エピローグ

 面会時間が過ぎた病室は静かで、廊下を歩く微かな足音以外は聞こえてくるものはなく、森大地は椅子のように背凭れに角度を付けたベッドに寄りかかりながら、開いた文庫本に目を落としていた。活字を照らすのは煌々と降り注ぐ満月の灯し。鮮烈な明かりではないが、却って眩むこともなく、穏やかな気持ちで文章を追うことが出来る。

場面は最終章。探偵が事件の様相をつまびらかにする場面。

 ガラッ。病室の引き戸が微かに開いた。「あれ?」と森は活字から顔を持ち上げ、首を傾げる。面会時間はとうに過ぎているし、就寝の見回りまではまだ時間がある。何事だろうか。


「具合はいかが?」

 廊下の眩い蛍光灯の白色を背負って入ってきたのは、従妹の網辺愛梨だった。

 女子にしては高い背に、整った顔立ち。モデルのような美しさを有しているからこそ、深い知性を感じさせる切れ長の眼は冷たく、怖ろしく感じる。いや、本当に恐ろしいのはその奥に繋がる脳味噌だ。

 物事の判断に一切の情を挟むことのないその思考は、通う高校では随一で、他を寄せ付けることはない。現に、森自身も幼少時から親戚付き合いを続けているが、網辺愛梨に勝てると思った分野は今までない。

「明日退院だから、もうお見舞いなんて良いのに、」

「今日はお見舞いではなく、お礼に来たの。」

 網辺はゆっくりと扉を閉めると、ベッドの正面に設えられているソファに断りもなく腰を下ろす。全てのものが自身のために整えられているものとでも言いたげな不遜な所作は、さながら女王のようである。


「お礼ということは、万事上手く運んだのかい?」

 文庫本を閉じ、月明かりだけに照らされた蒼白い少女の表情を窺う。彼女は「ええ、おかげさまで。」と、薄い唇を穏やかな弧を描いて微笑む。

「そうか。それならば、怪我をしたかいがあったというものだ。」

 すでに包帯やガーゼが外された、明日の退院を待つだけの頭部を撫で上げると、わずかに他の頭皮とは質感の違う柔らかく膨れ上がった肉質が指の腹に引っ掛かる。

「でも、彼女がよく君の考えに付いていくと決めたもんだね。推薦しておいてなんだけれども、彼女は小柄で大人しい印象とは裏腹に、中々頑固な性格の持ち主だ。」

 森の脳裏には、背丈の低い艶やかな黒髪を切り揃えた可愛らしい後輩の姿が浮かぶ。前髪で見え隠れする瞳は、大きくくりりと網辺とは対照的でありながら、奥底にある意志の強さは通底しているように感じる。


「その点は確かに手を焼いたわ。でも、学年二位の知性はどうしても欲しかったの。」

「学年一位の思考に付いていけるのは、学年二位の彼女だけということか、」

「ええ。その点に関しては、期待以上だったわ。」

 天井を見上げ、蠱惑的に浮かぶ微笑が彼女の満足度を十二分に表していた。

「君が認めるのだから、余程なんだろうね。」

「私の一の発言で、彼女は五も十も理解してくれるのだもの。使い勝手が良いわ。」

「あんなに仲良さそうにしていても、結局は道具にしか見ていないというわけか、相変わらず怖い女性だ。」

「道具ではなく、駒よ。」

 網辺は空中で人差し指と中指、そして親指の三本で何かを掴み取り、目の前のローテーブルに見えないそれを指す。


「女王様を守るための駒かな?」

「いいえ、クイーンは所詮同じ盤面の存在でしかないわ。」ゆるりと首を振り、闇色に溶け込む漆黒の髪を左右に揺らして、網辺はテーブルの上に並ぶ見えない駒を手早い動きで指し並べていく。「私はプレイヤー。そして、彼女や貴方はその指し駒。」

「恐れ入ったよ。それで、そのプレイヤーは今回の事件をどのように詰めて行ったんだい?」

 概要は事前に聞いていたが、細かな手順までは森も聞いていない。わざわざ礼を言いに来るのだから、全ては彼女の思惑通りに着地したのだろう。末恐ろしい従妹のチェックまでの筋道が気になった。


「最初に違和感を覚えたのは夏休み明け。福家が骨川から暴力を振るわれるようになっていたけれども、不思議なことに大きな怪我をすることがなかった。知恵の足りない骨川がいじめを隠匿するために加減しているとは考えつらいし、ならば狂言だろうと無視をしていたの。それから、何者かに悪意を向けられていることを感じはじめたけれども、大きな実害もなく、これも無視を続けたわ。」

 網辺は詰まらなそうに一息吐き、制服のポケットから一枚の紙切れを取り出す。そこには、『元一年三組の生徒は犯罪者だ。卒業式を取り止めろ。』と書かれていた。

「元三組を告発する手紙だね。」

「ええ。悪戯とも考えたけれども、もしも卒業式の中止なんて起きれば、学校はもちろん生徒会長の瑕疵にもなりかねない。調べてみると、どうやら二年前に図書室で自殺未遂事件があったことが分かったのは良いけれども、まさか図書室を調べている様子がドッペルゲンガーの噂になるなんて、予想もしていなかったけれども。」


 彼女とて神羅万象全てを予測し、操ることが出来るわけではない。時には想定外のことも起こりえる。ドッペルゲンガーの噂は、まさにそれだったようだ。

「でも、その噂を利用して、君に悪意を向けている存在の正体を判明させる罠を作り出すのは、流石だね。」

「貴方が女装なんて不慣れなことを了承してくれたお陰よ。」

「頼まれた時は驚いたよ。『女装して殴られろ。』なんてね。」

 森は苦笑を浮かべ、肩を竦める。今まで生きてきて、一度も女装などしたことがないのに、唐突に年下の女子に命じられた時は躊躇いを覚えた。しかし、彼にとって目の前の女性は歯向かうことの出来ない存在だった。

「あら、私は『殴られろ』なんて言っていないわよ。だって、刺されるかもしれなかったから、『襲われて』とお願いしたはずよ。」

「いやはや、本当にチェス駒くらいにしか思っていないんだな。」

「あら、将棋と違って、チェスの駒は戻ってこないのだから、大事に扱っているわよ。」

 どうにも大事に扱うの概念が違い過ぎる。きっと彼女にとっては「扱き使う」と「大事にする」が同義語なのだろうと、森は内心溜息を吐く。


「それで?」

「期末試験でカンニング行為をする事件が私のクラスで起きたの。実行犯は考えるまでもなく分かったのだけれども、その手の込み具合が、知能の低い人間らしからぬもので、違和感があった。何に違和感を覚えたのかすぐには分からなかったけれども、深く考えてみれば、夏休み明けに感じた違和と同質のものだと気が付いたわ。激しい暴力を振るわれた割に、怪我をしていない人物。」

「人間、芯のところでは頑丈だけれども、表層は案外と脆いからね、殴られれば簡単に怪我をする。自分がそれは保証する。」

 軽く握った拳を森は自身の頭部にぽかりと振り落とす。網辺は細い顎を引き、小さく頷くと、再び詰めの手順を語り出す。

「普通、いじめられている振りをして得することなんて何もない。だから、私は何かがあると直感した。そして、貴方に動向を監視してもらっていると、読書会で私への憎しみを増長し、闇討ちできることを示唆していたという。そこで、感じていた悪意の主がそこで分かったの。」

「その時点でそこまで把握しているのならば、なんでもっと早く彼を捉えなかったんだい?」

 にわかに不満の色が混じる。もしも彼女が察した段階で黒幕を捉えていれば、森は女装をすることもなく、殴られる必要もなかった。


「だって、その段階で彼の行いを質しても、私に何の利益もないもの。」

 網辺は他人の危害など気にも留めることはなく、けろりと答える。

「君に向けられている悪意が取り除かれるのはメリットではないの?」

「瑣事を払ったところで、何の得もないわよ。むしろ、利用価値が生まれるまで放置していたほうが得策。」

「そして、第三の事件というわけか。」

 最後の事件。それが第一の事件や第二の事件の延長線上にあることは分かっていたが、網辺の話を聞いていくうちに、それは彼女が放置し、醸成していった事件なのだと、森は解釈を新たにする。


「ええ。さっきの告発状を劇的な演出で十津根に見せて、二年前の事件に興味を抱かせた。」

 ただ、文庫本の頁から現れるのは、あまりにも過剰過ぎたわねと網辺は苦笑しながら付け加える。しかし、読書好きの人間は得てして劇的な展開を好むものだ。それは大衆小説だろうと純文学であろうと変わらない。

「彼女が痴漢の被害者というのは知っていたのかい?」

「いいえ。その点は予想外の出来事だったわ。でも、お陰で彼女はより事件を自分事として、感情移入してくれたのは幸運ね。」

 ドッペルゲンガーの噂もそうだが、予想外のことが起きても、それをすぐに自身に利用価値のあるものへと置き換える能力に、いつものことながら森は舌を巻く。いや、もしかしたら彼女が利用できるものしか、神は予想外を準備していないのかもしれない。とすれば、目の前で月光を浴びて輝く網辺は神の寵愛を受けているのかもしれない。森はその神々しい偶像を恍惚の面持ちで見詰める。

「君と一緒に行動を共にすると、意識しようがしまいが、心は次第に君の色に染まっていく。彼女も、その思考に君の影響が出るようになったのだろうね。」

「ええ。最後の推理劇の場面なんて、私の言葉をとても深く理解してくれていたわ。きっと良い右腕になってくれるでしょうね。」

 微笑を浮かべる口の端がむずむずと蠢き緩む様は、本当にあの少女が気に入っていることを傍からも認めることが出来る。それは森にとって多少とも面白くはなかった。


「でも、来年の選挙に勝たなければ、皮算用に終わるよ。」

「大丈夫よ。勝つもの。」

「傲慢は足元を掬われるよ。」

「違うわ。九条法子を襲った人間を解き明かしたことによって、彼女を慕っていた現在の二年生に恩を売ることが出来た。生徒会選挙において、上級生へのリーチこそが勝敗の鍵になるの。」

「もしかして、九条法子が襲われたのは……、」

 森の表情がわずかに引き攣る。今までも、網辺の思考は二手三手を先じていたが、こればかりはあまりにも悪魔じみている。彼女を例え信奉していたとしても、にわかには信じられない。


「察しが良いわね。」薄い笑みは青い月明かりに照らされ、氷のように冷たく輝く。「二年前の元三組の事件を調べていると当事者たちが知れば、そのリーダー格が現れると思っていたわ。案の定、九条法子は教室にまでわざわざしゃしゃり出て来てくれた。お陰で、彼にも当時の三組のリーダーが誰なのか分かり、復讐する相手の選定に役立ったし、彼が行動に出てくれたおかげで、教師たちの腐敗した事なかれ主義を批難する機会を私は得ることが出来た。」

 止まっていた手が、見えない盤上の駒をひとつ二つと指で弾いていき、最後にその中心に、力強くクイーンを指す。

「これにてチェックメイト。」

 騎士も僧正も皆倒れ、相手のキングすらその架空の盤面にはすでにいない。ひとり佇むのは女王ただ一人。


「君の話が本当だとすると、一連の全ては君のたなごころの上で踊っていただけだったことになるね。本当に恐ろしいよ。」

「私に盾突く人間も排除できたし、上級生へのアピールも出来た。何より、従順な参謀を得ることも出来た。上々の戦果ね。」

 今回の結果に、網辺は満足の笑みを浮かべる。しかし、不図自身の掌に視線を落とすと、口許の笑みは静かに潜み、黒い瞳に一抹のもの寂しさが差す。

「でも、ひとりでプレイするゲームは面白くないわね。私と対峙してくれるプレイヤーはいないのかしら?」

 細い指は、月明かりで汚れない白に塗られ、暗い病室の中でひらりと舞うごとに残像をその網膜に残し、ピンッと撥ねた人差し指が残されていたクイーンを盤外へと弾き飛ばす。

 コツンッ、と空想の駒は床に落ち、乾いた音が網辺愛梨の耳には聞こえた。


                             END

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女王の掌はダンスホール 乃木口正 @Nogiguchi-Tadasi

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