誰がやっても同じ結果

浅賀ソルト

誰がやっても同じ結果

P.K.ディックの小説みたいな話。大袈裟。

「お前の母さんはお前を置いてほかの男と出ていってしまった」「家事もできない女だった」「一度不機嫌になると手がつけられない女だった」「最終的に一緒に逃げた男に殺された」

これを聞かされた私は小学生のときにそのまま作文にして提出したこともあるし、友達には軽く冗談っぽく話すこともあった。実際の母親のことは覚えていないのに。

そんな妻に逃げられたお父さんがかわいそうで私は家事をして家の中の担当者になったんだけど、どうやら父の言うことはおかしいぞと思うようになった。

子供の頃から何度か引っ越しをしたのだけど、高校生になって昔住んでいた場所の近くをたまたま通り、そこのよくお世話になっていた学童で働いていた女性と出会って、違う話を聞かされた。

「夫の浮気に呆れた妻が離婚届を置いて出ていった」「子供を連れていこうとしたが、暴力と監視のせいで無理だった」「あなたの母は普通に健在」

確かに母が浮気をしたというけど、どうも父には今でも付き合いのある女性がいるっぽい。まだ顔を合わせてはいないが、とっくに母のことなど忘れているっぽいし、なんなら恋に夢中になって私のことを邪魔だと思っているところも感じられる。

親戚というものと接触がないので、自分の家庭のことなのに、調べようとすると妙に手掛かりが少ない。

どうせなら小学校とか保育園にまで遡って情報を集めよう。近所の交番でも何か知っているかもしれない。すごく小さいころに福祉やボランティアっぽい人のお世話になった記憶もあるようなないような……。

「あなたは父親とは血がつながっていない。母の連れ子」「いや、それは嘘。ちゃんとした実子」「実子ではない。他人ではなく、両親が亡くなったために預かって養子にした親戚の子供」

「あなたの父も母も浮気していた。つまりダブル不倫」「奪い合いどころか押し付け合いだった。どちらも子供なんか欲しがっていなかった」

色々な人から話を聞くたびに、信じられない気持ちと、そういえばちょっと心当たりもあるという気もしてしまって、わけが分からなくなった。

「本当に仲のいい素敵な夫婦だった」

こういう声も聞き、実はこれも心当たりがあった。別に虐待を受けたという記憶もないし、父が言うほど夫婦仲が悪かったとか夫婦喧嘩が絶えなかったとかいうような殺伐とした記憶もない。普通だったんじゃないだろうか?

思春期を迎えたあたりから、父が母の悪口を言うほどに、それほど悪い人じゃなかったんじゃないかという猜疑心の方が強くなってしまった。そこまで繰り返しもういない人の悪口を言う必要があるかという気持ちと、『お前にとっては所詮他人だったのかもしれないけど、お前が言ってるのは私の母の悪口なんだよ』という気持ちである。

普通に健在という話をしてくれた学童の女性だけど、いま私の母がどうしているのかということは知らなかった。

高校生にもなってくると、それまでの経験で父に母のことを聞いても無駄ということは分かってきていた。何が本当で何が嘘なのかも分からない。むしろ全部嘘なんじゃないかという気持ちにもなってくる。

そもそも母の記憶が一切ないので根拠とか拠り所になる〝事実〟が一切ない。

昔は家の中に母のものとか痕跡のようなものが——あれは母のものだったんじゃないかという物が——あった記憶もあるのだけど、引っ越しを繰り返すにつれてそういうものは消えていってしまった。

鍋敷きとかランチョンマットだとか箸やスプーン、洗面所や浴室にあったあれこれも消えてしまった。

子供の頃に捨てないでとお願いしたのに捨てられて泣いたものもたくさんある。思うと父はなぜああまで私が愛用していたものを次々に捨てていったのか。自分の執着と、捨てようとする父の執念のようなものを感じてしまう。

保育園のとき、仲のいい友達がいて、そのママ友というのがいた記憶がある。

あの友達の名前はなんだっけ?

そこで、自分には母の記憶が本当にないということを思い出す。保育園のママ友などというものがいればそれはさすがに自分に母の記憶もないとおかしい。母が私の元から去っていったのは一歳とか二歳とか、せいぜいそのくらいの時期のはずだ。

色々考えすぎて人の話を聞いていくうちに自分もおかしくなっていた。なんだかドラマや映画やマンガの話と自分の記憶が混ざってきている。

私は、現在の高校の担任である猪又先生に放課後に相談があると話し掛け、そこで時間を作ってもらった。

「先生が私の家庭環境をどの程度知っているのか分からないんですけど、うちが父子家庭なのは知ってますか?」

「知っています」

猪又先生は勉強の質問ではないというのは理解したようだ。身構えていたので私は補足した。「知らなければいいんです。だんだん父が教えてくれない自分のことが気になって。先生が教えてくれたということは言いません。ただ、父の悪口を言う人もいて、どちらが本当のことか分からなくなってしまって」

先生は黙って頷いた。

「私のことで先生が知っていることを教えていただけないでしょうか?」

猪又先生は前置きですべてを話すことはできないと言った。その上で、これは話しても大丈夫だと思うことだけ話します、と。

「幼い頃に母がいなくなり、シングルファーザーとしてあなたを育てているというのは聞いています。また、あなたに母親の記憶が一切ないということも聞いていますが、それは正しいですか?」

「はい。母親の記憶はないです」

「あなたにも言っているのを見ているのでこれは言っても構わないと思いますが、お父様は我々教員にもプライベートなことを説明するときにあなたの母親の悪口を言います」

「はい」その様子は想像がついた。

「それだけです」

「……私の父は赤の他人にも『男を作って逃げちゃったんですよ』と必ず言うんです。けど、最近になって、それは父の嘘だと言う人がけっこう出てきたんです」

猪又先生はしばらく考えていた。

それからやっと口を開いた。

「諸説あることを、誰が何を言ったかを教えることはできます。種類を集められます。しかし、あなたがどれを信じるかという話は別です。まだ高校生であるあなたには難しいとは思いますが、よく覚えておいて欲しいことは、親であっても親友であっても、誰も本当のことなど言わないということです」

「みんな自分に嘘をつくということですか?」

「そういう解釈でもいいですが、私はいつもこのように考えています。言葉より行動や結果から判断すべきだ、と。なぜ、とか、どうして、を考えるのも大事ですが、理由や動機を結果より大事にするのはよくないのではないか、と」

育ててくれた父に感謝しなさいという話だろうか? 私は何も言わなかった。

「男手一つであなたを育てたのは事実であり結果。しかし、なぜ育てたのか。それが愛情だったのか、それとも憎しみだったのか、エゴだったのか、博愛の精神だったのか、そのことをあまり大事にしすぎないということです。どんな理由であれ、あなたは大きくなり、これからどんどん親の手を離れて大人になっていくということです」

ここで私の目から鱗が落ちればドラマチックなのだけど、私にはなんだかぴんと来なかった。

結局のところ、これまでの父の態度というものも、愛情だったりもしたけれど、ただの支配だったりもしたし、本当にときどきは気持ち悪い視線すら感じていたわけで、何も真実など——私が望むような理想的な真実など——そこにはなかったからだ。

猪又先生は言った。「その点、科学はいいですよ。善人でも悪人でも誰がやっても、目的がなんであっても、同じ条件なら同じ結果が得られますからね。科学に目的とか動機はありません。ただの現象です」

急だった。前後の脈絡もない話の宙返りが発生した。しかし、先生が言っている科学についての話は妙に腑に落ちて納得できたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

誰がやっても同じ結果 浅賀ソルト @asaga-salt

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ