第3話 ➈

 終業のチャイムが鳴り、私と網辺は屋上をあとにする。身を切るような冷たい風も、この後に待ち受ける出来事に比べればさしたるものでもない。覚悟はできている。

 渡り校舎を抜け、一号棟に入るとそのまま私たちは自分たちの教室へと向かう。午後の授業は丸々サボってしまった格好なので、授業を終えた教師と廊下で鉢合わせることに躊躇いはあったが、網辺が気にせず進むので、私もそれに従った。


 授業を終えた教室は解放感に浸る生徒が席の合間を行き来して賑やかだった。しかし、私たちが教室の鉄扉を開けると、その賑々しい空気は潮が引くように収まり、漣も起きない凪となる。

 不図、私はあの日のことを思い出していた。福家が骨川に殴られて扉に叩き付けられた期末テスト直前のあの日、やはり騒めく教室に網辺愛梨がやって来て、その瞬間室内は水を打ったように静まり返った。

 天性のものか、それとも培ってきたものなのか、彼女には人を平伏せさせる風格がある。敬うにしろ、畏れるにしろ誰しもが網辺愛梨の前では身構え、それによって彼女は孤高となり、孤独となる。

 確かに彼女には他人を寄せ付けない超然たる雰囲気があるが、他者を拒んでいるわけではない。むしろ、彼女は夜空に煌々と輝く月のように、優しく、慈しみ深く他者を淡い光で照らしている。

 絶対的な太陽のように見えて、彼女の本質は月なのだ。


「申し訳ないのだけれども、教室を使用させてもらっても良いかしら?」

 室内を見回し、網辺は同級生に問いかけた。静まり返った水面に投じられた一石は波紋を描いて広がるが、その小波は広がるだけで返すことはない。

 冷徹な眼差しがぐるりと巡るが、視線は逸らされて皆が係わりを避けていた。普段から網辺を遠巻きにしているクラスメイト達だが、今日は九条の一件もあり、いっそう彼女と接することを忌避している人間が多い。

「良いじゃあねえか、」沈黙の教室に野太い声が上がった。「女王様が教室を私用したいと仰っているんだ。オレ達下々は従おうぜ。」

 敬う気持ちなど一切込められていない皮肉を言ったのは、骨川有だ。四角い輪郭の頬には嘲りの笑みを浮かべ、周りの生徒たちを煽る。

「さあさあ、お一人にさせてあげようぜ。孤独によ。」

 手近な生徒を突き飛ばすように押し出し、骨川自身も教室を出て行こうとする。「待ちなさい。」当然、網辺はその大柄な同級生を制止する。


「私は先程の続きをするために戻ってきたの。貴方に出て行かれたら、意味がないわ。」

「続き? ああ、あの尻尾を巻いて逃げた件か。」

 その得意な口調に私は苛立ちを覚える。あれはあまりにも情報が少なかったので、一時戦略的撤退をしたまでで、決して骨川に言い負けたわけではない。

 しかし、私のむかっ腹を余所に、網辺は冷静に対応する。

「性懲りもない負け犬に対して、まさか逃げたりしないわよね?」

「何で俺が逃げないといけないんだよ。」

「よかった、他人の導いた答えをなぞるだけしか出来ないから、唐突な申し出は断られるかと思った。」

 骨川の笑みが瞬間凍てつく。


「お前、それを――、」

「カンニングばかりだものね、」

 冷笑が薄い網辺の唇に浮かぶ。

 繰り返される皮肉と嫌みの応酬。再び渋面を骨川が作ると思われたが、豈図らんや凍てついていた笑みは雪解け、余裕の笑みを大きな口が形作る。

「負け犬ほどよく吠えるからな。何とでも言えばいいさ。」

「じゃあ、そうさせてもらうわね。」頷き、網辺は幾人かの生徒が立ち去りはじめている教室内を見渡す。「確か、『第三者がいたほうが、ちゃんと証明できているか判断できる』のよね?」

 網辺の視線は教室を出て行こうとしているひょろりとした男子の背中に視線を止める。

「福家くん。悪いのだけれども、もう一度第三者として立ち会ってもらえないかしら?」

「僕が?」呼び止められた福家は振り返り、これから行われるディベートの裁定者を再び任されることに驚き、目を丸くする。「さっきも何もできなかったし、僕には荷が勝ち過ぎているよ。」


 彼が自分で言う通り、福家は先程の網辺と骨川の争いに何も出来ずに佇んでいた。なのに、再び任命されることは予想外だったのだろう。しかも、骨川からではなく網辺からの呼びかけなので、驚きはいっそうだ。

「一人が辛いのなら、他にも裁定者を増やしても構わないわ。偶数だと意見が割れる可能性があるから、貴方を含めて奇数になるようにしてね。」

「増やしても良いと言われても、」

「誰を呼んでいいか迷うのならば、三品林檎さんと塚田健くんはどうかしら。読書会のメンバーだから、意見を交わしやすいでしょう?」

 何故その人選なのか疑問を感じるかもしれないが、彼女には考えがあった。

「もちろん、ひとりで裁定してもらっても構わないわよ。」

「いや、二人を呼んでくるよ、」

 福家は首を横に振り、不服そうに唇を突き出して重い足取りを廊下へと向ける。


 数分後、彼が帰ってくるまでの間に、室内は私と網辺、そして骨川のみが残るだけとなり、他の生徒たちは当初の網辺の呼びかけに従い、教室を空けてくれた。

 ひょろりとした福家。小柄で可愛らしい林檎。丸々と太った塚田。その三人が教室に入ると、思い思いの席にそれぞれが座り、室内は自然と緊張感を高めていく。

「さて、みんなに集まってもらったのは、ちょっとした判断をしてほしいからなの。」

 教卓の前に立ち、網辺はさながら名探偵が推理を開陳する時のような重々しい口調で机に座る生徒たちに語りかける。

「すでに知っている人間が大半かもしれないけれども、前生徒会長の九条さんが昨日何者かに襲われて、怪我をしたの。そして、その疑いが私に掛けられている。」

 教室にいる人間の顔を盗み見ると、繰り返される内容に飽き飽きとしている骨川に、好奇心の強い林檎は机から身を乗り出して目を輝かせている。残りの二人の男子は巻き込まれたことに不服がるように、唇を固く閉ざして仏頂面をしている。

「その疑いを解くために、目撃者の骨川くんが見たものが見間違いであったと証明をしたいの。ただ、双方の意見が食い違ったままだと水掛け論になってしまうため、第三者に判定してもらう必要がある。それを貴方たちにお願いしたいの。」


「うん、分かった。ただ、依怙贔屓とかはしないよ。」

 乗り気の林檎の返答に、網辺は強く頷く。

「ええ、公正にお願いするわ。」

 塚田と福家は返事をしなかったが、強く拒む言葉も返ってこなかったので、網辺は視線を骨川に向ける。

「それでは、新たに加わった二人のために、貴方が昨日目撃した事件状況をもう一度語ってくれるかしら。」

「ったく、メンドクセーな。」悪態を吐きつつ骨川は立ち上がり、さながら裁判の検事のように目撃した事件のあらましを語る。「――って、感じだ。」

 数時間前に聞いた話と同じ内容が繰り返された。まるで、誰かに台本を渡され、丸暗記をさせられたかのように同じ内容が。


「なんか質問はあるか?」

 一度勝利を手にした余裕からか、笑みを浮かべた唇は滑らかに動く。

「本当にここから、備品室が見えるの?」

 すぐさま林檎の質問が飛ぶ。私たちはすでに骨川有という人間の異常なまでの視力を認識していたが、知らない人間ならば普通その疑問が最初に浮かぶはずだ。

「ああ、見えるぜ。」ニヤニヤと得意顔で骨川は強く頷いて見せる。「ちょうど暗くなりはじめてきたし、今くらいだな。」

 大きな身体を揺すり、彼は窓際まで歩を進めると数十メートル離れた二号棟へと視線を向ける。

「あー、どれどれ。三階の左から二つ目の教室で、男女がイチャついているな。」

「えー、全然見えない。テキトー言っているんじゃあないの?」

 小さな身長を爪先立ちで伸ばし、骨川に並んで林檎も薄暗くなった向い校舎を見詰めるが、言われた景色は当然識別できない。

「テキトーじゃあねえよ。スマホで拡大すれば、少しは分かるだろ?」

 制服のポケットからスマホを出し、林檎は素直にそのカメラを暗闇に向ける。校舎の窓明かりを捉え、カメラの倍率を上げていくと光は粒子の荒いモザイク画のようになり、人のシルエットらしきものが辛うじて画面に映し出される。

「誰かまでは分からないけれども、確かにカップルらしき人がいるね。」

 納得とまではいかないまでも、林檎は不承不承骨川の能力を認めた。


「他に質問や疑問はないのか?」

「じゃあ、私が。」裁定者からの手は上がらず、網辺が細く白い手を上げる。「第一発見者の話によると、備品室の窓にはカーテンが掛かっていたそうよ。だとすると、貴方は目撃できないんじゃあないかしら?」

「カーテンが?」不意に投げつけられた情報に骨川の顔は強張り、視線が裁定者三人の並ぶ席へと一瞬泳ぐ。「勘違いじゃあないのか、その発見者の。オレは間違いなく、目撃したんだからよ。」

 早口で慌てて言い返す様子は明らかに動揺を物語っている。

「見た・見れないの水掛け論ね。」

ふう、と溜息を吐く網辺だが、ここまでは想定内だ。むしろ、ここからがチェックへ向けた慎重な手順となっていく場面だ。


「では、別の点から話を進めさせてもらうわね。九条が殴られた時の様子なのだけれども、もう一度話してもらえるかしら?」

「またか?」証言を繰り返されることに辟易する骨川は顔を顰める。「カーテンの裏に隠れていた犯人が、被害者が備品室に来ると、持っていた短いスコップで頭を殴り続け、相手が動かなくなると、スコップを投げ捨てて備品室から出て行った。これでいいか?」

「ありがとう。」

 網辺は感謝の言葉を口にして、あらためて室内を見渡す。

「ここにいる六人を取り上げても、同じ年齢なのに身長はまちまちで、人によって感じる物の長さというのは違うはず。一言に『短いスコップ』と言われても、感じ方に個人差があるから、申し訳ないのだけれども、手で長さを教えてくれないかしら。」

「スコップなんて、そんなに長さに違いはないだろう。」そう答えながら、骨川は右手と左手で二、三十センチの幅を作る。「これくらいの大きさだよ。」

「確かに、短いわね。」

 にこりと微笑んで網辺は頷き、チラリと私へと目配せする。私はひとつ頷き、スマホを取り出すと写真画像を開く。

「現場で確認しましたが、血痕の付着もあり、それが凶器で間違いないでしょう。」

「でもこれって、シャベルでしょう?」

 その画像――備品室に合った柄の長いシャベルを見て、林檎は首を傾げた。

「ええ。それをシャベルと呼ぶ人もいれば、スコップと呼ぶ人もいる。骨川くんはスコップと呼ぶ派のようだけれども、」


「でも、それはおかしくないかな?」話の違和感に気が付いた福家は眉を寄せる。「凶器の名前を異なる名称で呼ぶのは理解できるけれども、さっき示した長さが明らかに違っていたよ。」

 そう、骨川はスコップという呼び名で、二三十センチの大きさを示した。つまり、彼の頭の中に合った凶器は園芸用のスコップであり、土木用のシャベルではない。

「指摘の通りよ。彼が事件現場を本当に目撃しているのならば、この間違いは辻褄が合わない。」

 網辺の言葉を聞きながら皆の視線は自然と骨川へと向かい、そこにある彼の顔か強張り、微かに唇が震えているのを確認する。どうやら、ここにきて自身が仕出かした失敗に気が付いたようだ。

「名前はどうあれ、本当に見ていればスコップの長さを二三十センチとなんて言わない。では、どのような時にこのような過ちが起きるのか?」

 一人ひとりに視線を向け、網辺は誰か応えられる人間を求める。しかし、理解している骨川はもちろん、誰からも解答の声は上がらない。


「単純な話よ。骨川くんは誰かから九条さんが『スコップで殴られた』と聞き、その情報から目撃談をでっち上げた。違うかしら?」

 骨川に問いを投げるが、彼は口の端をきつく噛み締めて何も答えない。窓から射し込む陽射しは茜色へと変わり、歪んだ表情の半面を赤々と濡らす。それはまるで、流血に耐える苦悶の表情にも見えた。

「もう、良いんじゃあないのか。」骨川の様子を見かねたのか、塚田が声を上げた。「十分生徒会長の説明で自身の潔白は証明できたと思う。彼も、出来心の悪戯だったと思うし、」

 横に並ぶ裁定者へ視線を向け、塚田は同意を求める。他のメンバーも積極的な意見はないものの、小さく頷いたり、十二分に網辺愛梨の疑いは晴らせたと考えている様子だ。


「じゃあ、裁定に入ろう。」

 何かに追い立てられて焦るように、塚田は議論を終結へと向ける。

しかし、「いいえ。」と強い口調で網辺は裁定への動きを寸断する。

「これ以上何か証明することがあるのか?」

「ええ。とても重要なことよ。誰が、骨川君に『スコップで殴ったこと』を伝えたのか?」

「どういうことだ?」

 贅肉で覆われた頬を硬直させ、塚田は網辺の言葉の意味を探る。

「単刀直入に言ったほうが良いかしら。『誰が骨川くんを利用して、私を陥れようとしたのか』を証明するのよ。」


「なっ、」

 ビリケンのような塚田の細い目は見開かれ、並ぶ林檎や福家も網辺の発言に驚きを隠せないよう様子だ。

「陥れって、随分穏やかではないけれども、本当にそんなことをしている人間がいるのかい?」

 出来事の順序を知らない人が聞けば、網辺の発言は被害妄想の強い人間の戯言と聞き流されるだろう。しかし、連続して見に起きた出来事を順序立てて並べて考えていくと、そこに明確な悪意を読み取ることが出来る。

「もしも網辺さんの言うことが本当ならば、骨川くんに聞けば万事解決だね。」福家が骨川へ視線を向けると、同学年の中でもひときわ巨体を誇る彼が肩を落とし、随分とこじんまりと縮こまっていた。「君に九条先輩が襲われたことを教えたのは誰なんだい?」

 緊張の面持ちで福家は自分を虐めていた男に追及の矛先を向ける。林檎や塚田も固唾を飲み、夕陽の血を流す横顔を見詰めた。

「オレは、」震える唇を骨川は必死に律し、ゆっくりと言葉を紡ぐ。「オレは、誰かに言われたわけじゃあない。オレが見たんだ。」

 引き攣った顔から絞り出すように答え、彼は普段の太々しさなど微塵も感じさせない、救いを求める弱々しい眼差しで裁定者たちを見る。その姿はさながら虐げられる弱者のようで、人間誰しも弱っている人間に対して無意識の優しさを発揮する。それは憐みなのかもしれない。


「骨川くんはこう言っているけれども?」

 福家の心の中でどのような考えが働いたのか、彼は網辺へと視線を戻す。その目には「まだ続けるのか、」という批難の色がにわかに見受けられる。

「では、立場を逆転させてもらって、これからは私が追及する側となって、考えを伝えるから、その妥当性を判断してもらえるかしら?」

「続けるんだね、」

「ええ。」

 彼女は人の意見で自身の考えを曲げたりする人間ではない。

「そういう態度が、敵を生むと思うのだけれどもね。」

「自覚はしているわ。」肩を竦めて苦笑すると、網辺は白く細い指を三本立てる。「露骨に私への攻撃と感じられる事件は直近で三つあった。」


 一つ目は今回の九条法子への暴行事件だ。

「私が襲ったというデマを骨川くんを使って流させた。」

 二つ目は数日前の森大地が襲われた事件。

「私と彼を間違えて、犯人は森を殴り付けた。」

「えっ、」と読書会メンバーの口から驚きの声が漏れる。あの事件は、公的には森が転んで頭を打ったことになっていたのに、ここにきて犯人が存在することを伝えられ、しかもその犯行が網辺と間違われて行われたという事実は衝撃的だろう。

 もちろん、森の女装の件には網辺は一言も触れることはなかった。

 そして、最後の三つ目は骨川が巻き起こしたカンニング事件だ。

「この事件が、どのように私を陥れるものだったのかを説明するわね。」

 網辺は詳細などを省きつつ、成績劣等生が彼女と同じ成績をテストで獲得したならば、網辺がカンニングを手助けした疑いを掛けられる可能性がある。骨川たちのカンニングが成功しなかったので、そのような疑惑は発生しなかったが、もしも成功していたならば、学年首位の網辺とクラスメイト二名がまったく同じ成績を獲得していたことになり、二人のカンニングはもちろん、その手引きをした疑いが向けられたかもしれない。

 骨川にとって自身と猿渡が好成績を取れればそれで良かったのであり、網辺に対して陥れる気持ちはなかったはずだ。むしろ、その疑いが出ることは自分たちの不正が発覚することでもあるから、その狙いはなかったはずである。

 つまり、カンニングをした骨川とされた網辺以外に、第三者の思惑が見え隠れする。それが網辺を陥れる悪意だと、彼女は言う。


「カンニングには骨川くんの視力の良さが利用されていた。そして、九条法子の事件でもその特色を利用しての目撃証言だった。同じ方法を取っている点から、この二つの事件の黒幕は同じ人間であることが想像できる。」

 もちろん、現時点では二つの事件を繋ぐ線は想像の域を出ない。しかし、手法の類似性という細い線の繋がりがあることは明示された。

「このように、私への悪意・敵意を孕んだ行動が暗に明に行われていた。」

「でも、何で愛梨ちゃんはそんなに恨まれているの?」

 執拗な攻撃にはそれ相応の理由があるはずだという林檎の質問は正しい疑問だ。

「それは私が過去に痴漢を捕まえたことに起因するの。」

「痴漢?」

「ええ。この出来事は、九条さんが襲われたことにもつながるわ。」

 二年前、杜亜高校に在籍していたある教師が、痴漢行為を生徒に激しく批難され、それが原因で彼が自殺未遂を図ったことを網辺は伝える。

 この復讐として、当時教師を追求した生徒の中心人物であった九条が襲われ、現行犯で痴漢を指摘した網辺へも悪意が向けられたと考えられる。

 話の途中、ガタリッと誰かの机が音を鳴らすが、視線を向けるわずかな間に余韻は消え去り、誰一人として動揺の色は見せていなかった。


「つまり、一連の出来事は二年前に自殺未遂をした教師の復讐と考えられるの。」

「復讐って、誰がそんなことを?」

「順番に説明するわ。」

 林檎の疑問を諭すような口振りで網辺は退ける。

「まずは話を戻して、骨川くんに九条さんが襲われたことを教えたのが、どのような人間かを考えてみましょう。」

 骨川が目撃を主張しはじめたのは、校内で事件が話題になるよりも以前のことであり、凶器が『スコップ』であることも伝えていることから、偶然情報を仕入れた人間ではなく、犯人と考えられる。そして事件後、間を置かずに骨川に目撃情報のデマを流し、網辺を陥れる知恵を授けるには、二つの要素が必要である。

 網辺は再び指を立てる。

「一つ目は、先程も触れた骨川くんが視力の良いことを知っていること。そしてもう一つが、彼が私のことを恨んでいることを知っている人間。」

 カンニング事件で見事に欺かれた骨川が一方的に網辺を逆恨みしているのは、当事者たちと私、そして彼にカンニングの知恵を授けた人物がいれば、その人物も知りえる。

 私や網辺、そして骨川自身も九条を殴り倒した犯人から外れる。では、二つの条件を満たす他の人物はと考えた時、該当者として立ち上ってくるのは猿渡愛である。

「彼女ならば、先の条件に当てはまる。けれども、もしも猿渡さんが九条さんを殴った犯人なのであれば、骨川くんは目撃者などではなく、もっと直接的な方法で彼女を庇ったはず。」

 骨川の猿渡に対する思いは、カンニングの時にも十分に感じるとれ、反対側の校舎から彼女のために駆け付けたり、彼女のためにカンニングの中継役を演じたりと、献身的な行動をとっていた。その彼が猿渡を庇うために網辺へ疑いを向けるというのは、あまりにも迂遠な方法に思えるし、むしろ犯人役を買って出るだろう。

 しかし、実際には骨川は目撃者を名乗った。この行動は犯人を庇うよりも、網辺を陥れる意志がより強く感じられる。つまり、論理的には猿渡が犯人候補として上がって来るが、その後の骨川の行動がその疑いを打ち消す。


「考えを突き詰めていくと、名前の分かっている人間は該当者から悉く外れていくわ。つまり、まだ私たちが把握していない人物こそが黒幕。」

 骨川の屈辱を知っていることから、黒幕はカンニング事件にコミットしたことは類推できる。ではどのように関わっていたのかを考えると、カンニングに用いたトリックの考案、もしくは下準備と後片付け。

 カンニングの下準備として必要なのは、扉の窓硝子に段ボールなどの覆いを点ける必然性を作ることと、鏡とテレビモニターの角度調整だ。後片付けは、この調整を崩すこと。さしたる労力でもなく、日直ならば学級日誌を仕舞うタイミングで鏡をずらすことなど容易にできる。

 あの日、骨川は日直で、まさに後始末には打ってつけの仕事回りであった。だが、彼はその仕事を他人に委ねている。


「ここで、もう一つの森が襲われた事件について、考えてもらいたいの。」

 網辺は改めて事件の構図を、具体的人物名を控えながら、森を襲った犯人はそこに網辺愛梨がいると思い殴りかかったのだと、皆に伝える。

「何故犯人は図書室にいる人物が私だと思って、襲い掛かったのか?」

「だって、愛梨ちゃんのドッペルゲンガーが図書室に現れるって噂になっていたからでしょ。」

 林檎の返答は一面では正しい。しかし、それだけでは解答としては不完全で、網辺も首を横に振る。

「噂はあくまでも私のドッペルゲンガーであって、私本人ではない。でも、犯人は噂の正体はドッペルゲンガーではなく、私だと考えて犯行に及んだ。」

 何故、森を襲った犯人である鈴宮は彼を網辺と勘違いしたのか。もちろんそれは森の変装もあったが、何よりも網辺がそこにいると彼女が思い込んでいたことに起因する。では、何故そのような勘違いが起きたのか。

「読書会の時、ドッペルゲンガーの噂を私の逢引きとミスリードして、私が図書室にいると思い込ませた。それによって、森を殴った犯人は私を襲ったと勘違いした。」

 幽霊の正体が枯れ尾花だと推測し、それによって鈴宮の嫉妬を煽いだ人物――それは、あの日骨川から日直の仕事を押し付けられた人物と同じである。

 そして、テスト前日、骨川に突き飛ばされて扉に強く接触して、窓硝子を割ろうと画策した人物――


 網辺が指摘したミスリードを思い出し、読書会参加者の視線が自然と彼に集まっていく。ひょろりとした体躯に、温和な垂れた眼。およそ他人に対して悪意を持つように感じない穏やかな印象の彼――福家玄夜に皆の視線が集中していた。

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