第3話 ⑦

 備品室をあとにすると、新田は迷いながらも私たちの後ろに従い、同じフロアにある職員室へと同行した。鉄扉を開くと、午後の授業の準備をする教職員たちがスチール机の間を行ったり来たりと動いたり、机に向かって赤ペンを走らせていたり、パソコンで書類を作成していたりと、生徒の休み時間も彼らは忙しそうに働いていた。

 広い室内に詰め込まれるように並べられたいくつもの机を見回しながら、目的の相手を探していると、「何をしているんだ。」と野太い声がかけられた。

 視線を向けると、熊のような大柄な体格をジャージで包んだ体育教師が私と網辺を睥睨していた。


「斎藤先生に用がありまして、」

 げじげじ眉の下にあるぎょろりとした眼は私の苦手とする眼差しをしていたので、ついおどおどとした物言いとなってしまった。

「もうじき昼休みも終わるから、後にしなさい。」

 男性教諭は恫喝するような低音で言うと、顎をしゃくって職員室から出ることを指示する。時計を確認すると、確かにあと五分もしないで昼休みは終わろうとしていた。込み入った話を聞こうとするには、残された時間は短過ぎる。教師の言う通り、ここは出直したほうが良いのかもしれない。私と新田は素直に踵を返して出直そうと考えていたのだが、網辺愛梨だけがずいとさらに一歩職員室の中へと足を踏み入れる。


「何故、昼休みが終わるからと言って、用事を後回しにしなければならないのかしら?」

「授業がはじまるからに決まっているだろうっ、」

「午前中、散々私が授業を受ける権利を剥奪しておいて、良く言えますね。」

 冷たく怜悧な眼差しを教師に返しながら、網辺は薄い唇をへの字に曲げる。感情の苛立ちを今日の彼女はいつになく発露していた。

「それはお前がちゃんと無実を証明できなかったからだろう。」

 教師は悪びれる様子もなく、むしろ長時間に及ぶ詰問も網辺の所為だと言う。この言い分には、当事者でない私も腹に据えかねた。しかし、一番腹立たしく感じたのは、当の網辺自身だ。


「『証言がデマであると証明すれば良いのですね。』と話しましたよね。私は貴方たちによって傷付けられた名誉を回復するために動いているんです。止めないで下さい。」

 研ぎ澄まされた刀のような鋭い眼光と口調が教師に刃を向ける。その威圧感は傍にいる私にも伝わってくるほどで、真正面から受け止める教師はその体格にも関わらず、後退る。

「それとも、先生が塚田黒斗のことを教えてくれますか?」

「塚田、」その名を呟くと、男性教師の顔から血の気が引く。「何でお前がその名前を、」

「今回の事件に、関わっている可能性が高いからですよ。」

 答えながら、網辺は進路を塞ぐ巨体を押し退けて斎藤の机へと向かう。


「なかなか賑やかで、楽しく見させてもらったよ。」

 近付く私たちに、斎藤は書類やファイルが幾層にも重なった机に頬杖を突きながら、低い声で笑う。

「これから楽しくないお話をしますので、事前に楽しめたのなら幸いです。」

「楽しくない話?」

「塚田黒斗の話です。」

 吊り上がっていた口角がピクリと痙攣を起こし、筋張った頬の皺が窓から射し込む陽射しを受けて彫刻のように固まって見えた。また、あの石仮面が彼の顔に張り付いていた。


「もう、彼の名前まで調べたのか、」

「名前だけではありません。彼がこの学校の図書室で自殺未遂を起こしたことも、知っています。」

 網辺は昨日図書館で二年前の新聞に当たり、現在の三年生が当時一年生であった時分に学校で何が起きたのかを確認したことを斎藤に伝えた。

「でも、何故彼が自殺未遂を起こしたのか、その自殺未遂に生徒がどのように関わっているのかまではまだ分かっていません。なので、その点を教えていただきたいのです。」

「何故、毎回私に質問をする?」

 頬杖を解き、斎藤は身構えるように太い腕を組んで問う。口許をいつの間にか笑みが剥がれて、きつく真一文字に結ばれていた。

「先日は、頼みごとをお願いし易い教師を選んだ結果でしたが、今回は先生が『塚田黒斗事件』について詳しいであろうから、お聞きに参りました。」

「私が詳しいなんて、勝手な思い込みだな。」

「実際に詳しいかどうかは分かりませんが、他の先生よりもいまだに事件に興味を抱いているのは間違いありません。」


「何故?」

「足しげく、図書室に通っているからです。」

「それは調べもがあって――、」

「今年になって唐突に図書室で調べ物をするようになったと?」斎藤の返答に、言い逃れの退路を塞ぐように網辺は言葉を被せた。「高校の図書室にある図書など高が知れています。教師が研究のために使う資料としては何度も通うほどの価値はないでしょう。」

「君たちは知らないが、別に今年になって図書室を使っているわけではない。」

「いいえ、頻繁に通うようになったのは今年になってからです。だから、森大地も今年読書会のメンバーに貴方を誘ったのですから。」


 たとえ以前から図書室を利用していたとしても、森が読書会を持ちかけるほどの頻度ではなかったはずだ。それが、今年読書会を立ち上げた後、最後のメンバーとして斎藤は勧誘された。つまり、それまではさほど図書室を訪れる比率は高くなかったと言える。

「では、何故図書室への来訪が突如増えたのかと言えば、今年になってから囁かれはじめた奇妙な噂のためです。」

「ドッペルゲンガー?」

 私は思わず口を挟んでいた。

「ええ。今年になり、三年生の間でドッペルゲンガーを見たという噂が流れだした。普通ならば、幽霊となるところを先輩方はわざわざドッペルゲンガーと呼んだ。それは図書室に現れたのが、死者ではないと知っていたからです。自殺が未遂に終わり、この学校から去った人間。だから、ドッペルゲンガーと言われ、噂となった。その噂を聞いて、貴方は図書室に頻繁に行くようになった。違いますか?」

 網辺の問いかけに、しかし斎藤は応えず腕を組んで口を結んだまま彫像のように椅子に座していた。

「頻繁に訪れたということは、貴方は『塚田黒斗事件』をまだ過去のこと処理できていない。他の人間は、教師も生徒も含めて噂を知っていながらも、現場である図書室に足しげく通って人間はいない。斎藤先生が誰よりも関心を抱いているのは、以上から分かります。」


 西日が左瞼に射し、斎藤はうっとうしそうに身体を捩ってから、深く溜息を吐いた。

「次から次へと良く理屈が出てくるものだな、」

「間違いがありましたか?」

「間違っていたのなら、気が楽だった。」

 もう一度深く息を吐くと、組んでいた腕を解き、顔には苦渋の皺が幾本も刻まれる。呼吸をするたびに皺は動き、鉱物のように膠着した凹凸のある石仮面の表情とは別物であった。


「それで、塚田の何が知りたいんだ?」

「教えていただけますか?」

「どうせ私が断っても調べ上げるのだろう。ならば、構わないさ。」

 肩を竦めると、斎藤の表情からは憑き物が落ちたように苦悩の兆しである皺も失せ、西日を受ける姿は何処か生々としていた。

 昼休みの終えるチャイムがスピーカーから響き、多くの教師が午後の授業のために職員室を出て行く。幾人かチラチラと私たちを見遣る教師もいたが、先程の遣り取りを見ているからか、強くたしなめるものもいなかった。

 私は新田へ視線を向けるが、彼女は首を振って、その場に居続けることを選んだ。私たちが去らないことを確認してから、網辺は目的の質問を切り出す。


「ではまず、何故塚田黒斗は自殺をしようとしたのでしょうか?」

「悪事がバレたんだ。そして、元三組の生徒が正義感に突き動かされて、担任であった塚田を追及、断罪した。」

「それで自殺未遂を、」

 網辺の表情がにわかに曇る。逸脱行為や悪事を嫌い、正しきことを是とする私と彼女が、当時の三組に所属していたら、同じ行動取っていた可能性がある。それはつまり、人を死に追いやる行為だ。恐らく、目の前に鏡があれば私の顔にも陰りが兆していることが見て取れただろう。

「死を選ぶことはないのに、進退維谷まっていたんだろうな、」

「それで、塚田教諭が行った悪事というのは?」

 曇った表情のまま、しかし淡々とした口調で、網辺は問いを重ねる。


「痴漢だよ。それも中高生を狙ったものだったから、女子生徒が殊更に追及をしたんだ。」

 斎藤の口から漏れた痴漢という言葉に、私は背筋に嫌悪感が走り抜けるのを感じる。以前私も電車の中で痴漢に遭遇したことが何度かあったが、他者の手が衣服や皮膚の上を這いまわる嫌悪と恐怖は、今思い出しても筆舌に尽くし難い。


「痴漢、ですか、」細い眉を寄せ、網辺は首を傾げて何かを考える。「塚田教諭の顔が分かるものを拝見できますか?」

「写真が確か、あったはずだが、」積み重なった書類を脇に退け、ブックエンドに挟んでいるいくつかのファイルの中からひとつを取り出し、頁をパラパラと捲る。「あった、あった、」

 ファイルから取り出したのは、一枚の写真だった。飲み会の席なのか、雑然と小鉢やグラスが散らばったテーブルの前で、顔を赤めた斎藤と同世代の男性が肩を組んでカメラ目線でガッツポーズをしている。

「右に映っているのが、塚田だ。」

「彼が――、」

 受け取った写真を見詰めながら、網辺は目を見開く。その脇から写真を覗き込む私も、斎藤と同じく赤ら顔で拳を突き上げる男性の顔を認め、大きく動揺した。


「ヒーロー?」

 家族以外に登録されていた連絡先の主であり、二年前に私を痴漢から救ってくれた男性の顔がそこに映っていた。

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