだろう、魔物との戦闘を回避するという点ではかなり有用だぞ」
ヴォルフラムの顔を拭いてやっているテオに対して、ディーデリヒはニコニコと笑いながら己の売り込みをする。
「水と食料も余裕があるし」
「む」
「ホバー機能を搭載しているが空を飛べるよ。背中には2人までなら乗せられる。砂漠も楽に超えられる」
「むむ」
「さらにソナーにより隠れたお宝を見つけることだってできる!」
「……よろしくお願いします」
テオは金銭的誘惑に弱かった。差し出された手を、ディーデリヒは嬉しそうに握る。
「ではお近づきの印に1発ずついいかな? 獣憑きに殴られたことはないから楽しみだ!」
あまりに爽やかな顔であんまりな事を言う男に、テオは手ごろな石を持って殴りかかった。
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