第3話 ⑩

「僕が黒幕だって? 冗談はやめて欲しいな。」

 細い面の口許に、コンパスで描いたような綺麗な弧が浮かべ、福家は肩を竦めた。

「冗談で人を貶める趣味はないわ。」

 制服のポケットから例の写真を取り出し、福家の座る机に置く。映し出されているのは、斎藤と肩を組んで並ぶ塚田黒斗。

「福家くんに似ているね。」

 ぽつりと林檎が漏らす。

 そう、斎藤から写真を見せてもらった瞬間、私と網辺も同じ感想を抱いた。そして、確認したところ、塚田黒斗には弟がおり、その弟こそ福家玄夜だと教師は教えてくれた。

 彼も、三年生の間で噂されているドッペルゲンガーの正体を確認するために赴いた図書室ではじめて福家と会い、その面影に驚いたという。と、同時に、噂の正体が彼であることも気付き、塚田黒斗との血縁関係を確認したところ、弟だと明かしてくれたそうだ。


「この塚田黒斗こそ、自殺未遂を図った元教師であり、福家くんのお兄さん。つまり、彼には私を恨む歴とした理由がある。」

 苗字が違うのは、痴漢事件及び自殺未遂の後に両親が離婚をしたかららしい。福家が兄の復讐を考えはじめたのは、もしかしたらそのことも関係しているのかもしれない。

 そして、さきほど証明したように、事件を裏から操ることが出来たのも福家ただ一人なのだ。

「状況証拠だけじゃあないか。僕が黒幕だという具体的証拠はあるの?」

 口許の笑みはそのままに、福家はあたかも今までの話が自身に無関係の話題ででもあったかのように問う。

 ここまでの推理は網辺とともに様々な情報を集め、彼女が発する推理の指標を参考にすれば、おのずと導くことが出来るものであったが、彼が求める確かなる証拠を発見した記憶はない。それとも、私が気付かなかっただけで、網辺はそれをすでに手中に収めているのだろうか。

私は福家に向けていた視線を網辺に戻す。すると、彼女も彼と同じように、美しい弧を唇で象っていた。


「残念だけれども、ないわ。」

 笑みを浮かべたまま、網辺愛梨はゆっくりと答える。

 周囲からは「えっ、」と驚きの声が上がり、私だけでなく、ここまで黒幕に至る推理を鮮やかに展開した探偵のことだから、何かしらの確証を掴んでいると思っていたのだろう。それが、あっさりと首を横に振り、否定した。

「ない?」これには追及される側の福家も目を丸くする。「ないのに僕に対して悪人呼ばわりしていたのかい?」

「悪人なんて思ってはいないわ。むしろ、私は感心しているのよ。他人を駒のように使い、自分は暗闇の中に隠れて目的を果たそうとするその手腕に。」

「感心されるようなことはしていないが、褒めているのか貶しているのか、分からない言葉だね。」

「心から褒めているのよ。」

彼女にしては珍しい、手放しの賞賛の言葉である。しかし、それは同時に敗北の言葉でもある。探偵が犯人を追及できず、その悪事の手際を褒める時、それは完全なる敗北である。

 まさか、本当に彼女には手札が遺されていないのだろうか。私は不安心から思わず拳が白く変色するほど手を握り締める。

 網辺は太陽が嫌いだと言った。しかし、それでもやはり私にとって彼女は正しき正義の行いによって闇に潜んだ悪意を照らし出す太陽なのだ。その光球が暗黒を切り裂けなければ、人類が死に絶えるのと同じように、私の心も朽ちていく。彼女には天上で輝く存在でいて欲しい。


「悪事を賛辞するなんて、駄目。」私は思わず批難の声を上げていた。「悪事がのさばれば、不幸が増える。だから――」

「もちろんよ。」

 私の言葉と感情を抑止するように、網辺は強い口調で首肯した。

 窓から射し込んでいた夕陽はいつの間にか裏山の木々に遮られ、東の空から広がる濃紺の帳が覆い被さり、室内の人間の表情を薄墨で染め上げていく。夜が、やって来る。

「私の指摘だけでは福家くんが行った行為を断罪することは出来ない。でも、これ以上の復讐を行うことも、貴方にはもう出来ない。」

「どういうこと?」

 彼は兄が陥った状況を作り出した網辺や元三組の生徒に復讐を企てていた。痴漢を取り押さえた網辺愛梨、痴漢行為を追求・断罪した九条法子をはじめとした三組の生徒。しかし、成し遂げられたと言えるのは九条に対する傷害くらいだ。福家をここで捕らえることが出来なければ、きっと復讐を継続してしまう。それは、傷付く人が増えることだし、なによりも福家の罪がより深いものとなるということだ。

 でも、網辺はそれはないという。もしも私が福家の立場ならば、継続し、遂行するだろう。途中で止めることなど出来るとは思えない。

「彼が認める認めないにかかわらず、今までの行いはすでに私たちにバレてしまっている。つまり、次の行動を起こそうとした時に、彼には疑いの目がいくつも向けられていて、復讐なんてとても出来るわけがない。仮に出来たとしても、すぐに露見してしまう。だから、彼の独り善がりな復讐はここまでなの。」

 そうか、今までは誰が行っていたか分からない犯罪だったから、謎を解くことが重視されて具体的な証拠を集めることが出来なかった。しかし、はじめから犯人が分かっている状態であれば、証拠集めは格段にし易い。そして、明確な証拠が提示された時、彼に言い逃れの余裕はなくなる。


「だから、貴方は存分に勝ち逃げして良いのよ。」

 口許に浮かぶ笑み。冷ややかに注がれる切れ長の眼から視線。それは圧倒的な勝者の様相だ。

「オレの復讐は独り善がりなんかじゃあない。」人称が変わり、声の調子も低く唸るように福家は訴える。「確かに、兄は悪いことをした。だが、それは命を差し出して謝罪しなければならないものなのか?」

 穏やかな垂れ目は大きく見開かれ、薄墨で陰となる顔立ちの中でその瞳だけは爛々と燃え上がり、敵対者を睨み付ける。

「誰も彼もが正義感に駆られ、ひとつの過ちを論い、殊更に批難する。お前も、お前も、お前たちもそうだ。」

 網辺や私、そして隣に並ぶ読書会の仲間に対しても彼は唾を飛ばしてがなり立てる。

「オレが骨川から暴力を受けている振りを何度みせようとも、自発的に止めに入ったり、教師に相談することもない。その教師たちだって、傷害事件が立て続けに起きているのに、警察に連絡を入れることもしない。大した正義感だよ。」

 感情露わに責め立てるその言葉に、私も他の人間も少なからず胸に刺さるものがあった。骨川に殴られ、傷付いている彼に寄り添っているつもりでいたが、福家が拒むことを良いことに教師に相談することもなく、その暴力を見逃し続けた。

「正義面して語る奴らのそれが本性なんだよ。オレはそれを知らしめてやりたかった。」


「やはり、そういうことだったのね、」

 福家の訴えに皆が顔を顰める中、網辺だけは合点がいったように頷く。

「私や元三組の人間への復讐とともに、学校側への復讐でもあったのね。」

「ああ、そうだよ。」

「二年前の新聞を調べていて、不思議だったのは塚田黒斗の自殺未遂が地方紙の片隅でしか取り上げられていないこと。何故、自殺を図ろうとしたかの理由が何もなかった。痴漢行為のことや生徒からの迫害なんて内容は欠片もないわ。そして今回、傷害事件が立て続いているわりに、警察が学校に訪れた様子もない。」

「学校側は世間から批難されるのを嫌い、兄の自殺未遂も内々で処理をして、様々なことを隠したんだ。」

 福家は網辺や九条を襲うことによって、個人に対しての恨みを晴らすと同時に、校内で傷害事件が立て続く醜聞を流して学校の評判を下げようとした。どうやら、彼の二つの復讐とはそのようなものであったらしい。

 しかし、学校は二つの傷害事件も表立てずに処理することに成功し、警察の捜査が及ぶことはなかった。つまり、ここでも彼の復讐は中途半端な形で幕を下ろしたこととなる。

 いじめを見逃してきた謗りもあり、福家の行いが正しいとは言わないまでも、私たちの中に彼の無念さへの同情が芽吹きはじめていた。

「さっき、私は貴方の勝ちだと告げたわ。でも、もしも貴方が罪を認めた場合、私は傷害事件を公表し、学校にも社会的対応を取ってもらう。」

「それは、」

 網辺の投げかけに、福家は眉を寄せる。彼女は提案しているのだ。『勝ち逃げして、大人しく学生生活を送る』か『敗北を認めて、犯人として隠蔽された事件を公表するか』と。


 緊迫が教室を支配し、辺りは森閑と静まり返る。誰一人声を上げるものはなく、息遣いすらも皆が潜めて福家を見詰めた。

 順当に考えれば、前者を選ぶ。何故ならば、復讐の完遂は叶わないものの、失うものはないにないのだ。翻って、後者は復讐の一部をやり遂げるのに対して犯罪者のレッテルが付いてくる。

 自らの保身を考えれば、前者を選ぶべきだ。でも、私は彼に卑怯な人間であってほしくないと願ってしまう。

 今となっては、私が彼に好意を寄せた理由はヒーローの面影を感じていたからなのだろうが、それでも彼は自身の信念に正直だった。他人を傷つけたりする行為は悪だが、学校側の対応も正義と言えるものではない。

「福家、」

 私は彼の名を呼び、その顔を見詰めた。ひょろりとした体格に、面長の細い輪郭。鼻筋はしっかりしているものの、垂れ目が全体の印象を地味なものにしている。太めの眉は困ったように寄り、いつもの表情で彼は私を見詰め返した。

 なんで彼はいつも私を困惑したような面持ちで見るのか分からないでいた。今も、私と彼の考えには大きな隔たりがあり、理解することは出来ないが、その時の瞳の色だけは感じ取ることが出来た。

 福家は「うん。」と大きく頷いた。

 そして、網辺へと向き直ると、投げられかけた選択肢の返答を告げた。


     ※


 教室には誰もいなくなっていた。骨川有も、三品林檎も、塚田健も、そして福家玄夜も。残ったのは、私と網辺愛梨だった。

「貴女としては、事件の完全決着で正義を示したかったかと思うけれども、私としては速やかに事件の幕を落として、次の被害者を出さないことが優先課題だったの。申し訳ないわね。」

 照明を点け、白々と照らされた教室は活発な生徒の声が抜け落ち、外部の闇からも切り離された、まるで全ての外部から切断されたような空間に、私たち二人は机に座り、向き合うこともなく黒板を見詰めていた。

「うん、」

 私は小さく頷く。彼女が推理を披露する前、屋上ですでに語っていたので覚悟はしていたし、私自身彼の言葉を聞いている内に一方的に断罪することに躊躇いを覚えていた。

 それに、悪事を野放しにしたくない理由は、網辺が目的とした次の犠牲者を出したくないからだ。彼女の解決方法でそれは叶えられていたので、その点に文句なんてあるわけがない。


「あの解決方法が間違いだったとは、思わない。むしろ、福家にとっても、私たちにとっても良かったのだと思う。」

 彼は私に頷いて見せた後、後者を選択した。自らの罪を認めてくれたのだ。

 悪事は許されないし、断罪しなければならない。しかし、それと同時に私たちは許すこともしなければならないと、三つの事件を通じて学ぶことが出来た。

 互いが正義を押し付け合えば、それは争いとなり、傷つけ合うこととなる。正しいことをすることは大事だが、他者を思いやる気持ちがなければそれは暴力と変わらない。

 網辺が提示した夜の概念や寛容さはその暴力的な正義とは、正反対の信念で、だからこそ福家玄夜は罪を認め、そして学校側の罪を追求できる。


「私はね、来年も生徒会長に立候補しようと思っているの。」

 唐突に話題が切り替わり、私は何事かと網辺へと顔を向ける。しかし、彼女は正面の黒板をまんじりと見詰め続けている。

「それで、結論を聞かせてもらいたいの。」

「結論?」

 問いの意味が分からず、美しい横顔を凝視したまま私は首を傾げた。

「屋上での話よ。貴女が私に付いてきてくれるか、という。」

「あれって、推理を聞きに来るかという質問ではなかったの?」

「もちろん、それもあった。でも、私としては今後も、来年度の生徒会役員として一緒に学校を良くしていく仲間になって欲しいの。」

「私が生徒会に……、」

 彼女ならばきっと来期も生徒会長に当選することだろう。その隣に、私が並び立つイメージは容易には浮かべることが出来ない。

「私の正義の示し方では、貴女の理想には届かないかしら?」

 網辺が黒板から唯一教室にいる同級生に振り向く。切れ長の怜悧とした漆黒の瞳は、いつもならば何ものにもたじろぐことのない強い意志を宿しているが、その時向き合った双眸には、気弱な少女の戸惑いがあった。


「貴女の真っ直ぐな正義感は、私には到底真似できるものではない。だから、私の傍にいて、正しさを示し続けてもらいたいの。駄目かしら?」

 何で。問いの言葉が咽喉の寸前まで競り上がってきたが、私は呼吸をひとつして、その言葉を飲み込む。私なんかよりも、網辺愛梨のほうが何倍も上手に物事の調和をもたらしている。しかし、その中には少なからずの妥協や譲歩などの折り合いの結果でもある。彼女が求める夜の理念はそうした状況を良しとするもののはずである。ならば、何故、私なんかを求めるのか。

「言いたいことは、分かる。私は夜が好きだと言った。でもね、太陽がなければ夜空の月は輝くことが出来ないの。強い正義を示してくれる貴女が傍にいてくれることで、私は私の信念をより強く保つことが出来るの。だから、これからも一緒にいてくれないかしら?」

「なら、私は今のままで良いの?」

 同じ生徒会に所属した時に、正しさの基準が異なり意見が割れることがあるかもしれない。その時に、彼女の考えを受け入れず、私の正義を貫いて良いと言うのか。

「ええ。むしろ、変わらないことを私からお願いするわ。」


 私は教室の天井を見上げ、考える素振りを見せる。答えはとっくに決まっているのだから、勿体ぶる必要なんてないのに、私は即答を避けた。

 たぶん、彼女の望みは叶わないだろう。私は私の正義を大事にしていくが、恐らくそれは今のままではない。これから一緒に生徒会で活動する彼女の影響やその他の人間の話を聞き、時に大きく、時に緩やかに私の正義も変化していく。変わらないことは、とてもむつかしいことだ。だから、彼女の望みは叶わない。

 それでも、網辺愛梨の隣に立ち、悪意や恨みなどの悪感情がない学校にしていく力にはなれる気がする。私は頷いた。

「うん。一緒に学校生活を少しでも良いものにしよう。」

 手を伸ばし、私は網辺の白い手を握った。二年前から抱いていた、人と触れ合うことへの恐怖や不安は感じなかった。

「まずは最初に、最終下校のチェックからはじめましょう。」

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