123. グングニル

 アークがグングニルを発動させるよりも、少し時を戻し――。


 バベルの塔、最終局面。


 鬼の姿となったロキが黒い軍勢を引き連れ、バベルの塔に向かって進軍していた。


 そこでルインが一人で対峙していた。


「一人とは勇敢なのか、愚かなのか。お前ら蛮族は後者であろうな」


「勇敢であっても愚かではない」


 ロキが眉をひそめる。


「この軍勢を一人で止められるとでも?」


「死した者たちを集めて軍勢と? 死にぞこないの集まりでしょ」


「その死にぞこないにお前は殺されるのだ」


 千を超える死の軍勢。


 古代文明人たちの怒りだ。


 殺せ、殺せ、という怨嗟がルインの耳に届く。


 その声を聞き、ルインは悲しくなった。


 何百年もの間、憎悪し続けるなんてどれだけつらいことだろうか?


「ここで私が終わらせる。何百年と続いたくだらない因縁とやらをね」


「お前一人で何ができる? 私を倒したければアーク・ノーヤダーマでも連れてくるのだな」


「ええ、そうね。でも残念。アークはここに来ない。代わりに、私があなたの最期を見守ってあげる」


 ルインがここに立つことに意味がある。


 彼女は目印だ。


「見守るだと? 何様のつもりで――」


 ルインがロキの言葉を遮るように空を指差した。


「アクア」


 ルインの目の前に水の柱が立つ。


「何のマネだ?」


 ロキがいかぶるように眉を寄せた。


 と、次の瞬間。


「――グングニル」


 まばゆい閃光が降り注いだ。


 否、それは光ではない。


 槍だ。


 巨大な槍がロキたち軍勢に落ちていったのだ。


 時間ときが止まったかのような、錯覚。


 気がつけば、音もなく、風もなく、大地が抉られていた。


 人為的な……否、神の力による消滅。


 死の軍勢は形もなく消え去っていた。


 神によって葬り去られた。


 あまりにも圧倒的で理不尽な一撃だ。


「……ッ」


 オーディンを受けながらも、まだ存在を保っている男がいた。


 ロキだ。


 満身創痍、あとは消滅するだけの状態。


「これが……いや、そんなことはどうでもいいか」


 ロキが首を横にふる。


「すべては神の手のひらの上か。結局、我らは神にもてあそばれる存在だとでも? くだらん結末だ。実にくだらん」


「立場が違えば、私はあなたのところに立っていたのかもしれない。

私もすべてを失い、一人で立ち尽くしていたのかもしれない」


 それはルインが見た悪夢。


 アークがいなかった場合、ルインはヴェニスを失っていただろう。


 もっと言えば、アース神族がヴァン神族に負けていれば、ルインたち現代文明人が死の軍勢となっていた可能性もある。


 しかし、どれもあくまで可能性の話だ。


 結果は、ルインは何も失わずにいる。


「そんな……ごたく、どうでもいい。オーディンとは本当に不愉快な存在だ」


 ロキは負けた。


 街を奪われた憎悪を、ロキは何百年もの間持ち続けてきた。


 しかし、それをあざ笑うかのように、一瞬で軍勢を壊滅させられた。


「ロキ。一つだけ訂正がある」


「……なんだ?」


「すべては神の手のひら、ではない」


 ロキは静かに目をつむる。


「そうか……。あの男か……」


 誰とまで言わなくとも、一人しかいないだろう。


 アーク・ノーヤダーマだ。


「あなたはいき・・・過ぎた。もう十分なほどに」


「哀れみか?」


「そうね。哀れに思うわ。同情だってしてるかもしれない。

だからこそ、最期の役目は私じゃないといけない。

この憎しみの連鎖を断ち切るのは、私じゃなければいけない」


 ロキはゆっくりと瞼を開く。


「クフッ。アハハハハッ。それは笑えるぞ、小娘。憎しみの連鎖を断ち切るだと?

お前ら蛮族がはじめたことだろう? 都合が良すぎるとは思わぬか?」


 ロキの目には憎悪の炎が煮えたぎっていた。


 消えることはない、怒りが、憎悪が……。


「そうね。そうでも、ここで私が終わらせるの」


――ニライカナイ


 浄土の水。


 すべてを無に返す水魔法だ。


 この何百年も続いた戦いを終わらすのは、ルインの役目であった。


 ロキが浄土の水に包まれる。


「どうか、やすらかに」


 死んでもまだ憎悪を持ち続けるなんて、あまりにも不幸だ。


 ルインは、安らかに眠ってくれることを願わずにはいられなかった。


「クッ、クッ……フハハハハハハハッ。安らかにだと!?

そんなことできるわけがなかろう! この身が朽ちてなくなろうとも、この怒りだけは消えてなくならぬ!

お前ら蛮族共が地獄に堕ちるその日まで、私は待っているぞ! いつまでも! 何百年、何千年経とうとも――!」


 ロキが激高し、ルインを睨みつけている、そのときだ。


「――もう……苦しまないで。あなた」


 突然、ロキの後ろに女性が現れた。


 ロキが驚愕した顔で振り返る。


「お前は……シギュン……? なんでここに……。だってお前は……」


「もうあなたは苦しんだ。十分すぎるほどに苦しんだ。だからもう苦しまないでいいのよ」


「ふはっ。私は騙されないぞ……。お前はシギュンじゃない」


「あなた……」


 シギュンがロキの目をじっとみる。


「違うッ! そんなことはずはない。だってお前は……私の前で」


「私達のためにこれ以上苦しまないで。背負わないで」


 ロキが激しく首を振る。


「違う! 違う! 私は……何もできなかったんだ」


「いいえ。あなたはもう十分頑張りました」


「お前たちを殺してしまった。俺が不甲斐ないせいで……」


「違うわ。あなたは頑張って私達を守ろうとした。私達のために何百年も頑張った。

でも、もういいのよ。もう休んでもいいのよ」


「俺は……」


「子どもたちが待っているわ、あなた」


 シギュンの横に二人の少年が立っていた。


 ふたりとも笑顔でロキを見つめている。


「ヴァーリ……ナリ……。ごめん。俺は二人を守れなかった。お前たちにつらい思いをさせてしまった」


「大丈夫だよ。お父さん」


 ヴァーリが首を横にふる。


「お父さん。一緒に帰ろう?」


 ナリがロキに手を差し出す。


「……ナリ。ごめん」


「ううん、ありがとう」


「さあ、あなた? もう帰りましょう?」


 シギュンがロキに優しく微笑みかける。


「ああ、そうだな……そうだな……。俺はもういいのだな。ずっと昔から赦されていたのだな」


 ロキはナリ、ヴァーリ、シギュンとそれぞれを順に見やる。


 そして最後にルインを見た。


浄土の水ニライカナイか……。皮肉なものだな」


 ロキは泡となって消えていった。


 その顔には、すでに憤怒の形相は消えていた。


「……」


 ルインはロキに向けて静かに合掌した。

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