第3話 ⑧

「どういうこと?」

 職員室をあとにして、新田とも別れたところで私は網辺に尋ねていた。もちろん、彼女は私の過去を知るわけもなく、私の問いの意味を理解できるわけはないのに、それでも私は尋ねていた。


「見ての通りよ、『彼』が今回の事件の――いいえ、ここ最近私たちの周りで起きた事件の黒幕ね。」

網辺が言う『彼』とはもちろん塚田黒斗ではない。彼の顔によく似た人物で、斎藤に確認したら、『彼』は塚田黒斗の弟ということであった。その情報も私の頭を混乱させる一要因であったが、しかし一番は私を助けてくれたヒーローが痴漢行為を生徒に咎められて自殺未遂をしたという事実だ。


「実は私、過去に痴漢に合ったことがあるの――、」

 脈絡のない告白と思われたかもしれないが、この事実なしに私の混乱を伝えることはむつかしい。私は二年前に降りかかった、おぞましい記憶を彼女に伝えた。

 語り終えた時に私の肩が震えていたのは、過去の不快感によるものか、それとも廊下を抜けていく冷たい空気の所為だろうか。

「災難だったわね。」労わるように網辺は強く頷いてくれた。「でも、幸いでもあったわ。」

「どういうこと?」

「塚田黒斗の痴漢を指摘したのは、私なのよ。」

「え?」さらりと言ってのけた彼女の言葉が鼓膜を震わせ、その情報が脳に到達するまでに、いくばくかの時間が必要だった。「どういうこと?」

「写真の顔を見て思い出したのだけれども、二年前に彼が痴漢を行っている現場に遭遇して、注意したのよ。その時、『二度としない。』と誓いを立てさせたのだけれども、生徒にも気が付かれていたようね。」


 くらくらと足下の廊下がまるで弾力性の高いクッションのように異質で不安定なものへと変容し、私の平衡感覚は失われていく。網辺が嘘を吐いているとは思えないが、もしもヒーローこと塚田黒斗が痴漢を働いていたのならば、一体私を助けてくれたのはどういうことなのだろうか。頭の中もくらくらと揺れ、視界すらも大きく歪んでいく。

「悪質な手口よ。」現実から遠ざかる私の意識を繋ぎとめるように、きっぱりとした口調で彼女は私の疑問に答えてくれる。「自分で悪事を働いておきながら、あたかも助けに入ったかのように見せかけて信頼を勝ち取る、詐欺師が行う手口ね。」

「そんな、」

「幸いだったのは、貴女が塚田に連絡を入れなかったこと。そして、あの男が直後に裁かれたこと。」


 それは俄かには信じられないことだった。くらくらぐらぐらと歪み変形する視界の中で、私はいつしか並列する不思議の世界に迷い込んでしまったのではないか。もしくは、塚田黒斗に関する犯罪は冤罪か。

 廊下の窓には冬の太陽が徐々に西の空へと傾き、鋭角に陽射しを投げかけている。確か、朝の段階では鉛色の厚い雲が空にかかり、陽射しが届かないために気温は上がり切らずに底冷えの空気が頬を叩いていた。一体いつの間に晴れ間が覗いたのか。


「何かの間違いってことはないのかな?」

 記憶の中にある塚田黒斗は優しく手を握り、不安がる私に寄り添ってくれた正義感の強い人だ。彼に憧れ、私は正しいことを是として、他人の不正や逸脱行為を厳しく注意してきた。それなのに、彼こそが私に痴漢を行っていた人物なのだとしたら、私がこの二年行ってきた行為は一体何だったというのだろうか。

「残念だけれども、」網辺は首を左右に振る。「私は彼が痴漢をしていた瞬間を見ているし、現に取り押さえた。スマホで謝罪動画も撮影しているから、確認したければいつでもできるわよ。」

「動画って、そこまでしたの?」

「そこまで?」私の発言に網辺は目を丸くして首を傾げた。「警察に連行しなかっただけ、恩情だと思うのだけれども。それとも、痴漢なんて卑劣な犯罪を見逃して良いと言うの?」


 違う。悪行を見て見ぬ振りは正義にもとる、許されざる行為だ。それは分かっている。でも、と心の中で何かが躊躇いを示す。

「貴女の気持ちも、分からないことはないわ。つい先程まで恩人だと思っていた人間が実は憎むべき人種であったことを明かされたのだから。でもね、如何なる理由でも、相手でも、信念を揺るがしては駄目よ。」

 長い睫毛に覆われた切れ長の瞳が、私を真っ直ぐに見詰める。

「私は、例えそれが親であろうと、友人であろうと、私の信念を揺るがせるつもりは毛頭ない。それが正しく、且つ皆が平和に過ごせる道だと信じているから。」


 網辺の姿は背筋が伸び、いつもの通り凛としている。その佇まいはきっと、信念という背骨がしっかりと彼女を支えているから美しい立ち姿なのだろう。翻って私はどうか。網辺の深淵のように深い黒色の瞳に映る私の姿は、口を半開きにして間の抜けた表情で立ち尽くし、美しさなどは欠片もない。

「貴女の人生なのだから、無理強いはしないわ。でも、貴女ならば私に付いてきてくれると期待していたのだけれども……、」

 今まで私を見詰めてくれていた目は逸らされ、網辺は踵を返して私に背を向ける。そして、冷え込むリノリウムの床を踏み締め、廊下の先へと遠ざかっていく。


「何処へ行くの?」

 離れて行く背中に私は尋ねた。

「事件の謎解きよ。」

 それは素っ気ない返事だった。

 そうだ。私たちは九条法子が暴行を受けた事件とあの怪文書の謎を解くために、様々なことを見聞きしたのだ。なのに私はその仕事をほっぽり、自身の悩みに頭を支配されて、当初の目的を忘れ去っていた。自分のことだけで、網辺がかけられた疑いを忘我していた事実は、結局のところ見て見ぬ振りと変わらない。

 私は唇を噛み締めて、一歩前へと踏み出す。

 先を行く網辺愛梨の背中は遠いが、私は駆け足で廊下を進んで追い駆ける。追い付くまで、もう少しかかりそうだ。


     ※


 冷たい風が頬を撫で、黒い髪を梳くように流れていく。一号棟と二号棟を繋ぐ渡り校舎の屋上部で、網辺は手摺に肘をついて傾きつつある西日に対して目を細めて見詰めていた。

 私は離れた位置から、その横顔を観察視する。知性の高さを感じさせる広めの額に、そこか高く伸びる鼻梁。切れ長の目を覆う睫毛は長く、目元の印象をより強いものとしている。唇は薄く、そこに目立ち過ぎない紅を引き、細い顎の線と相俟って高校一年生とは思えない大人びた雰囲気をまとっている。

 事件の謎を解くと言った彼女は、そのまま教室へは向かわずに屋上の渡り廊下でしばし校外の眺めを見詰め続けていた。突風のような冷たい風が走っても、頬で乱れる黒髪を耳に掛けるくらいで寒さを気に掛ける素振りはない。


「ねえ、十津根さんは太陽は好き?」

 耳朶を打つ風の合間の静寂に、網辺は燃える夕陽へと徐々に姿を変えていく太陽から視線を逸らすことなく尋ねてきた。

「考えたこともない。」

 今までの人生で、太陽という恒星を好悪で考えたことなどなかった。もちろん、太陽系第三惑星である地球に住む生物として、太陽の恩恵は多大に受けているし、日光を浴びた洗濯物の香りなどは好もしいが、太陽そのものに対して深く考えたことなどない。


「私は嫌いなの。」ぽつりと彼女は呟く。「まるで自身が純然たる正義でもあるかのように、全てを曝け出させようとする。傲慢極まりないと思わない?」

 私の耳には、彼女の言葉が自身を批難するもののように聞こえた。だって、私にとって彼女の行動は正しく、常に堂々とすべての中心にあり続け、そして悪を突き止めて断ずる。さながら裁きを下すミカエルや太陽を象徴とするウリエルなどの熾天使のようにさえ思える。


「私は正義が傲慢だとは思わない。」

 だから、私は網辺愛梨という同級生に憧れるようになった。確かに、当初は全てを有する彼女が羨ましくもあったが、それはただのやっかみでしかなかった。正しいことをして、皆から畏敬の念を抱かれる彼女は理想だし、正義を示す彼女が傲慢だとも思わない。

「貴女ならば、そう言うと思ったわ。」赤い唇がわずかに緩められた。「でもね、私は正義や正しさが嫌いなの。」

「でも、今まで人の過ちを貴女は指摘してきたし、悪事を暴いてもいる。」

「それは正しいから行ったことではなく、私が必要と思ったから行動してきただけ。正義は振り翳せば振り翳すほど、他者も自身も窮屈になって身動きが取れなくなり、やがて窒息する。」


 脳裏に今まで私が過ちを指摘し、正しさを説いた時に見せる他人の顔が過った。皆が皆、一様に顔を顰め、場合によっては批難の言葉を浴びせてくることもあった。あれは私への憎しみや苛立ちではなく、苦しさから藻掻いていたのだろうか。

「でも、正義が廃れて悪が蔓延れば、秩序は失われてしまう。」

 秩序や規則のない場所で人は平等に、平和に暮らせない。悪によって被害を受けるのはいつだって子供や女性、社会的弱者ばかりだ。彼らを守り、安心して生活できるようにするためにもルールは必要だ。大きな視野で言えば、法律だ。


「悪を見逃せという話ではないわ。私は夜が好きなのよ。」

 落日が学校の裏山に早く沈むことを望むよう見詰めながら、網辺はゆっくりと首を左右に振った。

「夜は全てを覆ってくれる。安らかな眠りの中で、見なくても良い現実を目撃しないで済む。不寛容に全てを正義で炙り出すのではなく、晒したくない醜悪なものは闇の中で眠らせる。その方が、みんな安心して過ごせるし、それこそが寛容というものではないかしら?」


 晒す必要のないものをわざわざ炙り出すことはせず、藪の中に閉じ込める。今まで彼女が行ってきた正義の執行は、思い返してみれば確かに周囲にその悪事を公表することなく行われた。

 私はそこに一抹の不満を抱いていたが、彼女の中では何ら揺らぐことのない信念の下の行動だった。つい先程までの私ならば、それでも悪に寛容であるその態度に不満を持っていたかもしれない。しかし、私自身が網辺の塚田黒斗に行った断罪がやり過ぎていると思ってしまった。それは、自らの罪を認めた悪人を擁護し守る、寛容さだ。


「これから私は自身の疑惑を晴らしに行くわ。もしかしたら、それは貴女の望むような解決方法ではないかもしれないけれども、それでもついてくる?」

 何故彼女が屋上で時間を費やしていたのか、ようやく理解が出来た。私への最後通牒を突き付けるためだ。

 先程の廊下でも、そしてこの屋上でも明らかになったが、私と網辺愛梨が求める正義の形は異なる。それでも、自分についてくるのか、見届けるのかと彼女は聞いているのだ。

「見なければ、判断できない。」

 自分でも狡い解答だと思う。でも、憶測だけで決め込んでしまうのは独善的で傲慢ではないだろうか。ならば見届けて、その上で彼女の正義が許容できるものなのか判断するしかない。


「だから、見届けるよ。私は。」

 それに、網辺愛梨は孤高の存在だ――いや、私が勝手にそう思っていた。でも、彼女は付いてくるかと尋ねた。ともに歩くのか――歩いてくれるのかと、懇願したのだ。手を引かれるだけでなく、私は彼女と並びたい。ならば一緒にいるしかない。見届けるしか、選択肢はないのだ。


「ありがとう。」

 風に掻き消されそうな小さな声が、微かな笑みを浮かべた唇から漏れ聞こえた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る