2 地獄の門
2 地獄の門
その村を訪れたのは、ようやく異文化での暮らしに慣れてきた頃だった。
両親の視察に同行していた私は、いくつかの単語を繋げて何とか意思を伝えられる程度には現地の言葉を使えるようになっていた。暑さにもホテルで出される見知らぬ料理にも身体が適応してきていた。既に予定滞在期間の半分は過ぎて、二週間後には帰国の途に就くはずだった。
何事もなければ、そうなっていた。
「ようやく安全な位置にある地方の村を訪れる許可が下りたよ。首都だけ見て帰ることにならなくてよかった」
父が持ってきた知らせに母は眉をひそめた。
「でも都市部以外の集落は反政府ゲリラの襲撃と隣合わせだって話でしょう? 危険じゃない?」
「この国の外務省が、どのゲリラ勢力の活動地域からも遠く離れた村を教えてくれたから大丈夫だよ」
都市部だけ見てもその国の窮状を理解したことにはならない。どうにか地方の暮らしを見ておきたいという父の希望が叶った結果だったし、政府のお墨付きを彼らが疑う理由はなかった。
だから翌日私を伴ってそこへ向かった。
四、五時間は車に揺られて辿り着いたその村は、文明と切り離された世界のようだった。
レンガを積み重ねて作られた家は上等な方だった。中には藁や木の枝を組み合わせた、とても人の住居とは思えない粗末な物体も散見された。その中の一つ、一際大きなものの出入り口から茶色い牛が現れたので、これは家畜小屋だったのかと近くの小屋を通りがかりに覗いてみると、今度は寝転がった人間と目が合った。
そんな村の人々でも携帯端末の一つくらいは持っているものらしく、私より少し歳下くらいの子供が二人、私たち三人を遠巻きに見ながら端末を向けてきた。どうやら珍しい白人の客を写真に収めたくなったようで、微かにシャッター音が聞こえた。
私は自分の端末がしばらく前から通信圏外になっているのを確認していたが、彼らの端末はどうだったのだろう。この辺鄙な村でも電波は通っていたのか、或いは通信機能は使わずにカメラやゲーム等の機能が主な用途だったのか。
村の長と思われる老人が、一番大きな建物――といっても私には小屋としか表現できないものだったが――に私たちを招き入れた。
先程私たちに端末のカメラを向けてきた子供たちが、金物のコップを持ってきて差し出した。このレンガ造りの小屋は小さな窓のような隙間がいくつか開いていて、風が通るようになっていたもののひどく暑いことに変わりなく、水をもらえるのはありがたいはずだった。だが薄暗い小屋の中でも、その液体が飲用に適しているとは思えないほど濁っているのがわかってしまった。
「貴重な水をありがとうございます」
父は躊躇うことなくそれを飲み干した。ここまでの長旅でいくら喉が渇いていたとはいえ、飲み水ならそもそも都市で購入してここまでトラックに積んできた物資の中にも含まれている。だが父は供された水をいただくのが礼儀だと思ったようだ。
「さっきざっと見た限り、この集落には井戸がありませんね。小屋の中にあるとか?」
運転手兼通訳の男が質問を訳して伝えてくれた。
「井戸は昔枯れ果てて解体しました。今では遠くの川まで女子供が水を汲みに行っています」
そう聞かされると観念するしかなかった。私はコップに口をつけると恐る恐る水を口に含んだ。ひどい味がしたが何とか飲み下す。ちらりと横に視線をやると、母も思わず顔をしかめながらそれを口にしていた。
私たちは出国前に数種類のワクチンと、汚れた川や湖の水を煮沸せず飲んだ程度では腹を壊さないくらいの性能を持った医療用マイクロマシンを注射してきていた。茶色い水を飲んでも健康を害する恐れはなかった。
父と村長が村の状況を話し合っていると、戸口から私より年下に見える女の子二人が覗き込んできた。
「あの子たちはお嬢さんに興味津々らしい」
村長の言葉を通訳の人が訳してくれた。私は立ち上がって戸口に向かった。言葉が通じないので気後れはあったが、ここで座っているのも退屈だったところだ。それにいよいよ小屋の中の暑さにもうんざりしてきた。小屋の隅には一体いつの時代の代物だろうという小型の発電機らしきものがあり、携帯端末が二台繋がっていたのだが、おそらくこれが熱を放って余計に室温を上げていた。
両肩に三つ編みを垂らした方の女の子が私の手を引いて外に連れ出した。何か言いながらこちらの首の横辺りを指差す。私は自分のセミロングの黒髪を一房摘んで指差した。女の子はそれを指差し、自分の三つ編みを掴んでこちらに向けてくる。
「三つ編み、結んでくれるの?」
両手で髪の毛を両側に持ち上げてみせると、女の子は口を開けてニッカリ笑った。どうやら意思疎通が図れているようなので私は背を向けた。他人に髪の毛をいじられる不安がないわけではなかったが、女の子の三つ編みは上手だったし、私のストレートの髪ならもっと簡単に編めるだろう。
出来上がったのはお揃いの二本の三つ編みではなく、一本の長い三つ編みだった。私は携帯端末のカメラを自分に向けて仕上がりを確認した。悪くない。両脇の女の子二人と一緒にフレームに収まり笑顔で自撮りを撮った。
気配は感じ取っていたが、私が村の広場に背を向けている間に、既に何人も村の子供たちが集まってきていた。せっかくだから集合写真でも撮ろうか。帰国したら友達に見せよう――
車の走る音に気付いたのはそのときだ。子供たちが口々に何か言う声に交じって、複数の車が近づいてくる音が聞こえた。私と同時に何人かの子供がそちらに目をやる。
私と両親が首都から来た方向から、頑丈そうな車が四台走ってくるのが見えた。
この村の住人ではなさそうだけど――と考えた直後、子供たちが喚きながら散り散りになった。一目散にそれぞれの家らしき小屋に駆けていく。その姿に不穏なものを感じ、ようやく来訪者の正体に思い至ったのと、平穏を破壊する音が響いたのは同時だった。
乾いた爆発音の連続。そこに混じる、十メートル先のレンガの壁が弾けた微かな音。
車が近づいてくるにつれ喧(かまびす)しくなる爆音――それは私が生まれて初めて生で聞いた銃声だった。
何が起きた? この村は安全だったはず――この国の政府が保証したのではなかったか。
「なんだ今の音は!? まさか銃声?」
外に飛び出してきた父の声が微かに聞こえた。辺りを見回していた父は私を見つけると駆け寄ってきた。
「お父さん、あっちから車が来る!」
四台の車のうち二台がこちらに向かっていて、残り二台はそれぞれ別の方向に回り込むように進んでいた。怒号が響き渡る。そして銃声。悲鳴。銃声。悲鳴。
「なんなの? 一体どうなってるの!?」
遅れてレンガ造りの小屋から飛び出してきた母が叫んだ。
「とにかく逃げるんだ! こっちへ!」
父は私の手を引き走り出す。後ろで母も駆け出す。
けれどどこに逃げると言うのだろう? 私たちが乗ってきた車は襲撃者たちがやって来る方向にある。反対方向に走って、車なしでどうやって追っ手から逃れられるだろう。
連続する銃声が私の鼓膜を叩き続け、そのせいでかき消されそうなか細い悲鳴が微かに聞こえてきたとき、それが母のものだと一瞬気づかなかった。遅れて振り向くと、母は脚から血を流して倒れていた。
父と一緒に母に駆け寄って、一見して重傷とわかるくらい血を流し続ける母を二人で抱き起そうとしたが、母の上げる悲痛な悲鳴に思わず怯んだ。
「あああっ! ――だめ! 立てない! ――わたしのことは置いて逃げて!」
「そんな……」
私は何も言えなかった。母を連れて三人で逃げることは不可能だとその一瞬で理解してしまっていたからだ。
「ロゼリア、一人で逃げるんだ! あの林まで走れ!」
父が指差す先の灌木の茂み――葉が少なく身を隠すことはできないが、車は入ってこれない。奥の方では緑が濃くなり、その先はどこへ通じているのかわからない。他に逃げ込めそうな場所は皆無だった。
一瞬躊躇こそしたものの、私はすぐに駆け出した。生存本能のままに、後ろの両親を振り返ることもなく。
時々夢想する。あのとき林の奥まで逃げられていたら。運よく深い森まで辿り着き、追っ手をまくことができていたら。
現実的でないのはわかっている。このときの私が野戦に慣れたゲリラたちから森で逃げ切れる可能性はゼロだ。それにこの地の森は少女がたった一人で生きていける世界ではない。
それでもこんな空想は慰めになった。携帯端末にはオフラインでも閲覧できる百科事典が入っている。そこからサバイバルの知恵を検索し、数日間生き延びることは可能だろうか? ナイフ一本持たずに火をおこす道具もない着の身着のままで? もし数日なら耐えることができたとしても、救助を呼ぶことができなければ死を待つ他なかっただろう。
だがどんな形で死を迎えることになっても、現実に待ち受ける運命ほど不幸ではなかっただろう。
林までもう少しで手が届きそうな所で、横から回り込んできた車が行く手を塞いだ。荷台から数人の男たちが飛び降りて向かってくる。私は絶望で止まりそうな脚を必死で動かし、反対方向に引き返した。
置き去りにした父と母が、跪いて銃口を向けられていた。そのうちの一つがこちらを向いた。銃声が響き、恐怖に立ちすくむ。
ここで死ぬかもしれない――そう思ったのは生まれて初めてだった。今の銃弾が当たっていればあっさりと私の人生を終わらせたはず。それを悟った瞬間もう脚を動かすことはできなくなった。
固まった私に一番身体の大きい男が近づいてきた。ゆっくりした足取りだったが、男が手にした銃を見たら逃げ出すことなどできなかった。黒い肌の中で白目の色だけが目立つその眼光を向けられたとき、自分が男に恐ろしいことをされるという予感がして震えた。
凍りついた私を冷たく見下ろした大男に手首を掴まれた。私は咄嗟に手を引いて逃れようとした。その直後頬に鋭い痛みが走り、景色が揺れた。頬を張られたのは初めての経験だった。
「乱暴はやめてくれ! 大使館に――」
思わず立ち上がった父の声が、銃で殴られて途切れた。父は押さえた口元から血を流しながらも、再び顔を上げて叫んだ。
「大使館に連絡して、私たちを無傷で返せばイギリス政府が――いや私の会社が身代金を払う。悪い話じゃないはずだ」
父は辺りを不安げに見回した。はぐれてしまった通訳を探しているようだった。
「人質か。三人は要らないな。無傷である必要もない」
英語で無情な言葉を放ったのは大男の口だった。言葉が通じる驚きと話が通じない絶望が同時に襲ってきた。交渉の余地がないのを悟った父の顔は見る間に色を失っていった。
大男が合図を送ると、父に銃口が向けられ――同時に父が獣のような咆哮を上げて銃を向ける男に飛びかかった。
銃にしがみつき、奪い取ろうともみ合った。物静かな父のあんな必死な形相を見るのは初めてだった。だがすぐに背後から別の男に銃で殴られ、倒れ伏した。
間髪入れず、一切の容赦なく父の背中に銃弾が撃ち込まれた。何発も。父の身体が跳ね、動かなくなった。
私は叫んだ。銃声よりも大きな声で。また頬を張られた。
その後の私の行動が、自分の運命を象徴していたように思う。私は反射的に男に殴り返していた。子供同士のけんかでさえ手を出したことなどなかったのに。そのときは自分の行動に驚くよりも父を撃たれたことで頭がいっぱいだったが、後から思えば、私には暴力に対して暴力で対抗する才能のようなものが最初から備わっていたのかもしれない。
予想外に小娘に殴り返された男は一瞬驚いた顔をした後、楽しそうに笑った。私の手首を離すと、肩から吊るした銃を構えた。
「いい度胸だ。見込みがある」
銃口はひざまずいて泣き崩れる母の方へ向けられた。母の周りの男たちが小走りでその場を離れた
私が声を上げる前に銃が吠え、弾丸が母を貫いた。
何も考えられなかった。ただ呼吸が苦しい。
だが混乱の中でたった一つの事実だけが否応なく突きつけられる。父と母が殺された。それだけを理解する。
完全に力を失った身体を引きずられるようにして、村の中央に他の子供たちと並べられた。私以外に八人。ただ泣くだけで一言も発さない。
次々と車の荷台に乗せられ、どこかに連れて行かれる段になって、ようやく悲しみが襲ってきた。もう二度と両親には会えない。車が悪路に揺れる音が嗚咽をかき消す。周りの子供たちはみんな世界の終わりのような絶望の表情で俯いている。村を走り去る際、大人の死体をいくつも見かけた。この子たちの親かもしれない。
親を殺され、さらわれて――だがこれは長い地獄の、ほんの始まりに過ぎなかった。
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