53. グレーテル

 とうとうオレは水の都ヴェニスについた。


 海に囲まれた都市、ヴェニス。


 かつて古代文明人が住んでいたとされる街だ。


 中央にはひときわ高い塔――時計塔がある。


 古代文明人によって作られた塔であり、街全体を360度見渡せる作りになっている。


 カミュラやラトゥから聞いた情報だ。


 やはり歴史を知っていると観光も楽しいな。


 いやー、しかしさすがは観光都市だ。


 いい景色だ。


 街が水と調和している。


 ゴンドラ乗りたいぜ。


 まあオレのような高貴なものはゴンドラではなく、豪華客船のほうが似合うがな!


 ふははは!


 しかし、ほんとにいい街だ。


 なぜもっと早くこなかったのか後悔するレベルだ。


 国一番の町並みにと言われるのも納得できる。


 街に入ると、ルインが出迎えてくれた。


 随分と豪勢なお出迎えだった。


 公爵自ら出迎えてくれるとはな……。


 気分がいいぜ!


 下々では一生体験できない高貴な体験だろう!


 公爵がやたらと「うちの娘はどうでしょう?」と聞いてきやがった。


 まあオレも大人だ。


 大人の対応をしてやろう。


 適当にルインのことを褒めてやった。


 公爵は顔をほころばせながら、オレを高級宿に案内してくれた。


 ふはははは!


 宿は公爵領の中でも最高級のものを用意してもらった。


 前世では一度も止まったことのないレベルだった。


 文明が違うというのもあるから、正確な比較はできんが。


 部屋に最低一人は使用人が付くなど、さすがは高級宿。


 宿の上から街並みを見下ろすと、まるで自分が天上人になった気分だった。


 平民には一生体験できないだろう!


 貴族は最高だ!


 だが一つだけ残念なことがある。


 最上階は別の客がいたことだ。


 くそっ、オレを差し置いて……。


 だが、まあいい。


 そんな些細なことを気にするほど、オレの器は小さくない。


 それより、自分よりも下の者をみて楽しめばいいのだ!


 わーっはっは!


 しかし、水の都か。


 上から見るもの良いが、たまには下々の気分を味わってみるのもいいだろう。


 よし。


 散歩でも行くか。


「お兄様。私も行きます。昨今のヴェニスは危険が多いので、お兄様に守っていただきたいです。

知ってます? 昨夜も殺人事件があったんですよ」


 と、エリザベートが言ってきた。


 そうか、殺人事件か。


 それは大変だな。


 まあどうせ犯人も小物だろう。


 オレの相手ではないが。


 というか、妹も伯爵令嬢だ。


 殺人犯程度に遅れを取るはずがなかろう。


 貴族なら小悪党など一瞬で葬れるはずだ。


 少なくとも、オレはそういうふうに妹をしつけてきた。


 武器の使い方も教えてる。


 まあオレは武器なんて使わないから、教えたのは他の奴らだがな!


 妹を守るつもりはないが、着いてきたいというなら断るつもりはない。


 というわけで、エリザベートと一緒に散策することになった。


 散歩といえばやっぱり犬だよな。


 とりあえずフントも連れて行くか。


 わんわん。


◇ ◇ ◇


 ヴェニスの街をうつむいて歩く少女がいる。


 彼女の名前はグレーテル。


――嫌だなぁ


 グレーテルは、鬱々とした気持ちを抱きながら歩く。


 水の都ヴェニス。


 多くの人で賑わう観光都市だ。


 グレーテルがここを訪れるのは初めてである。


 本当なら、グレーテルくらいの年齢なら、ヴェニスで大はしゃぎしてもおかしくないだろう。


 しかし、グレーテルは憂鬱な気分だった。


 ヴェニスが憂鬱なのではない。


 人生そのものが憂鬱だった。


 耳をすませば、表通りでは楽しそうな声が聞こえてくる。


 それとは反対に、グレーテルは人気のない裏通りを歩く。


 ヴェニスの治安は比較的良いとされるが、この年齢の少女が一人で、それもヴェニスの中では危険とされる裏通りを歩くのは危険である。


 案の定、


「おいおい、チビちゃん。こんなところを一人で歩いては危ないぜ?」


「へいへい。オレたちが案内してやろうか? いいトコ連れてってやるぜ」


「ぐへへへっ。お兄さんたちとイイコトしようぜぇ?」


 明らかなに低俗な三人衆がグレーテルに声をかけてきた。


 グレーテルの服は貴族のお嬢様が着るようなふりふりしたものだ。


 グレーテルを見て金になるとでも考えたのだろう。


「はあ……」


 彼女はため息を吐く。


 低俗な連中に対するため息ではない。


 グレーテルは色々と諦めていた。


 もうどうにでもなれ、と考えていた。


 考えるのもめんどくさい。


 と、そのときだ。


「……ッ」


 グレーテルは目を見開いた。


 グレーテルの瞳に、一人の少年の姿がうつった。


 その少年のことをグレーテルは知っている。


 抹殺対象ウォンテッドの少年である。


 偶然にも、いまグレーテルの目の前に暗殺対象の少年――アーク・ノーヤダーマがいた。


 その瞬間、グレーテルの直感が告げた。


 これはチャンスだ、と。


 組織を抜け出せるチャンスだと考えた。


 グレーテルはここしかないと考え、


「だ、だれかー!? たすけてー!」


 子供らしく、しかし本気でアークに助けを求めたのだった。


 もうこれ以上殺しはしたくないと願って。

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