鮮紅のロンギヌス

宮野優

1 灼熱の地 


 雲間から三日月の光が差す夜だった。決行の日としては悪くない。満月では明るすぎるし、新月では暗すぎる。

 手元さえ見えないような暗闇でも計画を遂行できる自信はあったが、相手の顔が見える日を選びたかった。

 深呼吸して小屋のドアを開ける。マットレスの上で上半身を起こした男の裸体がランプに照らされる。「夫」であり、ボスであり、師でもあった男。

 内心を隠して嫣然とした笑みを見せる。それはもう習慣になっていて、これから何をしようとしているか気取らせないのは少しも難しくない。

 この男と過ごした日々が改めて脳裏に浮かぶ。濃密な苦痛に満ちた歳月と、その終わりに思いを馳せる。醸成し続けたものを開放する瞬間を前にして、胸が高鳴るのを抑えきれない。

 他の男たちのことも考える。既に眠りに就いている者、仲間と談笑している者、女を抱いている者、見回りをしている者。数十人の男たちが、今日を平穏無事に終え、明日を迎えることに何の疑問も抱いてはいないはずだ。

 共に苦難を乗り越えてきた仲間たち。それも確かに一つの事実ではあった。長い間助け合い、戦いに勝利してきた。敗走の憂き目に遭ったときも、力を合わせ生き抜いた。

 そんな男たちを、今夜皆殺しにする。

 目の前の「夫」を死に至らしめた後、何十という命を、一人残らずこの手で殺し尽くす。

 改めて月光の塩梅を思って微笑む。男たちの最期の顔をしっかり見ることができるか、それだけが気がかりだったから。



   1 灼熱の地


 あの日、世界の何もかもが崩れ落ちる音を聞いた気がした。銃声でも悲鳴でも罵声でもない。音は頭の中で響いていた。信じていた世界が壊れていく音。世界の本当の姿を知った日。そして怪物が生まれた日。



 両親の口からその国名を聞いたとき、アフリカのどこかにあったはずだということ、そこでたくさんの人が殺されているらしいということ以外、私には何も思い浮かぶものはなかった。

「アフリカに? どうして?」

 そこはあまりに遠い地に感じられた。地図を見るまでもなく、アメリカなんかに比べればずっと近い位置にあるのは確かだったが、自分たちの住む世界と遠く隔たれているように思えた。

「あの国、あの地域が今地球上で最も救いを必要としている地で、以前から私たちがあの地に対して支援しているのは知ってるね。だが彼らを救うには、もうこれまでどおり一部の富裕層にパーティーで呼びかける寄付では到底追いつかないんだ」

 父はそう語った。長年にわたる内戦によって荒廃したその国に対して続けていた支援活動の一環で、父自身が現地に出向き、まずは一か月ほど滞在して視察する計画だった。

「より多くの人を、金を動かすには、言葉だけじゃなく行動で示す必要がある。私たちが現地に出向いて、この目で見たものをみんなに伝えて、助けを呼びかけなきゃならない。ただでさえ『海の向こうにばら撒く金があるなら国内の貧しい人々を助けるべき』という声も多いからね」

 この「私たち」は父と母を指していて、そこに愛娘である私は含まれていないはずだった。

「ロゼリア、あなたも一緒に来ない? あなたの成績なら一か月くらい学校を休んでも平気でしょ?」

 ところが見聞を広めるためという名目で、両親はその地に私も連れて行こうと思い立った。母は実に気楽な様子で私を誘ったものだった。

「あなたに広い世界を見せたいの。ロンドンにいたら実感できないもの。世界にはどれだけ悲惨な環境で生きてる人たちがいるか。わたしたちがいかに恵まれていて、そういう人たちを助けなくてはいけないか」

 断ることもできたはずだ。一切の華やかさと無縁の、砂漠やサバンナのイメージしかないようなアフリカ大陸への旅。一般的に十二歳の女の子にとって魅力的だろうか?

 私は数日考えてから答えを出した。ヨーロッパやアメリカを訪れる快適なバカンスとは違った冒険の予感に心を踊らされたからでもあるし、結局のところ両親の熱意が伝染したのだろう。

 父は篤志家として知られた資産家で、会社経営の傍ら――というよりビジネスの舵取りはほとんど他人に任せてそちらをライフワークにしていたようだが――慈善事業に尽力していた。幼い頃から私がドレスで着飾って出席するパーティーの、八割くらいがライヴリー家主催の寄付金集めのそれだったと記憶している。

「社会が過渡期に立っている今こそ、裕福な者たちは富を分け与えなきゃいけない。年々失業者が溢れてるのにベーシック・インカムの額は明らかに足りてないし、経済格差こそ縮まったが精神的には富裕層と貧困層の断絶は深まるばかりだ。恵まれた環境に育った私たちが今何もしなければ、いずれ必ず治安の悪化や無軌道な犯罪の増加という形で自分たちの首を絞めることになる」

 父は小学生の私を子供扱いせずに時々こうして自らの活動理念を語った。ノブレス・オブリージュを体現する父は私の誇りだった。

 篤志家としてのイメージを守るためだったのか、ライヴリー家の資産を考えれば私たちの普段の生活は慎ましいと言ってもよかったくらいだが、父の理想に共感していた母はそうした暮らしぶりに文句一つ言わなかったし、経済的に働く必要がなくても病院や児童養護施設でのボランティアに通い続けた。

 両親を尊敬していたし、二人から向けられる愛情を疑ったこともなかった。この先の人生で彼らを恨むことになることなど、想像したこともなかった。

 あのときロンドンを離れることがなければ、私の失うものが二つで済んでいれば――



 灼熱の大地に降り立ったときから、その国に対して好意的な印象はほとんど持てなかった。十分に冷房の効いていない空港からして、自分が貧しい国、遅れた国に来たことを強く意識したのをよく覚えている。両親に植え付けられた情熱パッションを上回るような受難パッションの予感に、初日から既にイギリスに帰りたい気分になっていた。そしてそれ以降、私がこの地に来てよかったと思える日は一日だってなかった。

「ロゼリア、この暑さをよく味わっておくんだよ。この熱気や渇きを。そういうものこそ、実際に現地へ足を踏み入れないとわからないことだ」

 まとわりつく不快な熱に項垂れることもなく、父の目はますます使命感に燃えているようだった。

 迎えに来た政府の職員の車で滞在先のホテルに向かった。粗末な、いかにも途上国といった感の住居が多い地区を通る途中、廃墟めいた四階建ての集合住宅の白い壁の大きな落書きが目を引いた。

 大人の背丈より大きな黒い字で書かれたあまりにシンプルな記号。もしかしたらこの国の人の中には、それがアルファベット二文字だと認識できない人もいるかもしれない。

 UO。

「白人がほとんどいないこの国でも、黒曜連合の支持層は広がっていると聞きます。実際のところ、黒曜連合の台頭後にテロが増加している傾向はあるんでしょうか?」

 助手席の父が運転する政府職員に尋ねた。この車には自動運転機能さえないようだった。

「そちらがどうかは知りませんがね、この国じゃあ別にそれでテロが増えたってこともないんですよ。元々これ以上増えようがないほどテロが起きてるんでね。UOの存在は、精々あの反政府ゲリラの連中にそれらしいお題目を与えてるってだけですよ。そんなものがあろうとなかろうと、奴らは無関係に同じ国の弱い人間から奪っていく」

「形だけでも黒曜連合の同志を語るなら、富裕層をターゲットにしそうなものですが」

「富裕層なんてものはこの国じゃ数えるほどしかいませんよ。彼らは屋敷の周りを警備で固めてるし、ゲリラはそもそも首都には、ましてや富裕層が住むセキュリティのしっかりした地域まではやって来ない。攻撃されるのはほとんど、誰にも守ってもらえない僻地です」

「つまり実質的にこの国の状況は以前と変わってないということですね。それなのに、黒曜連合の名前が絡むと報道でその点ばかりクローズアップされてしまう。国のイメージ自体が悪化しているのか、我々が集める寄付金も年々減る一方です」

政府開発援助ODAもどの国からも削られてばかりです。まあどこも不景気なのは理解してますがね。そちらじゃあ人が機械に仕事を奪われてるんでしょう? プラハ人工知能条約なんてのも話題になりましたね」

「あれは高度なAI開発を制限してるだけで、今や多くの人間の労働の代わりは従来のAIで十分務まるんですよ。おかげで戦後最大の失業率を更新したくらいでね……実に六十年ぶりでしたよ。それが今もほとんど下がらずにいる。それ自体はもうずっと前から予想されてた事態なのに……対策が後手に回ったとしか言えません」

 私たちがロンドンを発った西暦二〇五一年はそうした不安定な時代だった。第三次世界大戦の気配はなくとも、文明の発展は一世代前に期待されたほどには進んでいなかったし、むしろテクノロジーの進歩は人々に恩恵よりも失業率の増加をもたらしたと見なされていた。停滞感がイギリスだけでなく世界規模で漂っていて、そういう土壌があったからこそ黒曜連合のようなテロ組織が急速に勢力を広げたのだろう。

「そんな状況で、なぜこの国を助けようとしてくれるんです? まずは自分たちの国を建て直すべきだと言ってくる人も多いでしょう?」

 政府職員の声からは、有難がっているのと同じくらい猜疑心も感じられた。それをあえて隠さず、値踏みするような、真意を見極めようと挑むような態度にさえ思えた。

「こんな状況だからこそですよ。我々の国で黒曜連合に取り込まれてるのはほとんど貧困層の若者です。そこを支援して国内のテロを未然に防ぐことはもちろん大事です。だが同時に海の向こうの途上国でもできる限りの経済援助をしておかないと、黒曜連合の思想に染まったテロリストの手はいつか必ずこっちまで伸びてくる。今のうちなんです。格差が生み出す将来への禍根を断ち切れるのは」

 テロを撲滅するには、まず貧しさからテロ組織に参加したりテロリズムに傾倒したりする人間を減らさなければならない。結局は経済的な援助がテロの芽を摘むことになる。それが父の信念だった。

「――憎しみというのは水をやらなくても育つ雑草のようなものだ」

 私は後部座席から二人の間に向けて話しかけた。いわゆる社交界の集まりによく連れて行かれた私は大人の話に首を突っ込むこともよくあったし、少なくとも父はそれに対して渋い顔をすることはなかった。

「――だが愛は水を与えなければ咲かない花だ。――そうだよね、お父さん?」

 これは寄付金集めのパーティーでのスピーチで父が多用した表現だった。

 高潔な理想論を掲げる一方で、父は決して人間の善性を盲信するほど楽観的な人ではなかったことがわかる。そして自分には乾いた大地に水をやる力があると思っていたことも。

 しかし父は世界の残酷さについて、本当に理解していたのだろうか? 水は奪うものでしかないと思っている人間の存在を、その恐ろしさを知っていたと言えるだろうか? 或いはそういう人間さえ自分が手を差し伸べることのできる対象だと思ってはいなかったか?

 今となってはもうわからない。それを父や母と語り合いたいのかもわからない。いや、どうせ二人が生きていたとしても穏やかに議論することなどできないだろう。きっと私は声を荒げて喚くことになる。

 ――あなたたちは私を置いて行くべきだった。

 ――そうしていれば私が失うものは、あなたたち二人だけで済んだのに。

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