第2話
外でメルが鳴いている。
メルは僕の友達である。友達と言っても、猫なのだけれど。
「メルー。どこー。おいでー」
裏口からメルの鳴き声が聞こえる。僕はサンダルを履き、ドアノブをひねって裏口から出た。
裏口から出たとたん、むっとした湿度、ヒグラシの鳴き声に出迎えられる。もう午後七時だというのにまだ空が赤い。
メルが低い声で鳴いている。この声は威嚇している声だ。
メルは茶トラで体が大きく喧嘩っ早い性格をしているので、また野良猫と喧嘩しているんだろうと思った。
裏口のゴミ捨て場にメルはいた。
「うわっ」
メルが威嚇していた相手はアンドロイドだった。コンクリートの上で座り込み、眠っている。長い髪を一つ結びにし、体に曲線があるので女性型アンドロイドだと分かる。不自然なほどに整った容姿をして、エプロンを着ている。
僕はとっさにメルを抱きかかえ、裏口から家の中に放り投げた。抱き上げるときにおもいきり腕を嚙まれたが気にしない。
裏口のゴミ捨て場に戻る。やはりアンドロイドはそこにいる。
僕は考えるより先に、アンドロイドを抱えた。めちゃくちゃに重く、腕をもって引きずるのがやっとだった。腕はひんやりと冷たい。金属の上にシリコンをかぶせた作りで、稼働時は熱を発しているのでより人間に似た感触になるとテレビで見たことがある。
やっと家のリビングに持ち込むと、居間にアンドロイドをうつぶせに寝かせた。そして僕は頭を抱えた。
2056年現在、世界には人類の形をした生命体が二種類存在する。一つは僕を含めた我々普通の人間。そしてもう一つは「アンドロイド」と呼ばれる人間型ロボットである。感情を持たないが、倫理観を持つことはできる。二足歩行をし、人間よりはるかに優れた知能を持っている。2050年にアメリカのシリコンバレーで開発されて以降、富裕層向けに「家庭用アンドロイド」と呼ばれるロボットが開発、販売されるようになった。彼らは家政婦のような役目を主におっており、家事全般はもちろん、子供の面倒を見ることもできる。見た目もほとんど人間と変わらず、人間の機微を理解することができる。
アンドロイドは非常に高価な値段で取引されるので、腕や足といったパーツだけでも僕の半年で稼ぐ値段に相当する。あるネットショッピングサイトを見ると、首のパーツが僕の年収の三分の一の値段で取引されていた。
本当は、警察に届け出るべきなのだろう。捨てられているといっても、アンドロイドは資産に値する。こんな高価なものを持っていては窃盗罪になるかもしれない。
スマホを手に取る。110とキーパッドに入力する。いやでもとスマホを置く。スマホを手に取る。
しかしどうしても警察に連絡をする気になれない。仕事をしているのがばかばかしくなるほど高価なものが今目の前にあるのだ。
僕はいったん考えようと、立ち上がりトイレに行き用を足した。手を洗面台で洗う。ふと鏡を見ると、僕の背後に包丁を持ったアンドロイドが立っているのが見えた。
僕の体は石になった。全身がつったんじゃないかと思った。夕日に照らされてきらきらと包丁が綺麗に光っている。
アンドロイドのただならぬ雰囲気は「す、」と僕の心を凪いだ。僕は膝から崩れ落ちた。何も考えられない。体だけははっきりとしたこれから来る「死」を理解していた。今から僕は殺されるのだ。アンドロイドに刺されて殺されるのだ。
アンドロイドがゆっくりと包丁を両手で構える。なぜかスローモーションに見える。
気づくと僕はアンドロイドに押し倒され、首元に包丁を突き付けられていた。口を尋常じゃない力で抑えられ、声が出せない。息が荒くなる。アンドロイドは真顔で僕の顔を覗き込む。
「警察に連絡しますか?」
アンドロイドが僕に聞く。
しかし音はしっかりと聞いているのに脳が言葉の意味を理解してくれない。
「私の要求は一つです。ただこの家にいさせてください。もし死にたくなければ警察に連絡しないでください」
僕はとっさに縦に首を振る。アンドロイドは続ける。
「私は分子レベルであなたの動きを察知できます。少しでも私が危険だと思う動きをあなたが取れば、あなたは私に殺されます。分かりましたか?わかったら首を縦に振ってください」
僕は首を縦に振ることしかできなくなったみたいに、何度も首を振った。
すると、アンドロイドは僕を解放し、背中を支えて起こしてくれた。
そして、まだ動けない僕の前に正座して頭を下げた。
「製造番号T-2341、私は家庭用アンドロイドです。私にできることがあれば、何なりとお申し付けくださいませ」
僕は何も言えず、まだ腰を抜かしたままだ。
「ご主人様のお名前を伺ってもよろしいでしょうか」
僕はまだ固まっていた。状況を飲み込むことができない。
「ご主人様?」
「岡崎……裕介」
「どうぞよろしくお願いいたします、裕介様」
AI隠居生活 石橋梛 @Ishinagi
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