二  狛犬

 翌朝は、嘘のようにれわたった。

 さて、真先まっさきに気になったのはあれのこと。

 だからと言って、自分はあれをじかにの当たりにする自信はない。

 ただ、行かねばならぬという、義務感が肚の底からわくわくと責立せめたてる。


 とりあえず、飯も食わず、顔も洗わぬままにほこらに向かった。


 まず、自分を出迎えるのは、左右に配された狛犬。これはいつものこと。

 実に可愛らしい笑みを浮かべているが、何でも随分古いものらしい。右の方の狛犬のみ尻尾の一部が欠けて喪われているが、それ以外に壊れた所はなく、彫の風化も少ない。台座の上面、狛犬の足許は、鮮やかな緑色の繊細な苔が、そこだけしとねのように柔らかに覆っている。苔は台座の側面にまでは及んでいないが、代わりに大いに繁茂した露草つゆくさの葉が、狛犬の周囲を包むような恰好で埋め尽くしており、いくつか青い花も垣間かいま見える。露草をけて銘を訪ねると、きちんとした楷書で「享和壬戌きょうわじんじゅつ」の文字が読まれるが、歴史に疎い自分にはいつの時代だか見当がつかぬ。

 狛犬の造形の巧拙はと問えば、むしろ拙の方に傾いているように思われるが、それが却って好い味わいでもある。上下から潰したような横広の顏が、歯をむき出しにしてにやにや笑っている。それが何とも可愛らしい。


 ただ今日は、その二頭の狛犬が何だか妙な具合に黒々としていて、表情も曖昧に映る。

 近付いて見ると、何百、何千とも知れぬ団子虫やら、草鞋わらじ虫やら、陸馬やすでやら、そうした小さな虫たち。

 二頭の体にも顔にも頭にも、あまっさえ、阿形あぎょうの口の中や歯の上にまでも、おびただしい数の蟲どもが這廻っている。

 自分の体や、あろうことか、顔や口の中までをも、小さな蟲どもに侵寇しんこうされるおぞましさ。

 ほんの少し想像するだにゆゆしいものだが、この二頭は、一向意に介する様子もなく、まったく平気なそぶりで愉快そうに、にやついている。


 おそらくは、夜来の激しい雨が小さな生物いきものにとっては、古代のノアがこうむったような洪水ともなり、行き場を失ったかれらは狛犬の上を避難所にしたものだろう。もうすっかりれ渡ってはいるものの、露草の根方の地面はまだ大分だいぶぬかるんでいる。かれらにとっては、なかなか戻るに戻れぬというあんばいらしい。


 しかし、うごめく蟲どもを取付とりつかせて、なお、にやにやしている狛犬。

 何だかどうも、厭なものを見てしまった。




                         <続>





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