とおいさいはて

かぎろ

🌌

 常盤酒場で古島が確保した席はどう見ても十八人くらいしか座れず、僕を入れて二十一人のメンバーは「狭いなー」「荷物置けない」「そっち詰めて」「よいしょ」「これで全員?」「こっち置けるよ」「主役は真ん中な」「加藤がいま外でタバコ吸ってる」「詰められますか?」「三輪はデカいからこっち」「なんでこんな狭いんすか」「狭い」などとがやがやしながらなんやかんやで自分の場所に収まった。店員に生ビールと巨峰サワーとレモンサワーとポテトと男梅サワーとハイボールとサラダと鶏皮となにかとなにかとなにかといろいろ注文して、わりとすぐに飲み物がきて、古島が「戸田、音頭とってー」と言うから、僕は「えーこのたびは私のためにお集まりいただき……」とおどけてほぼ全員からブーイングを受ける。「冗談ですよ冗談。はい、じゃあ遠峯さんの華々しい門出を祝して、」と今度は真面目に、にこやかにジョッキを掲げた。


「かんぱーい!」


 みんながお酒をグイグイと飲んでぱっはー!とやっている間にも、遠峯さんは静かに微笑み、小さなコップの烏龍茶を飲むだけだ。


 遠峯さんの送別会には、サークルのメンバーの他にも同じ学部とかいろんなところから人が来ていて、彼女の人望の高さを窺わせた。我らがブラスバンドサークルにおいて彼女はサックスの即戦力で、僕なんかすぐ追い越していったのに、いつでも礼儀正しく爽やかで、ユーモアもありドジもあり、僕だけでなくみんなから好かれていた。これからは海外で今まで以上に活躍していくのだろう。

 しみじみとしていると歌が聞こえてきて、何事かと見ると宮野が立ち上がってアレクのワタリドリを歌っている。できあがるのが早すぎるだろ。歌詞の英語の部分はわからないからほぇぁほぇぁとか声を出して誤魔化していて、僕は噴き出した。みんなも笑っている。古島も立ち上がってふぇぁふぇぁ言い出した。こいつら、と思いながらポテトにケチャップを付けて食べる。美味い。「アンコール!」「やめろバカ調子乗るぞ」「津軽海峡冬景色歌いまああああああああああああああ」「これ出禁ならん?」「次何頼みますかー」「グレフルサワー!」「日本酒」「水がジョッキで必要すよ」「すみません、お手洗い行くんで通して」「緑茶ハイ」「あああまぎいいいいい越おおおおおえええええええええ」「津軽海峡じゃないじゃん」「これ美味しい」「なんだっけそれ?」「なんか肉」「グレフルサワーと、日本酒と、水と、緑茶ハイと、ファジーネーブルお願いします」「水はジョッキ」「あっ水はジョッキでお願いします」僕はくっくっと笑いながらレモンサワーをちびちびと飲んで、ふと、遠峯さんの席へ目をやった。いなかった。


「ちょいタバコ吸ってきます。すんません通してください」

「はーい」


 僕は居酒屋を出た。


 都内でもこのあたりはそこそこ静かだ。


 道路に面していて、時折、車が滑るように横切っていく。


 通行人はまばらで、誰もがゆったりと歩いている。


 ひんやりとした秋の空気は、アルコールで火照った体を冷ますのにちょうどよかった。


 僕は彼女を見つけて足を向けた。


 居酒屋の隣のビルは電灯の寿命が近いのか、薄暗い。これでは虫さえも寄らないだろう。ぼんやりとした光のなかでは、月明かりの方が確かだった。


 遠峯さんはそこにいた。


 月に照らされている。


 声をかけることをすこしためらった。


「戸田先輩」


 遠峯さんの深い瞳が向いていた。


「おつかれさまです」


 先に話しかけられてしまった。小さく微笑んで、遠峯さんはまた月を見上げる。


「飲まないの?」

「未成年ですから」

「そうだったね」


 所在なく、僕も月を仰いだ。満月だった。


「オーストリアだっけ?」

「はい。ウィーンからオファーが来ています」

「がんばってね」

「ありがとうございます」


 ちらりと横の彼女を盗み見る。頬は、月明かりで青白い。幻想的でさえあった。僕は逡巡ののちに、口を開いた。


「遠峯さん」

「でも、蹴りました」

「え?」

「ウィーンからのオファー。蹴りました」


 遠峯さんの顔を見る。表情は変わらない。いつもの穏やかな微笑だ。


「蹴った?」

「夜の果てには何があるのでしょうか?」


 月を瞳に映したままで、遠峯さんは囁くように言った。


「急だね」

「叡淵冷はなぜ層解で、なぜ妙聯の候亭明繹なのでしょうか?」

「え?」


 こん、と足を踏み出して、遠峯さんは歩きだす。

 月に吸いこまれるように。


「わたしたちはその答えを持ちません。足等可黙殷は、どこから陸8圏なのか。懺別楼ェ計は、どちらが参場テz摸コィ智qニなのか。集t差Rq痲ヒ転零は、笑うように浮かび上がって、わたしたちの不ソ邊加7ャ銀是にさえも届くことがあります。でも依然として答えは、どこまでも、なみなえません。しゃるえらみたいに」


 夜の上に立って、遠峯さんは、僕を見下ろした。

 背後に満月。

 蒼い瞳。


「探しにゆきます」


 翼だった。


 それは、羽でも、翅でもなく、かたちさえなかったけれど翼だった。


 遠峯さんが月光を縫い上げて、全身に纏ったそれは、確かな翼として存在した。


 す、と指で天を突く。


 遠峯さんが指さす先には、満天の星空。


「夜の果てにある。事象の果てにある。ほんとうのことを探しにゆきます」


 髪は光の群だった。血管は光の束だった。遠峯さんの内側で、ありとあらゆる光の熱が、那由他の紋様で脈打った。


 不可思議な夜。

 溢れだすようなこの夜に。

 差し伸べられる、遠峯さんの手。


「一緒に行きませんか?」


 僕は動けない。

 何も言えない。

 遠峯さんは、また、ほんのりと目を細めて、微笑した。

 許されたのだとわかった。

 それは同時に、別れを意味した。

 音はない。

 風もない。

 翼がはためき、彼女は跳ぶ。

 時空が刹那に捻じれて千切れ、遠峯さんはいなくなった。

 僕は居酒屋に戻った。

 宮野がまだ歌っていた。古島が泥酔していた。三輪が、吉野が、加藤が、猪谷が、酔っぱらっては馬鹿騒ぎしていた。

 賑やかな輪のなかへ、僕はまた入っていった。「遅いよー」と小突かれた。僕はごめんごめんと笑い返した。レモンサワーがまだ残っていて、溶けた氷でやや薄くなっていた。それを飲んだ。くだらない酒だった。ははは、と僕は笑った。


 体のなかのどこにもない心が、寒い。

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