第7話【浮上】

 数日後。

 私は自宅の洗面所にある鏡の前に立っていた。

 目の前では、女がこちらを見つめている。

 顔のあちこちにガーゼや絆創膏を貼り、最近は手入れを怠りボサボサになった長い黒髪を指先で弄んでいた。

 手元のスマートフォンに映し出された動画では、アナウンサーが原稿を粛々と読みあげている。


『――警察によりますと、十八日の午前六時頃、〇〇市〇〇町の海岸に、二十代くらいの男性の遺体が打ち上げられているのを、警察官が発見しました。男性は手に刺し傷があるものの死因は溺死と見られ、警察は殺人と事故の可能性を捜査しています。警察によりますと男は地域で活動する密漁グループのリーダーで、グループ内の内部抗争も視野に入れて――』


 蛇口を緩め、熱い湯を出す。排水口に栓をして、湯が溜まっていく音に耳を傾ける。

 正直なところ、どうやって自宅に戻ってこれたのか記憶が定かじゃない。

 ボートにあがってナイフでダイバーたちを脅して逃げ帰ったのかもしれないし、岸まで自力で泳いだのかもしれない。警察が間近だった筈だが、それもかわしてきたらしい。ダイバーたちの話が出てないことを見ると、彼らも逃げ切ったのだろう。

 女だから見逃されたのだろうか。女には甘い、と長谷が言っていた。

 考えても仕方ない。病み上がりのように、身体が重かった。

 意識がはっきりしたのは一日、泥のように眠った後だった。

 蛇口を閉める。電源を切ったスマートフォンを、溜まった湯の中に沈めた。防水とはいえ三十分もすれば水没して壊れる。

 平田のスマートフォンも海に流され恐らく壊れている。データをサルベージするにしても、それなりの時間がかかるだろう。

 繋がりは切れた。

 鼠のように、逃げ回る必要はなくなった。


 洗面台の脇に置いてあった鋏を握る。

 髪の先端を摘まみ上げる。

 開いた刃を、そっと髪に添えた。一瞬、躊躇する。

 そして、少しづつ切り始めた。

 あの頃も髪は長かった。

 まだ高校生で、友人もいて、母も生きていた。

 平田に酒を飲まされて、奴の自宅に連れこまれ犯された日も。

 泣き叫んで助けを求めても、私を組み伏せた平田は、ただ嘲笑するばかりだった。

 散々に蔑まされ、汚された。

 学校に全てをぶちまけても、何も変わらず、奴らにお咎めはなかった。平田の仲間の親は市議会議員で、私たち以外の全部は奴の味方だった。

 高校を中退した私と母親は逃げるように引っ越した。父親が病気で死んで、一人で私を育ててくれた母親も、世間の目に耐え切れず、最後は詫びながら自殺した。


 それから、私は逃げた。奴に再び見つかるのを恐れて隠れ潜んだ。深海の闇に沈みゆくように。

 『私』を『俺』に変え、私であることを捨てようとした。あの男に奪われた全てのモノを、思い出してしまいそうだったから。


 けれど、髪だけは切れなかった。


 長い髪が好きだと母が言っていたから。


 やがて使い終わった鋏を、洗面台に投げ入れる。腰にまで届こうかというくらいに長かった髪は、男と見まごう程に短くなった。

 特徴を変えれば、人相は誤魔化せると何かの漫画に描いてあった気がした。一番の特徴だろう髪を切った。

 私が早坂菜々緒だとは警察でも瞬時には識別できないだろう。

 警察が私を追っているのかは不明だが、用心に越したことはない。


 北海道から出ようと決めた。

 密漁で貯めた金は結局、この街を離れる資金として使ってしまい、あまり残らなかった。このアパートもすぐに引き払う予定だ。

 どこに向かうかは決めていない。人が多くて、隠れやすいところが良い。

 東京、大阪、福岡。都会が良い。

 もうここには何も残ってない。

 未練も、縛るモノも無い。

 そう思うと、少しだけ心が軽くなった。


 海の底から浮かびあがったみたいに。

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海の底の鼠 中田中 @nakataataru

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