10 〈水鏡〉の見た夢

   10 〈水鏡〉の見た夢


 ルミナスが使えるから強くなれたんじゃない。私が強くなれたのは、絶望を捨てたからだ。怒りを燃やし続け、憎しみを糧にしたからだ。どす黒い負の感情を絶やさなかったからだ。

 だがそれは誰でもできることじゃない。人を赦すことの難しさはよく語られるが、怒りや憎しみを常に忘れずにいるのだって簡単なことではない。

 私の周りの子供たちは、たぶんそれに疲れてしまったのだろう。故郷や家族、自らの尊厳を奪われたことに怒り続けることを諦めてしまった。

 ストックホルム症候群というものはよく知られているが、彼らのあの状況への順応はそんな生易しいものではない。自分たちを監禁している相手に対して、長期間同じ場所で過ごしているから親近感が湧いたというだけのものでは断じてない。あれは正に、生存のための適応と呼ぶべきものだった。

 自分は誘拐された奴隷なのだと思い続けながら過酷な日々を生きていると、人の精神は摩耗し、正気の糸は擦り切れてしまう。

 だが子供の環境適応力は凄まじい。どんな地獄でも生きていけるように自らを騙そうとする。自分は強い男に生まれ変わって、歴史上白人に搾取され続けてきた黒人の代表として世界を変えるために戦士として戦っているのだと、そう信じられれば救われる。

 彼らにはもはや演説や薬物による洗脳は必要ない。進んでその物語の住人になろうとする。

 建前のお題目をいつの間に真実として受け取ってしまうのを、誰が責められるだろう。無理矢理銃を持たされ戦わされているという事実を忘れてしまわなければ、狂ってしまうか殺されるかしかなかった。

 こうしてアイデンティティを再構築され、真に反政府ゲリラの一員として生まれ変わった少年たちは、自分たちを攫った大人の兵士と同じように、形だけの大義をかざして、負い目なく奪い、恥じ入ることなく犯し、笑いながら殺すようになる。

 一方少女たちは、〈猛牛〉がそうだったように、戦士としての新しい自分に価値を見出すようなことはなかった。だがそれとは違う形で環境に順応する者がいた。

「レッド、見てよ! 彼がくれたのよ」

 ある日一人の少女兵が誇らしげに見せてきたのは、金を手作業で加工したと思しき指輪だった。きれいな顔立ちの彼女がそれをはめた手をかざすと、陽光が眩しく反射した。

「この前の襲撃で村長の家から回収したのを、ボスに掛け合ってもらってくれたの。私のためにボスと交渉してくれたのよ」

 それが認められたのは、彼女に指輪を贈ったのが他ならぬ〈断頭〉だからだ。若い兵士が同じことをしようとしたら、一笑に付されるか最悪射殺されてもおかしくない。

「こんな場所で、あんな出会いだったけど、あの人は確かに私を愛してるのよ」

 あの教会があった村から彼女が連れて来られて以来、もう半年以上毎日顔を合わせていたが、あんなに幸せそうな顔で微笑んだのを見たのは初めてだった。

 私を除くと少女兵の中でひと際美しかった彼女は、澄んだ湖面――訳すとするなら〈水鏡〉と呼ばれるようになったが、そのあだ名のとおり、透き通るような曇りのない笑顔だった

 だが私はそれを喜べなかった。なぜなら〈断頭〉は〈水鏡〉が誘拐されたあの夜、彼女の身体を蹂躙し、純潔を踏みにじった男だったからだ。

 レッド隊に特定の兵士と疑似恋愛をする者が現れたのは初めてだった。かつて〈強肩〉の「妻」だった〈蛇喰鷲〉と同じく、権力を持った特定の兵士に「独占」されている状態だったが、この二人は確かに親密な関係性を築いているようだった。

 だがよりによって〈水鏡〉が、彼女を最初にレイプした〈断頭〉といつの間にか親しく笑い合う仲になるとは。それは犯されてすすり泣く彼女の姿以上に、痛々しい光景として私の目に映った。

 立場の強い男に気に入られたから、それを強かに利用しようとしている。そういうことなら何とも思わない。だが彼女は、本気で〈断頭〉隊の隊長に恋をしていた。

「なんて綺麗……私のいた村じゃ、こんなの見たこともなかった」

「……よかったな。似合ってるよ。でも戦闘のときは、光を反射しないようにポケットに入れときな。失くさないように注意してな」

 私はこの二人の間に生まれたものを愛だと認める気は毛頭ない。

 だが「あんたたちの愛は偽物だ。奴のはただの薄汚い欲望。あんたのは現実逃避だ」と〈水鏡〉を諭してどうなる? この地獄で心の平衡を保つには、そうした偽りの安らぎが必要になることもあるだろう。彼女が見せた環境への適応は、破壊や殺戮に楽しみを見出すようになった少年兵たちと同じく堕落と呼ぶべきもの――少なくとも私にとっては――だったが、堕ちることでしか生きられないなら、誰がそれを責められる?

 だから私は何も言わない。ただ、彼女の愛が真実かどうかなどという問題とは全く別の事情で、二人の行く末には悲しい運命が待ち受けていることは知っていた。

 あの日、私の父を撃ったのが〈断頭〉だったからだ。

 心底〈水鏡〉を哀れに思った。〈断頭〉の末路は決まっていた。私に殺されるか、その前にどこかの戦場で戦死するかだ。



 一方、変わる子供たちを俯瞰で見ているつもりだった自分は、そうした適応とは無縁だったかと問われれば、私にもそうした兆候はあったと言わざるを得ない。洗脳に身を任せはしなかったが、戦場に身を投じて共に死線をくぐり抜けるうち、山賊同然の〈徴税人〉に、そして私が率いるレッド隊に、いつからか帰属意識が芽生えていくのは止められなかった。

 部下の少女兵だけでなく、男たちを助けてしまったことも何度もある。奴らを今にも撃とうとしていた政府軍の兵士を射殺したとき、私の胸中には仲間を助けなければという思いがあった。深手を負った奴らに応急処置を施しているとき、助かってほしいと望んでいる自分がいた。

 慣れというものは厄介だ。薬物のように急激に人間を変えはしないが、コンクリートを侵食する雨のように意志を穿ち、魂を蝕む。憎しみの刃はいつでも研ぎ澄ませておかないと、歳月によって錆びてしまう。

 私がそれを痛感するのは、夜毎ボスに呼び出される時間だ。初めの頃は犯されるのは死ぬほどの苦痛だった。復讐のために何があっても生き延びるという不断の決意を持ってしても、嵐のような陵辱を受けているときは、最後の逃げ道を選ぶことを自分に許しそうになった。明日の訓練で、銃口の向きを百八十度変えるだけで、いつでもこの地獄を終わらせることができる。それは甘美な誘惑ですらあった。

 それが数か月経つ頃には、自殺を考えることはほぼなくなっていた。その事実こそが、人間の所業とも思えない汚辱にすら慣れてしまったということそのものが、私をどん底に突き落とす。誇りや尊厳を奪われることに何も感じなくなってしまったら、それはもはや奴隷以下の家畜だ。

 だがそうやって日々心に刻みつけられる爪痕さえもが、私を強くしたのも事実だ。憎しみを常に心に抱え、日々の訓練も実戦も全てを目的のための糧とすることを意識する。張り詰めていつ千切れてもおかしくない日々の中で、戦場はむしろ自分を解き放てる場所だった。実戦は来たる復讐の日に備えて殺しの方法を試す予行演習の場にもなっていた。

 やるときはまずボスからと決めていた。全員を殺る前にこっちが殺られてしまったときのため、最も憎む相手は先に始末しなければならない。

 ボスに組み敷かれているとき、身体の感触をなるべく意識から追いやり、こうしたことを考える。

「レッド、おまえは最高だ」

 事を終えたボスが耳元で囁く。身長こそあまり伸びなかったが、月日と共により女の身体つきになっていく私は、ボスにとって飽きることのない玩具だった。

 自分をレイプした男に愛情を抱いてしまった〈水鏡〉を思い浮かべた。私たちは異常な日常を生きている。正気を手放して狂気に身を任せた方が楽な状況があることを知っている。何があってもボスに対して親愛の情が湧くことなど絶対にありえないと、どうして言い切れる?

 ボスが他の男が私に触れることを一切許さないのは単なる独占欲に過ぎないし、時々私が喜びそうな贈り物をくれるのもただの気紛れだろう。奴が私に注ぐのは醜い獣欲だけだ。もし仮に奴が、何か愛と呼ぶものに似た感情を持ち合わせているのだとしても、私が憎しみを少しでも軽くする理由にはならない。

 抵抗せずに恭順の姿勢を見せる私と、めったに乱暴にすることはなくなったこの男。周りから見れば、ボスが言うように私は奴の「妻」に収まったように見えていたかもしれない。だが私がされていることがレイプであることに変わりはない。夜を超える度に憎しみは強まるべきだ。それなのに、気が付けば束の間ボスへの激しい憎悪を忘れているときがある。

 人は長い間、四六時中怒り、憎み続けることはできない。それができるのは、もはや人間ではなくなったときだけなのかもしれない。

「おれが好きか、レッド?」

 無防備な姿を晒したボスが時折問いかける。

「私はボスを尊敬してます。ボスのために戦い続けます」

 ボスは満足気に笑い、それ以上追求しない。

 全てが嘘とも限らない。歓迎の儀式の射撃パフォーマンスはたいしたことなかったが、この男は兵士として他の男たちよりもずっと優れていた。銃やナイフの扱いも、ほとんどはボスか〈断頭〉に直接教えられた。

 だからこそ私は、できることならボスを殺すときに銃もナイフも使いたくなかった。自分が教えた技術で殺されるというのも皮肉が効いているが、それよりも私は自分だけの力で、自分だけの技術でこの男の息の根を止めたいと考えていた。

 それができたなら、憎しみ以外の何かが芽生えてしまっていたとしても、その感情ごと奴を葬れるような気がした。

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