第9話 未明の湿地帯

「あああああああああああっ!!」

「いやあああああああああっ!!」


 水気をたっぷり含んだ空気を震わせて2人分の悲鳴が響いていた。

 苔むした太い木の根を男の黒い靴が蹴る。根の陰に隠れていた小さなネズミが慌てて逃げていったのは英断だったろう。次の瞬間に木の根はトラの大きな前足にえぐられて、文字通り消し飛んだので。


「ヴォルくん! もっと急いで! 追い付かれます!」

「荷物がうるせ~! だァってろ!!」


 命を刈り取らんとする四足の獣に追いかけられながら、テオはヴォルフラムの頭を抱きしめながら叫んだ。マゴケトラの前足はもう少しでヴォルフラムの背中を捉えてしまう。あの巨体で驚くほどに早いのだ。いくらヴォルフラムがテオを抱えているとはいえ、こちらは障害物の多い森を選んで走っているというのに。


「くそ……」


 小さく呻くヴォルフラムの息はすでに荒い。顔色は白く、眼の下にはうっすらと隈が浮かんでいた。


(このままじゃヴォルくんがもちません……)


 病み上がりの身体だ。慣れない魔法を使って疲弊もしている。早く打開策を講じなければ、2人仲良くトラの餌食だ。

 視線を巡らせると、右手にトラの数倍は幅のある幹をした巨木があるのが見えた。


「ヴォルくん、あそこへ!」

「ああ!?」

「あの巨木を目指して! ぶつかると思ってもまっすぐ進んで! 僕がなんとかしますから!」

「なんじゃそりゃ!」


 ヴォルフラムはそう叫びながらも、テオの指し示す方へと方向転換する。速度を上げるために上体を沈める、その瞬間テオの頭上をトラの前足が掠めた。


「ヒュッ」

「口閉じてろ!」


 ヴォルフラムの四肢が獣のそれに変化する。銀の毛並みの獣めいた手足だ。《深淵の獣》の獣化深度を上げたのだ。

 速度を上げたヴォルフラムが巨大な木の根の上を駆けて行く。滑るように進む様は木が避けているのではないかと錯覚するほど。


「ぶつかんぞ!」


 木々をなぎ倒しながら迫りくるトラを視界から外して、テオは進行方向を見据えた。自身の指し示した巨木はもう目と鼻の先だ。


「構いません! そのまま前に飛んでください!」

「上手くいかなかったらぶっ殺すからな!」


 ドンッと彼の足が力強く地面を蹴った。

 テオを庇いながら巨木へ体当たりしたヴォルフラムの背が、木の幹にぶつかる――ことはなかった。


 2人の身体はするりと幹の中を通り抜け、反対側まで突き抜ける。テオの《透過》により通り抜けたのだ。毬のように何度か跳ねてから地面に転がる。テオの胸の上に抱きかかえたヴォルフラムは、茫然と今しがた通り抜けた木の幹を見た。


「な、何だ今の……?」

「静かに、見つからないうちに此処を離れますよ」

「おい、待て」


 体の上から退いたテオをヴォルフラムが呼び止めた。


「後で説明しますから」

「違う、うしろ」

「え」


 べろり、と顔を舐められた。生臭い涎を顔いっぱいに被ってえづきそうになる。眼前に音もなく現れた巨大なカエルに、テオは悲鳴を両手で押し殺した。声を聞いたマゴケトラが寄ってくるといけないからだ。


「オラッ」


 硬直したテオの首根っこを掴んで下がらせ、ヴォルフラムは卵型の奇妙なカエルを蹴りつけた。反応が遅いのだろう。カエルは避けようともしなかった。


 しかし、手ごたえはない。

 ぼよよんっ、ぼよよよんっと弾力のある皮が衝撃をすべて吸収したかのような心地がした。


 テオがすかさず《鑑定眼》でカエルを見る。


(このカエルはシノビガエル――レベルは45。対してヴォルは17くらい。体の特性や技術うんぬんの話じゃない、基礎能力値に差がありすぎて攻撃が通らないんだ)


「無理です、勝てません」

「……クソッ」


 悪態をつきながらも、実力不足はわかっているのだろう。逃走のために再びテオを両手で抱える。

 ちょうどその瞬間、背後からマゴケトラがぬるりと現れた。

 手こずらされた湿地帯の覇者はプライドに傷でもついたのか、ひどく不機嫌に見える。大きく開けられた口から砲撃のような雄叫びが飛び出した。

 地を震わすような咆哮に、テオは思わず目の前にあった首にすがりつく。彼女を抱えるヴォルフラムの腕にも、ぎうと力がこもった。


「……っ!」


 息を呑んだ。

 正面には巨大なカエルと沼地が広がり、後ろには湿地帯最強の生物であるトラがいる。どこにも逃げ場がない。


(一体、どうしたら……)


 万事休すか、と思われた時、むっつりと沈黙していたシノビガエルがけたたましく鳴き始めた。喉の奥で汚い鈴を鳴らすような耳障りな音色だ。


「な、何……?」

「仲間を呼んでんだ」

「あなた魔物の声がわかるんです?」

「鳴き方でなんとなくどういう合図かはわかるだろ」


 その言葉でテオの頭にひらめくものがあった。マゴケトラはシノビガエルの天敵だ。天敵に対する防御手段を持っているのは、どの動物でも大体が共通のこと。


「シノビカエルはマゴケトラと遭遇すると仲間を呼ぶ習性があるらしいと聞いたことがあります」

「カエルどもは沼いっぱいにいる筈だぜ」

「トラかカエルかで言ったら……」

「断然カエルだな」


 予想通り、広い沼地からぼこぼこと卵型のカエルが現れては、輪唱に加わっていく。不快な大合唱が響き渡るころには、沼地いっぱいに巨大な蛙がひしめきあっていた。


「道が、できましたね」

「オウ」


 2人は頷き合った。

 トラとカエルがにらみ合っている隙に、ここを脱出するのだ。


 ヴォルフラムはテオを抱きかかえたまま、沼地へ跳んだ。

 着地するのはぶよぶよとしたシノビガエルの頭だ。空色の頭皮は弾力があるが不安定ではない。大きく沈んだ頭皮は、ぽーんと高くヴォルフラムを打ち上げる。次のカエルに着地して、また高く跳躍するというのを何度も繰り返した。


「うはははっ! たっけぇっ!」

「いやちょっとこれは高すぎ……」


 気が付けば沼地を飛び越え、竹藪の上空に2人はいた。

 着地のことを考えていなかったヴォルフラムは焦る。


「やっべ……!」

「大丈夫です。なるべく平地に落ちるようにしてください」

「んだその余裕!」


 くるくると回転しながら落ちる2人の身体は地面に到達する1m手前でピタリと止まった。テオの使った《空中浮遊》によるものだった。


「てめ~! 幾つ持ってんだよ!」

「んふふ、いくつでしょうね?」


 地面に降ろされたヴォルフラムのぽかんとした顔が面白くて、テオは彼の腹の上で小さく笑ってしまった。


「んふふふへ、ふふふ……」

「お前、変な笑い方すんなよ」


「いやだって、本当にダンジョンにいるだなって思ったら……んへははは」


 その奇妙な笑い声につられたのか、緊張が解けたためか、ヴォルフラムも笑い出す。

 竹藪に2人分の笑い声が響いた。

 



「近くに階段があるはずだ」


 そう言うヴォルフラムの言葉どおり、竹藪の近くには上階につながる階段があった。


 階段近くは野営地になりやすいので、ある程度水場が管理されているようだ。飲み水があるのはありがたい。ハンカチを濡らして、カエルに舐められた顔を綺麗にふき取る。近くの竹藪で竹を調達してきたヴォルフラムは、器用な事に2人分の水筒を作って水を汲んでいた。


「今日はここで休憩しましょう」

「おう」


 ダンジョンに落ちて、どれくらいの時間が経ったのかはわからない。この未明の湿地帯はいつでも夜明け前のような薄明かりにつつまれている。体感ではあっという間の時間だったように感じるが、2人の体にはもう動きたくないと思う程には疲労感があった。


 以前訪れた冒険者の野営の跡を見つけた。近くに忘れ物だろうマッチがあったので、適当な木の枝と乾燥した葉を燃やして暖を取る。水場を走り回った体は思ったよりも冷え切っていた。

 ヴォルフラムはテオのすぐ近くに座った。突然の襲撃に備えるためだ。テオは何も言わずに熱を分け合うように傍に寄った。


「今後の方針でも話しますか」


 ぱちぱちと跳ねる火の粉を見ながら言葉を重ねる。


「僕たちは最短で地上を目指します」

「オウ」

「道中金目のものがあったら拾います」

「ン?」

「40層付近の狙い目はこのレッカタケですね。熱を加えると激しく燃えるキノコです」

「ちょっと待てや」


 ぎゅむ、と大きな手がテオの頬を掴んだ。ちょっと目を離した隙に黒い笠のキノコをポケットに入れていた女はきょとんとした目で見上げてくる。


「お前、状況がわかってんだろうな?」

「あたり前じゃないでふか」


 その目はあくまで真剣そのものだ。


「あのドブ男は僕らをトコトン不幸にしてやろうと行動したわけです。命からがら地上に戻るだけなんて、思うツボみたいで絶対に嫌です」

「そりゃ、まあ、そうだけどよ」

「絶対にバイト代分は元を取ります」

「そっちが本音じゃね~か」


 「走んのは俺なんだぞ」と青筋を立てるヴォルフラムに「頼りにしてますね」と無表情のまま親指を立てる。再び頬を掴まれた。


 内心でヴォルフラムは拍子抜けしていた。

 彼女は一度もダンジョンに潜ったことのない一般人のはずだ。それがいきなりこんな所に放り込まれて、いつか泣き出すのではないかと気を揉んでいたのだ。


 予想に反して、テオはいつも通り冷静だった。

 それどころか、自分よりもダンジョンの事に詳しい気すらする。目を輝かせてダンジョンを眺める精神的な余裕もあった。


(余裕……というよりは、好奇心でそれ以外を忘れてる、みてぇな)


 そこまで考えて合点がいく。この素人女の目は、初めてダンジョンに潜る時のアルベルトに似ているのだ。怖いと好奇心と反骨精神が綯交ぜになった、駆け出しの冒険者の顔だ。


「……随分詳しいな。それも兄貴に聞いたんか」

「ええ」


 テオは懐から1冊の手帳を取り出した。

 キャラメル色のなめし革で装丁されたボロボロの手帳だ。ところどころに付箋が貼られ、何度も読み返されたのだろう、捲り皺がついている。


「兄の冒険記録です。冒険者の殆どは旅の記録をとっているものだと聞きましたが」

「……そういうのはアルベルトがやってたからなぁ」


 ヴォルフラムは「俺ァ、字が書けねぇんだよ」と頭を掻いた。


 学校は本土に行けばあるが、一部の富裕層の子どもが通うものだ。テオのような庶民は親兄弟や近所の人から習う。読み書きができない人間も少なからずいた。


「だから記録や帳簿はあいつがつけてた。あいつは生まれが商人の家なんだ。金の管理もあいつだったから、何が売れるのかくらいは憶えちゃいるが、どれくらいになるかなんてわかんねぇよ」

「……そんなに頼りにしていたのに別れたんですね」

「だって、あいつがいたら強くなれないからな」


 その言葉にテオは意外そうに呟いた。


「驚いた。あなた、彼の能力に気が付いてたんですか?」


 ヴォルフラムは「いや、勘」と首を振った。


 勘の一言で脱退させられた側はたまったものではないだろうが、意外とこれが馬鹿に出来ない。ヴォルフラムの野生の勘は今まで外したことがないのだ。実際、アルベルトは隠したスキルを持っていたのだし、テオの口ぶりからすると、あまり歓迎できるスキルでなかったのだろう。


(誤算だったのは能力の下がり方が想像の倍以上だったことと、他の奴らがアルベルトの思惑に気づいてなかったこと……まんまと騙されやがって馬鹿野郎どもめ)


 遠い目をしながら「やっぱり隠してるスキルがあったかよ」と口の端を歪める。

 それからハッとした顔でテオの方を向いた。


「なんでお前があいつのスキル知ってんだ」

「う、う~ん……」


 テオは眉間を揉んだ。

 完全に己の失言である。余計な混乱を招かないように、スキルについては秘密にしておきたかったのだが。


(彼に嘘はつきたくないしな)


 少し考えてから、打ち明けることにした。


「僕のギフトは《天の調色板》といいます。これは肉眼で見たことのあるスキルなら、3つまで自由に使えるようになるものです」

「へえ、あのすり抜けたやつと浮いたやつはそれか」

「ええ。今は《透過》と《空中浮遊》、それから……《鑑定眼》をストックしています」

「そりゃ便利だ……な」


 大きく目を開いたヴォルフラムが飛びのいて、テオから距離を取った。警戒するような眼差しで見られて、テオは僅かに眉を下げる。


「お前……知って……」

「あなたのカルマも、バーデンさんのギフトも全部、視えていました」


 両手を上げて「誓って口外しません」と告げる。すでにリーヌスに情報として売ってしまっているが、彼女なら情報源が漏れることはない。ちょっとずるいとは思うが、この事については口を噤ませてもらうことにする。


(……リーヌスには後で売らないように頼みましょう)


「でも、あなたのカルマは隠さずともデメリットはないと思いますが」

「だって、ダセ~だろうが。こんな性格であんなん持ってるなんてよ」


 ギフトは所有者の未来の暗示だ。一方でカルマは宿業なのだと考えられている。人としてのさだめ。生き方の、性根の、魂の形。

 彼の《付き従うもの》を知った人間が、彼のことをどう思うのか。同情か、はたまた憐憫か、とにかく多くの人が彼を見る目を変えるだろう。

 ヴォルフラムはそれが、何より我慢ならなかった。


「だから誰にも言ってねぇのに」

「誰にも? バーデンさんにもですか?」

「たりめ~だろ。あいつも隠してたんならオアイコだ」

「へえ」


 テオは興味深そうに頷いた。


(《付き従うもの》の効果を、アルベルト・バーデンは知らなかった。なら、彼は自分の力を過信している可能性がある。ヴォルのパーティに起きたのと同じ現象がアルベルトの身にも起きているかもしれませんね)


「お前のカルマはどんなんだよ」

「おや、直接聞きますか」


 じとりとこちらを見つめてくるヴォルフラムに手招きをする。テオの態度が変わらないのを見て安心したのか、拗ねたような顔をした銀狼はじりじりと元の位置に戻ってきた。


「知られても問題ないので言いますが、僕のカルマは《永遠の凡庸》です」

「とわの……?」

「レベルの上昇や修練に問わず、能力値が同年代女性の平均値で固定されるカルマです。魔法、薬、ギフト、カルマなどでもステータス変動系のものは悉く効かなくなりますが」

「は!?」

「僕は、どんなに望もうと、どんなに努力しようと、何者にもなれない。そんな宿命のカルマを持っているんですよ」


 凪いだマカライトグリーンの相貌が逸らされ、焚き火に向けられる。ちらちらとはねる炎が、温度のない彼女の目に映っていた。

 彼女の表情は変わらない。いつも通りの無表情だ。


(諦めてんのか)


 けれども、ヴォルフラムにはそう見えた。

 よれよれになった兄の冒険記録。ダンジョンに対する好奇心。冒険者への尊敬と憧れ。

 ここまで揃っていれば嫌でも気づく。


(こいつはきっと、冒険者になりたかった……いや)

(なりたいんだ、今も)


 ヴォルフラムは何かを言おうとして、言葉を必死に探した。もともと口の上手い方でもないし、他人を励ましたことなんてない。なんと声をかけたらいいかわからなかった。

 おろおろと視線を泳がせて百面相をするヴォルフラムを見て、テオは可笑しそうに笑いながら「気を遣わなくていいんですよ」と言う。


「隠していてすみませんでした。今日はもう寝ましょう。地上に戻るまでは安心できませんから」


 そう告げて横になった小さな背中を見つめて、ヴォルフラムは眉間の皺を深くする。


「強くなれないから、諦めてんのか」


 投げ掛けた背中に反応はない。


「強くなくても、夢を見たっていいだろ」


 だが構わずに言葉を重ねた。


 ヴォルフラムは自分の頭が悪いことはわかっていたし、気の利いた言葉なんて思い付かなかった。

 でも、どうにかして、この女の胸中にある望みを肯定してやりたかったのだ。何故なら、なりたい自分になれないのは、ヴォルフラムだって同じなのだ。それでも、彼女は自分の夢を笑わなかった。受けた言葉には、同じだけの言葉を返したかった。


「少なくとも、俺は、お前を弱いと思ったことはねぇ」


 ぱちん、ぱちんと炎がはぜる。

 ざわざわと竹藪が風に揺すられてざわめいていた。

 獣の声も、虫の鳴き声も聞こえない沈黙が2人の間におちる。

 やがて、返事が期待できないとわかった狼は、テオの小さな背中に背中を合わせるようにして眠った。傷ついた群れの仲間に熱を分けるような、そんな仕草だった。


「……ありがとうございます」


 狼の寝息が聞こえはじめ、ようやく声を出した女の声は震えていた。

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