第6話【落下】
何度目かの密漁。初めての夜から二月ほどたった頃だった。
その日、俺はゴムボートをワゴンから引っ張り出して広げると、船外機を取りつける。最初は四苦八苦していた作業だったが、今では滞りなく準備を終えられるくらいには慣れてしまっていた。
波に戻されそうになりながら、ボートを足で押しこみ、海に浮かべる。
いつもより波が高い。普段密漁を試みる時は無風で海が穏やかな凪の日を狙っていた。海中の視界や潮の流れなど、様々なリスクを回避するためだ。
漁を決行するか否かは、平田が最終決断を下すことになっていた。
珍しくドライスーツを着用している平田に声をかける。
「準備できましたけど――本当に行くんですか」
「どういう意味だ」
あからさまに平田は不機嫌だった。元から悪い目つきが一層鋭くなっている。いつもは平田の周りでたむろしているダイバーたちも、怒りを恐れて距離をとっていた。
「なんのためにここまで出張ってきてると思ってんだ。やるぞ」
「けれど、今日はいつもより波が高いですし……」
「俺に指図すんのか? お前に言われなくてもな、俺が一番状況ってもんを理解してんだよ。こんな程度の波、屁でもねえ」
平田が浜に唾を吐き、遠巻きのダイバーたちに準備を急がせる。
いつもならこの男は、危険を取らずに稼ごうとするはずだ。俺を脅して仲間に引き入れるたのも、警察に駆けこむのを防ぐためだ。
もし俺が警察に自首すれば平田は捕まるだろうが、すぐに刑務所から出てくる。そうなったらヤツは、どんな手を使っても俺を見つけ出す。その後どうなるかなど考えたくもない。
そういう損得勘定を常にしている男が、危険を顧みずにどうしても漁を強行しなければならないと焦っている。
平田は繋がりのあるヤクザに借金を作っている。返済期日が迫っているだろうか。
誰が言っていたことだったか。そこで、この話の出処であった長谷の姿が見えないことに気づいた。
ここ最近密漁に参加していない。アプリで連絡しても返事が返ってきていなかった。こういう難しい日にいてもらえると助かるのだが。
「行くぞ」
平田の号令を合図に、ゴムボートに乗り込んで沖に走らせる。最近は平田に代わって俺が舵を握ることも多くなった。ダイバー三人と共に無言で海を進む。
やがてゴムボートは沖合で停止した。
それと同時に、ダイバーたちが次々に海に飛び込んでいく。漆黒の海底に水中ライトが薄く光っているのが見えた。
ここからしばらく、俺と平田に出番は無い。ダイバーを見失わないよう、海面を注視する。
ポツポツと、顔に水滴を感じた。空を見上げると厚い雲が敷き詰められている。
「雨、降りそうですね」
「……」
平田はスマートフォンで陸周りの人員と連絡を取り合っていた。一刻と悪くなる事態に、焦燥感は募るばかりの様子だった。
「……長谷さんがいれば上手くいくのに」
ほとんど独り言だった。あの腕なら、この悪天候でも今潜っているダイバーたちの二倍は収穫できるだろう。
「なんだ。知らねえのかお前」
だが、平田は目を細めてため息を吐いた。
「死んだよ。あいつは」
「……えっ」
最初は聞き間違いかと思った。あまりにも淡々と口にするので、俺の知らない隠語でも使っているかと過ぎったくらいだった。
いや、信じたくなかっただけだ。
「……死んだ? 長谷さんが?」
「馬鹿な女だわ。あいつの男が隠し持っていたヤクをよ、打ったまま潜ってそのまま浮かんでこなかった。見つかったのは二日前だ。潮に流されて溺れた挙句死にやがった」
男の方も今頃指詰めもんだろうよ、と吐き捨てるように言った。俺は信じられずに食い下がった。
「薬物なんてやってた様子は無かったのに」
「あいつ個人の事情なんて知らん。こっちは慈善事業じゃねえんだ」
心臓がバクバクと強く跳ねていた。俺があからさまに狼狽えている様を、平田はせせら笑っていた。
「随分と長谷のこと気に入ってたようだな。なんだ、ヤりたかったのかよ。良い趣味してんな?」
怒りが全身の血を沸騰させて、身体を突き抜けた。
「ふざけるな」
「あいつ良い身体してたもんな。あれで結構、身持ち硬くてな。少しくらい味見させてくれても良かったのによ」
平田はゆっくりと近づいてきた。狭いゴムボートでは逃げ場がない。俺の腕を掴み、顔を覗きこんでくる。
「お前も相手してやろうか? 楽しもうぜ、昔みたいにさ」
ゾワリと鳥肌がたった。これ以上喋らせるなと全身が勝手に動く。
「離せっ」
掴まれた腕を大きく振って、平田の手を振り払った。転がるように船底を移動し、ゴムボートの両端で睨み合う形になる。両者の息遣いと波の音が聞こえた。
「おいおい、こんなところでやめようぜ。転覆するのはごめんだ」
先に構えを解いたのは平田だった。
「長谷について知らせてなかったのは謝る。こっちも色々とバタバタしていてな。陸に戻ったらじっくりと話そう」
表情はにこやかだが、目には何も浮かんでいない。この場を取り繕うだけの台詞を吐き出しているだけにすぎない。
しかし、ここで騒ぎを起こせば警察に見つかるかもしれない。それだけは避けねばならなかった。
「……わかり、ました」
やっとそれだけを答える。返答に満足したのか、平田はスマートフォンで陸周りとの連絡を再開した。
海に目を向ける。雨が海面に波紋を広げ始めた。
長谷が薬物をやっていたのかどうかはわからない。しかしこれだけははっきりしていた。
長谷は平田に殺されたのだ。
止めることだってできたはずだ。そんな状態で潜水なんてすればどういう結果になるなんてわかりきったことだ。自分の借金を返すために何としても稼ぐ必要があった。そのためには長谷の腕が必要だったのだ。
だから止めなかった。一人の女の命を奪い取った。
このままではいずれ同じ目に遭う。
無言の時間が続いた。お互いがお互いを警戒し、ボートの両端を陣取ったまま動かなかった。
雨はますます強くなり、ダイバーたちが浮かんでくる頃には水滴に顔を叩かれるのがハッキリとわかる勢いになっていた。
「雨の日にしては上出来だな」
黒光りするナマコが敷き詰められた網が揚げられるのを見て、平田は満足そうに呟いた。
「……早く戻りましょう」
「そうだな。陸の連中にも――おっと」
スマートフォンが震え、平田が応対する。
「今終わった。他の連中にも撤収を――何?」
余韻に浸ったままだった表情が、一気に険しくなった。しまいには「馬鹿野郎!」と大声で怒鳴る始末だ。
何かあった。この場いる全員が事態を察し、平田の通話が終わるのを待った。
電話を切った平田は、まくし立てるように言った。
「警察が来る。陸周りの連中が見逃していやがった。すぐに撤収する」
緊張が走った。舵を握り、ボートを岸に向けて走らせる。
しかし航行速度は遅々としていて、中々前に進まない。天候が悪化し波が高くなっているのに加え、大漁に獲れたナマコの重量がボートの足を鈍らせていた。
「やばいんじゃねえのか」
「くそっ、パクられるとか聞いてねえぞ」
潜水というダイバーたちは焦り始めていた。撤収できるまでにどれくらいの猶予が残されているのかわからないが、今の速度を維持すれば、捕まるのは確実だった。
「……平田さん、この速度では間に合いません」
「黙れ」
「ナマコを捨てましょう。そうすれば早く岸にたどり着ける。今回は諦めて――」
「お前何言ってんだ?」
平田が無機質な口調で言った。
「せっかくの獲物をわざわざ逃がすバカがどこにいるんだ」
「けど、ここで捕まれば元も子も無いですよ」
「生意気な口を利くようになったな。少しばかり使ってやったら調子に乗りやがって。そんなにサツが怖いか、あ?」
「あんたの個人的な事情に巻きこまれたくないだけですよ。借金作って自業自得のクセに、人を殺して平気な顔していられるやつとは」
「誰が殺しただっ!」
逆上した平田が、ダイバーたちを押しのけて掴みかかってきた。咄嗟のことで避けることもできず、底に引き倒される。
衝撃でゴムボートが大きく揺れた。
「邪魔するんじゃねえ! 舵握ってろ!」
ダイバーたちが俺たちを引きはがそうと手を伸ばしたが、平田の怒声に身を引いた。その内の一人が俺の代わりに舵を握った。
「お前ダメだなやっぱ。あの頃からなんにも変わらねえ。食われるしか能の無い無様な鼠だ」
胸倉を掴まれ、吐息がかかるくらいに顔を引き寄せられる。
「ヤクザに金借りて火の車の馬鹿が大物ぶるな、人殺し」
視界がぶれて、火花が目の前に散った。頬の痛みに、殴られたのだと遅れて気づいた。
「頼むから喋るな。可愛い顔が台無しだ」
拳が腹に刺さり、たまらず咳きこむ。
平田の手が放され、身体が解放され蹲る。
平田は勝ち誇った笑みを浮かべていた。
「決めたぜ早坂。お前は陸に戻ったら犯す。前ん時の比じゃねえぞ。俺のモノを進んでしゃぶるようになるまで躾けてやる」
「ふざけるな……」
起き上がりながら懐のポケットをまさぐり、硬い感触を探す。やがて、それを見つけ出した。
折り畳みナイフ。長谷からの贈り物。
自分の身体で覆い隠すように隠しながら、平田に気づかれないよう刃を引き出す。ダイバーたちも、茫然と平田を眺めていて気付いていない。
「――うな」
「あん?」
静かに立ち上がる。そこで初めて、平田はナイフに気がついた。
もう遅い。
「もう俺から――私から奪うな!」
震える脚に喝を入れ、突進する。
何かを踏みつけた。網の中のナマコだ。
気持ち悪い。
驚きに歪んだ男の顔が見える。
気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。
ナイフを平田の胸に向ける。
狭いボートだ。かわせない。
周りの奴らも気づくのが遅れた。
止められない。
「おまっ――」
両手を突き出して私を止めようとする平田の身体に、思い切りぶつかった。刃が肉を貫く感触。胸を外れ、身体をガードしようとした手に刺さっていた。
そのままバランスを崩し、平田と共に海面に落ちた。
衝撃。意識が一瞬飛ぶ。平田が手足をカエルみたいにばたつかせている。
意地汚い。まだ生きているのか。
なおも藻掻いていたが、やがて沈んでいくのが見えた。
意識が、黒く染まっていく。
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