第4話 傷ついた狼

 テオがヴォルフラム・ツァーベルの事を思い出したのは、それから割とすぐの事だった。


 すっかり酔いつぶれて足元のおぼつかないリーヌスを6番街にある家まで送り、ついでに買い物をすませた帰り道。6番街の路地裏に人だかりが出来ているのに気が付いた。その中心で人が倒れているのも見える。


「もしかして、病人ですか?」


 買い物袋を揺らしながら声をかけると、「うわっ」と飛び上がった人だかりは、蜘蛛くもの子を散らすようにして逃げていった。

 その内の1人が、倒れている人物の首から何かをむしりとるのが見えて顔をしかめる。よく見ればいかにもガラの悪そうな男たちだった。追いぎの類だったのかもしれない。


「そこの貴方、大丈夫ですか?」


 捨て置かれた白と黒の塊に声をかける。かけてから、「あっ」と声をあげた。


「ヴォルフラム・ツァーベル……?」


 灰色の石畳の上に転がりピクリとも動かないこの男は、ヴォルフラム・ツァーベルその人であった。黙っているところは初めて見たが、間違いない。


(僕には関係のない話だと思っていましたのに)


 大きなため息をついてから、目の前の薄い肩を揺する。


「ツァーベルさん。こんな所で寝ていると風邪をひきます……よ」


 濡れる感触がして思わず手を引っ込めた。べったりと掌に着いた赤を前に言葉を失う。

 黒い服で分かりにくいが、至るところに裂傷れっしょうがある。新しい傷からはじわりと血が滲んでいた。慌てて周囲を見渡すが、この場に戦闘の形跡はなく、敵影らしきものもない。


(だとしたらこの傷は……ダンジョンで受けた傷でしょうか。意識はなく、発熱もしている……)


 そこまで分析して(少し面倒ですね……)という考えが頭をよぎった。


 このまま置いておいても、他の誰かが見つけるかもしれないし、案外目を覚まして自力で帰るかも知れない。面倒事はできれば避けたいという気持ちが少しばかりあった。


 ふと、リーヌスの顔が脳裏のうりをよぎる。商売相手であり、唯一の友人である彼女と同じ『獣憑き』。よりによって6番街は治安が良くない。放っておけば人浚いに遭う可能性もある。 


 悶々もんもんと悩んでいると頬に冷たい感触が落ちてきた。

 曇天どんてんの夜空からポツポツと降り注ぐ、氷のように冷たい雨。こんな雨に打たれては、怪我人なんてひとたまりもないだろう。考えているうちに逃げ場を塞がれてしまった事に苛立って「ああもう!」と声を荒げる。


 コートの裏側に買い物袋をポイと投げ入れ、がばりとヴォルフラムを背負った。人の目がありそうな所でギフトを使いたくなかったが仕方がない。

 テオが天の調色板にストックしているのは《鑑定眼》と《ハンマースペース》、《空中浮遊》の3種類だ。後の2つは物を持ち運ぶ時に便利なので、買い出しの時などによく使う。物を出し入れする能力と、5メートルほどまで自在に物を浮かせるだけの能力。


 買い物袋は《ハンマースペース》でコートの内側に収納し、背負った男は《空中浮遊》でうっすらと浮かせた。そうでなくては、頭2つほど身長差のある男を担げるわけがない。テオの身体能力は悲しいほどに一般人の域を出ないのだから。


 担いだ青年の呼吸は浅くて早かった。首回りは熱を持っているのに、触れた手指は冷たく、震えている

「ヒトの背中で死なないでくださいよ」


 通行人にぎょっとされながらも、たったかとテオは駆け出した。

 数日後に真贋不確かな噂が飛び交いそうだが、知ったことではない。


***

 

 テオの自宅は5番街の中央にある。

 オレンジ色の街灯に照らされた真っ白な外壁を持つ小さな縦長の戸建こだて。オレンジ色の屋根のてっぺんには銀の風見鶏が睨みをきかせ、バルコニーの柵からは剪定せんてい不足のために成長のいちじるしいつるバラが溢れている。

 この家は数年前に父が建てたもので、2年前までは兄と2人きりで暮らしていた。


 玄関を入ってすぐの階段をのぼる。

 1階はダイニングだが、アトリエを兼ねているため、とても他人を寝かせるスペースなどない。2階にある2つの部屋のうち、少し悩んでから自分の寝室で寝かせることに決めた。


「よいしょっと」


 意識のない男をベッドに放り込んでからハッとする。慌てて確認するが時既に遅く。シーツとマットレスにはべったりと赤い模様が付いていた。


「何か下に敷くべきでしたね……」


 シーツとマットレスは買い換えることになりそうだ。

 手痛い出費にヴォルフラムを恨めしげに見ながらも、テオは手早く衣服を剥ぎ取りにかかる。ズボンに手を掛けところで少しばかり考え込んものの「これは医療行為、これは医療行為……」と唱えつつ下半身の衣服も剥ぎ取った。


 彼の容態はけして軽いとは言えず、腹部や肩、腕には大小様々な切り傷があった。特に酷いのは肩の火傷だ。50層には中型のドラゴンが出ると聞いたことがあったので、もしかしたらそれに遭遇したのかもしれないな、と思った。


「ドラゴンに遭遇したのなら、よく五体満足で帰ってこれたものです」


 感慨深げに呟きながら《天の調色板》を発動する。《ハンマースペース》を消して、代わりに《癒しの手》のギフトをストックする。

 《天の調色板》でストックできるのは、見たことがあるもののみ。また、入れ換えは1回につき1つだけ。入れ換えを行うと次の入れ換えまでに12時間のインターバルを要するなど、便利な代わりに何かと制約の多い力だった。


「《癒しの手》」


 火傷を負った肩のあたりに手を翳すと、白い柔らかな光がヴォルフラムの爛れた肌を包み、みるみるうちに元の滑らかな肌に戻していく。痛みが和らいだためか、顔色も穏やかになったように見えた。


「……あまり、ギフトによる回復はしない方がいいですかね」


 回復魔法や回復系のギフトを使う者は少ない。寝て起きて大怪我が治っていたら不審に思われるだろう。テオは自分の能力について問い詰められるのも、吹聴ふいちょうされるのも避けたかった。


 なので残りの傷は普通に処置することにする。


 戸棚に仕舞い込んだ救急箱から消毒液を取り出して、脱脂綿で傷口の周囲を拭っていく。冒険者御用達の傷薬を満遍まんべんなく塗りたくってからガーゼで保護し、包帯で固定した。


 服は少し迷ってから、隣室から男物の衣服を一式持ってくることにした。襟周りの大きい白いシャツとウエストが緩くて裾の広いパンツ。冷えるといけないので、緑色のカーディガンもそばに置いておく。


 今までは黒い服ばかり着ていたので厳ついイメージがあったが、こうして明るい色の服を着せると、どこか柔らかな印象の青年になる。薄い色素の肌や髪せいか、それとも意外と整った顔立ちのせいか。


「……しまった。使用期限過ぎてる」


 片付けようとした薬瓶の裏面を眺めて気づいた。

 まあ、塗ってしまったものはしょうがないし、ないよりはましだろう。何も見なかったことにして、空になったそれをごみ箱に放り込んだ。


「うう」


 音に反応したのか、ベッドの上のヴォルフラムが身じろいだ。

 寝苦しそうに首をもたげた後、うっすらと瞼を上げる。白いまつ毛に縁どられた隙間から、ライラックの花を思わせる紫色の瞳がぼんやりと周囲の様子を窺う。ゆっくりと瞬きを2回。

 すん、と嗅いだ匂いで此処が見知らぬ場所であると気が付いたらしい。がばりと勢いよく起き上がろうとして、痛みに悲鳴をあげた。何が起きたのか解らない、といった表情でベッドに沈む。


「動かない方が良いですよ。切傷、擦り傷、打撲がとにかくたくさん……よくもまあ、これだけの怪我を負ったものです。骨が折れていないようなのは幸いでしたね」

「……誰だ?」

「まずはお礼が先でしょう。そんなんだから、『ヒトの親切がわからない恩知らずなワンコロ』などと言われてしまうんです」


 そこまでは言ってにゃい、と頭の中でリーヌスが叫ぶがテオは無視をした。

 普段から表情の変化が乏しい彼女だが、無口なわけではなく、むしろ口数は多い方である。それも余分な方向に。


 案の定、ぎろりと鋭い目が睨みつけてきた。


「馬鹿にしてんのか」

「わりと」 


 無表情のまま肯定する。


「50層に単独で挑むなんて馬鹿のすることですから」

「うぐ……」


 ヴォルフラムは悔しそうにギリギリと歯を鳴らした。無茶をしている自覚はあるらしい。言い返そうと、わなわなと唇を動かしていたが、言葉が見つからなかったのだろう。結局諦めたように視線を逸らした。


 そうしてゆっくりと身体を起こすと、ベッドから立ち上がろうとする。


「ちょっと、動かないでください」


 慌てて止めた。

 非力なテオが両肩に手を置くだけで、ヴォルフラムの身体は容易に抑え込めた。置いた手を外そうとした大きな手に手首を捕まれるが、驚くほどに力が入っていない。震える白い手は、テオの手首に添えられるだけになっていた。


「傷に障ります。あなた、熱も出ているんですよ。大人しく寝ていてください」

「いらねぇ」


 嫌々と首を振られる。まるで幼子の駄々のようだ。


「1人で強くならねぇと意味がねぇ」


 続けられた言葉に目を見張る。


 テオは意外に思った。

 彼は今でこそ1人だが、前は大人数のパーティを率いてふんぞり返るリーダーであったので。力を鼻にかけて好き勝手している、チンピラ紛いの男だと思っていた。そんな彼が、金でも名誉でもなく、強さが欲しいと言う。潤んだ瞳に浮かぶのは焼きつくような焦りだった。


 小さくため息をつく。


「それで? 1人で無茶やって大怪我して、名前も知らない他人に面倒かけてたら世話ないですね。そういうのは、1人で馬鹿やってるって言うんです。勇敢と無謀は別物ですよ」

「なっ」


 赤い顔を更に真っ赤にした青年を「はいはい。怒らない怒らない」と宥めながら、ゆっくりと肩を押す。もともと力の入っていない身体は容易たやすく押し倒された。恨めしげな紫の目が見上げてくる。


「今はどうぞお休みください。一度手を出したものを、中途半端に放り出したりはしませんから」

「なんで……見ず知らずのてめぇが、んなこと……」


 唸るような声が途切れ途切れに尋ねてくるが、体力の限界だったのだろう。ヴォルフラムは答えを聞く事はないまま眠りについた。


「――なんで、ですか」


 乱れた毛布をかけ直しながら、彼の言葉を反芻する。彼を助けた理由なんて、成り行きとしか答えようがない。

 偶然、彼の倒れているところに通りかかり、たまたま彼が友人と同じ『獣憑き』であっただけ。

 そもそも、テオは人を助けるのに理由は要らないと思っている質だった。正義感などという高尚な理由でない。


 ただ、なんとなく、見て見ぬふりは座りが悪い。


「こんなものは只の自己満足ですから。あなたが気にするような事ではないですよ」


 うでまくりをして立ち上がった。


「さて、とりあえず氷枕でも探しますか」


 今日は眠れなさそうだ、ベッドの中から聞こえてくる荒い呼吸に、そんな予感を抱いていた。

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