外伝・幕間(不定期更新)

白鷺楓花(本編第70話)


 マルタイは、あぶなっかしい。

 線が細い、身体の弱い優男の癖に、無防備に死地へ乗り込んでいく。

 自分以外の人を救うために。

 何の見返りもなく。

 

 「見返りはちゃんとあるよ。

  じゃないか。」

 

 意味が、分からない。

 

 なにも告げられずに抗争の最中の組事務所に

 単身で乗り込まれた時は、流石に殴ったけど。


*


 沢埜啓哉の元に潜った時、

 Kファクトリーは、すでに、虫の息だった。

 思い通りに動かなくなった妹を目の前にすると、

 啓哉は暴れ出し、妹の稼ぎで買った絵の地下室に閉じこもり、

 絵に癒されながら、カッターで破壊して廻った。

 

 精神が壊死していく啓哉と、

 それを淡々と支える無表情な筆頭秘書の眼を掻い潜りながら、

 必死に事務所内の書類を漁ったけれども、

 出てくるのは借用書の束ばかり。

 

 本当に、この気狂い男が、

 父を殺した犯人なのか。

 そう、訝し始めた時。

 

 「貴方に必要なのは、

  絵なんかじゃ、ない。」

 

 マルタイが、快心の笑顔と共に、

 御禁制のギターケースを手渡した時、

 私は、目もくらむような過ちを犯していたことに気づいた。


*


 BWプロによるKファクトリーの吸収合併を経た後、

 私は、マルタイこと藤原純一プロデューサーの

 専属秘書兼護衛役となった。

 

 チャラいスーツとサングラスを着けたマルタイは、

 いかにも胡散臭い業界人を装おうとして、

 笑ってしまうくらい、様にならなかった。

 

 朝。

 いつものように梨香様との口喧嘩を楽しみながら、

 社長室の一角に陣取ったマルタイは、

 次々と、社内に指示を飛ばしていく。

 

 新ユニットの創設、

 柏木彩音のソロプロジェクトにプロデュース、

 梨香様の新曲プロジェクトに、白川由奈のツアー先の選定。


 秘密裡のギターユニットに、

 沢埜啓哉を加入される奇想天外な極秘プロジェクトまで、

 すべて、マルタイの独創・独断であり、

 土地買収に忙しい御前崎社長は、ほぼ追認しているだけ。


 「……あいつは、何を考えている。」

 

 合併後も会長に収まった隼士が、

 口ひげを捩じりながら首に手を当てている。


 わからない。

 なにも、かも。

 はっきりしていることは、ただ一つ。

 

 マルタイは、普通の男じゃない。


 女の癖に、女の分際で、なんてこと、絶対言わない。

 女だから、女ではなんてことも、一切言わない。


 尻なんていくらでも触れられる身なのに、

 手一つ、握ったことがない。


 ごく普通に、あたりまえのように、

 女性と、対等に、話してくれる。


 目が、温かい。

 声が、限りなく優しい。

 

 頼りないこともあるが、

 仕事はめちゃくちゃできるし、

 さりげなく事務所の職員達を助けて廻っている。

 年齢や、顔の器量に関わらず。


 マルタイは、たまに、じっと立ち止まる。

 真剣な瞳で考え込まれるから、声を掛けられない。

 横顔が彫刻のように美しく見える。

 

 そんな姿を、激務に突っ伏して倒れるように眠る顔を、

 事務所の全女子に見られてるなんて、

 絶対に、気づかないんだろうな。


*


 三か月前。


 「あの事件の真犯人は、沢埜啓哉だ。」

 

 闇に溶け込みそうなバーで告げられた時、

 私の脳に、電流が走った。

 

 沢埜啓哉。

 

 妹、沢埜梨香をプロデュースし、

 飛ぶ鳥を落とす勢いで芸能界を席巻する

 Kファクトリーの社長。

 

 「沢埜啓哉は、元々はロックバンドのリードギターだ。

  煽動の経歴を隠すためにロンドンに渡り、

  ほとぼりが冷めた頃に戻って来た。


  売れっ子の啓哉に、過去の罪を問う奴はいない。

  いても、背後の力で潰される。

  

  啓哉の後ろには、塩谷一族がいる。

  啓哉は塩屋の血を引いている。

  あの許しがたい一族が、大罪人を護っている以上、

  こちらからは、どうすることもできないんだよ。」

 

 今にして思うと、このストーリーはできすぎていた。

 警察OBを名乗る情報源こそ、精査すべきだった。

 しかし、この時は、私の拙い捜査が、

 すべて繋がった気がしてしまった。

 

 「啓哉の動向を探るために、

  身辺に潜り込ませているんだが、

  次々とクビになっている。

  

  どうも、警戒心が強い男のようでね。

  弱ったものだと。」

 

 私が。

 私が行くしかないのだと。

 父の無念を、晴らすのだと。


*


 「っていう話なんじゃないの?」

 

 二人しかいない車の中で。

 マルタイは、あっさりと、

 私が内偵者であると、私自身に告げた。


 このオトコはバカなのか。

 私が、お前を殺すなんて、一瞬で

 

 「できないよね。

  僕を殺したら、

  きみの父上の無念は、一生闇の中だから。」


 っ。

 

 「これを早く言ったのは、

  きみに、真犯人に繋がる組織を挙げてもらうため。

  それと、もうちょっとだけ、

  道を覚えてくれる秘書になって貰うためかな?」


 照れたようにはにかみながら告げるマルタイの綺麗な瞳に、

 私は、白旗を挙げるしかなかった。


*


 潮間みゆきさん。

 マルタイの友人、御崎紗羽さんの友達らしいが、

 その行動はだいぶん変わっている。

 

 「あの壁、よじ登れそうだな。

  やってみよう。」

 

 といって、何の変哲もなさそうなビルを、

 ひとりでよじ登っていく侵入経路の特定

 その身体能力に敬服はするが。


 「先走った者がいるようだからね。

  後追いしてるのさ。」

 

 意味が、まったくわからない。

 あのマルタイと気が合うのだから、この人も変人の類なのだろう。

 なにもしなければ雛部長よりも美人なのに。


*


 「……あの野郎、

  とんでもねぇもんを押し付けて来やがった。」

 

 汐屋隼士。


 かつての潜入先であり、

 いまは、私の身元保証人。

 

 無造作な髪を隠れ蓑にしているが、

 着ているものから革小物に至るまで全てイタリア製の特注品。

 身ぐるみ剥ぐだけで私の薄給の五年分は出そう。

 

 暗室のような部屋に、

 所せましと並べられたジャズレコードのコレクション。

 これだけでサラリーマンの家が二十軒買えるんだっけ。

 

 「お前の見たいもんだろうから、

  見せてやれ、だとよ。」

 

 ばさっと投げられた封筒には、

 数枚の書類が入っていた。

 

 暗い部屋の中で、

 必死に目を通した私は、

 文字通り、全身が震えた。

 

 時任主税。

 警察庁官房長を勤めた超大物OB。

 趣味の音楽が昂じて音楽事務所に天下った変わり者であり、

 音楽業界の裏の元締めになりつつある。

 

 その裏が、

 まさか、こんな。

 

 「ミュージシャン共を薬漬けにしてやがる。

  幾重にも、周到にな。」

 

 ロックミュージシャンは、

 反体制で、ヤク中で、アル中で、社会のはみ出し者で、

 アメリカの悪しき文化に汚染された唾を吐くべきものだと、

 教えられてきたのに。

 

 その教えが、作られたものだと。

 そして、それを利用して、

 誰にも気づかれずに巨富を産み出している者がいると。

 

 「コイツが連れてきた奴のうち、

  桜の代紋警視庁で有名なノンキャリがいてな。」

 

 暴力団対策班は、暴力団対策のために日常的に暴力団と接している。

 警察を辞めれば、構成員と見まがう行動を取るものも出てくる。

 その中に、

 

 「日下部周良。


  ノンキャリなのに次長まで登った奴でな、

  暴対でなにかと重宝されたらしい。


  秘書を通じて与党の政治家との関わりも深い。

  表に出せないタイプの実力者って奴だ。

  

  そして、

  お前の父親の殺害を指示した張本人だな。」

 

 頭をぐわんぐわんと殴打され続けている。

 真犯人は警察、それも、上層部であり、

 バックには有力政治家がついている。

 

 父は、そいつらを護る側だったのに、

 そいつらに、背中を刺され、ゴミのように棄てられた。


 嘘だと、思いたかった。

 しかし、少ないながらも、決定的な証拠の数々。


 現場にいた被害者、出動していた派出所詰め警察官、

 警備部担当者の証言に、公安による内偵報告書みゆきのリーク

 すべては、警察内部の犯行を指し示している。

 

 「……ただの学生が、

  なんでこんなもんを持ってやがるのか、

  謎でしかねぇけどよ。」

 

 世捨て人を気取る、

 国内有数のコングロマリットの血筋を継ぐ隠れ紳士は、

 人を殺すことを躊躇わない側の眼をギラリと光らせた。

 

 「生憎、生まれてこの方、

  売られた喧嘩には、勝って来たほうでな。」


*


 汐屋隼士が、塩谷一族に喰いこむ暗部を暴いていくうちに、

 警察出身者達の裏ビジネスが、次々と明るみに出て行く。

 その一つが。

 

 「お、俺は、知らん。

  俺は、なにも、知らんっ!」

 

 表の顔である白川由奈の付き人として

 テレビ局で逢った敏腕プロデューサー氏が、

 不貞腐れた顔で叫んでいる。

 

 高級ホテルを隠れ蓑に、現役アイドルとの性交渉を斡旋していた

 広域暴力団、志偶組のフロント企業。

 公安刑事だった潮間さんの捜査線上にあがってきた

 闇深い企業を摘発した先には、

 時任主税が絡む裏ビジネスに繋がっていた。

 

 そして。

 

 「遂に、尻尾を掴んだよ。

  天頂に達していても、

  所詮、人間だったってことか。」

 

 時任主税こそ、このシステムの上客であり、

 安邊菜奈、花園愛などの有名現役アイドルと身体関係を持っていた。

 代わりに、志偶組のシノギを目こぼしする構図だった。

 

 潮間さんは法務省系の公安刑事なので、

 圧力が掛からないわけではないものの、

 まったく動けないわけではない。


 「最終的には、官房長官の判断になろうがね。

  彼も警察畑だが、選挙の時に暴力団に痛い目を見ている。

  我々の側について下さるだろうよ。」


 私などが、調べられるものではなかった。

 己の無力さを痛感していると、

 

 「彼を動かしたのはきみだ。

  きみこそが、巨悪を引きずり出したんだよ。

  大いに誇りたまえ。」

 

 屈強なパンチパーマの彼氏を従えた

 屈託のない潮間さんの笑顔は、

 この世のものとは思えないほど美しかった。


*


 翌々日の夕方。

 私は、テレビ番組の公開録画に臨む白川由奈の付き人として、

 都内ホールの舞台袖で待機していた。


 白川由奈。

 女子も憧れるようなサッパリした態度でありながら、

 絵に描いたような清純派の容姿と受け答えの可憐さ、

 なによりその天使のような歌声を武器に、

 梨香様の牙城を崩しかけている実力派アイドル。

 

 新曲、『Assorted Love』は大ヒットし、

 梨香様の『Fanfare of Fate』と

 チャート上でのデットヒートを繰り広げている。

 今や同じ事務所なので、その点は気を遣わずに済むものの。


 「いやぁ、由奈ちゃん、クッソ可愛いよね。

  マジで一発くらいヤれないモンかねぇ。」

 

 あからさまに厭らしい欲望を浮かべるプロデューサーが、

 台本を丸めながら、オトコ同士だけに聴こえるように

 下卑た冗談で沸かせている。

 

 「ああいう娘こそ、

  あの店に来て欲しかったのに。

  俺、五百でも良かったよ。」

 

 チーフディレクターが合いの手を入れる。

 こいつら、機関銃で皆殺しにしたい。


 「お前、知らねぇの。

  あそこ、ガサが入ったぞ。」

 

 「えぇ?

  ウラ、サツの元締じゃなかったのかよ。

  ったくよう、大丈夫だろうな?」

 

 私は、心の底から安堵するとともに、

 これほどの早さで情報が伝わっていることに、

 一抹の不安を覚えた。


*


 確かに、

 時任主税は、逮捕された。

 

 しかし、私の真の仇、

 日下部周良には、お咎めがなかった。

 

 「このシステムを廻していたのは日下部だが、

  売春をしていたわけではない。

  というのは、勿論、表向きでな。」

 

 塩谷一族を掌握しつつある隼士が、淡々と解説する。

 

 「ある与党の有力政治家が、待ったをかけた。

  官房長官とは対立派閥なので、統制はできない。

  時任主税の逮捕と、志偶組への捜査で、

  面子を立てて手打ちをしたと。」

 

 歯がみする私に向かって、

 隼士が、見たことのない凄みのある表情を浮かべた。

 

 「楓花、軽挙妄動するな。

  お前が動いたら、計画が水の泡だぞ。」

 

 唖然とした。

 私は、隼士に、気圧されてしまった。

 

 「ここまでは、読めていた。

  俺達が、ここで終わらせるわけないだろう。

  必ず、お前の父親の仇は討ってやる。」


*


 翌々日。

 

 私の仇である日下部周良は、

 私の眼の前で、無残に殺された。


 テレビ局の廊下で、

 古手川琢磨のボディガードを引き寄せ、

 なにか耳打ちをしようとした瞬間に、

 そのボディガードに、銃を三発、喉に撃たれた。

 

 テレビ局のコンクリート剥きだしの廊下に、

 鮮血と肉片が飛び散っていく。

 

 金切声を挙げるテレビ局のスタッフやタレントの前で、

 私は、由奈を護ること以外、考えなかった。

 私の仇だと言うのに。私こそが首級を挙げるべきだったのに。


 「自分の側に裏切られるとは思わなかったとは、

  所詮、役人崩れよ。

  

  儂は関東志偶組若頭、鴇田清玄。

  世の理に反する極悪非道の輩に天誅を下したまで。」

 

 こちら側の眼をした犯人は、悪びれもせず、

 由奈に密着していたテレビカメラの前で、

 日下部周良の名と、この男の悪行、

 背後にある与党の大物政治家の名を告げていく。

 

 ようやく集団で押し寄せてくる警備員に対し、

 天井に向けて銃を放って静まらせた後、

 もう一度、密着するテレビカメラに向かって大物政治家の名を挙げ、

 

 「これは始まりに過ぎん。

  天網恢恢。薄汚い輩の網などに掛からずとも、

  天は、必ずおんしらを罰さんっ!」


 と叫ぶと、

 銃口を口に加え、一息で撃った。

 

 飛び散った脳漿の音は、

 戦後最大級の大事件を打ち鳴らす鐘を呼び込んだ。

  

 既に収監されていた志偶組組長は再逮捕され、

 検察への身柄送致により、警察官による復讐を躱す。

 

 一方、首相の指示で検察当局が動き、

 命知らずの週刊誌記者と連携しながら、

 くだんの与党の大物政治家と警察OB、

 暴力関係者の癒着構造が次々と暴かれていく。


 大物政治家の周囲に左右の街宣車が飛び交う中、

 大物政治家は議員辞職に打って出た。禊選挙である。


 しかし、大物政治家の選挙区に、

 首相の派閥から、与党の推薦を受けた新人候補が登場、

 大接戦の末、大物政治家は遂に議員バッチを喪い、


 「ようやっと逮捕に漕ぎつけられたわけでね。

  大変な捕り物だったよ。


  今回の件、警察側に相当手古摺らされたけれども、

  考えようによっては、幾分大胆に病巣を摘出できたね。」


 潮間さんは、この功績により、

 法務省の出世コースへと戻るのだと言う。

 

 「しかし、塩谷を敵に廻すと怖いね。

  あのオトコの行く先々が次々閉まっていてね。

  国交のない敵国への逃亡ルートすら塞いでいるのはたまげたよ。」


 ここまでしなければ、私の仇は、討てなかった。

 私は、自分を取り巻いていた敵の大きさに、

 今更ながら、慄然とした。

 

 「これですら、一番小さな処理国内のみだって言うんだから、

  ほんと、底が知れないね。」


*


 正月。

 

 私は、マルタイこと藤原純一と、

 こたつに潜りながらみかんを食べていた。

 浴びるようにみかんを食べていると、

 みかんの汁が手にかかり、ちょっと滲みてしまう。

 

 「みかんの筋って、

  爪に入るとくすぐったいよね。

  色も変わっちゃうし。」


 テレビでは、益体もない芸能人達が、

 特段意味があるとは思えない俄仕込みの隠し芸を披露している。

 こんな長閑な日々が訪れるとは、想像もしていなかった。

 

 「刺激に慣れちゃだめだよ。

  日常を楽しめなくなるから。」

 

 刺激の真ん中にいるであろう純一は、

 やけに真剣な顔をしていた。

 

 「もうすぐ、

  そしたら、終わりのない日常が始まる。


  きみは、親を不当に殺されながら、

  ケナゲに生きる女子大生に戻れる。」


 私は、笑って首を振った。

 私の手は汚れすぎて、もう、戻れない。

 私は、

 

 「戻るんだよ。」

 

 力強い声だった。

 

 いつのまにか、

 純一が、私の後ろに座っていて、

 私の首に、優しく手を廻してくる。

 

 背後を取られているというのに、

 私は、なにもできずに、

 

 「戻って、いいんだよ。

  かえでさん。

  

  辛かったね。

  ひとりで、よく、生き抜いてきたね。」

 

 私は、こたつ板に突っ伏しながら、

 涙とこたつと純一のセーターの甘い暖かさと、

 沸きあがる身体の痺れに綯交ぜにされていた。


 「きみは、すごい。

  すごいんだよ。」


 無理、だ。

 こんなの、無理、すぎる。

 

 私は、背中を俊敏に廻して純一の正面に入ると、

 戸惑っている唇を捉え、貪るように奪った。


*


 「なんだ、そんなことかぁ。」

 

 辞職を覚悟しての謝罪なのに、

 由奈は、驚くほどあっけらかんとしていた。

 

 「言ってくれるだけありがたいよ。

  やっぱり、楓花さんは警察官の娘なんだ。」

 

 あんなにいろんな女性に言い寄られているのに、

 彼女として、辛くないのか。

 

 「辛いよ、もの凄く。」

 

 その表情は、私に激しい罪悪感を植え付けた。

 

 「でも、わたしも同じ。

  アイドルやりたい、って言った時から、

  こうなるのは、覚悟してるから。

  

  それに。」

 

 性欲など欠片もなさそうな清純派の容姿を持ちながら、

 由奈は、

 

 「わたし、信じてる。

  何か、理由があるって。

  

  純一は、必ず、

  わたしに戻ってきてくれる。

  絶対に。」

 

 つよ、い。

 純一を、その心を、微塵も疑っていない。

 どうしてここまで、信じ抜くことができるのか。

 

 私は、己の節操のなさを心から恥じ、心に誓った。

 春フェスに向けてストイックなレッスンをこなす由奈を

 あらゆる邪な穢れから護りきることを。


*


 三月八日。

 春フェスの喧騒がひと段落した日曜日。


 「変わったよね、純一。」


 「何が?」


 こともなげに言う。

 その華奢な姿が、どんな屈強な男よりも

 頼もしく聞こえてしまうあたり、私も相当まずい。


 「だって、街なんて、出歩かなかったじゃん。」


 「警備担当としては、不安?」


 「うん。

  めっちゃ大変。」

  

 実際、大変だ。

 

 話している隙にも、

 警察OB崩れのヤクザ者が襲い掛かってこようとしている。

 それを、塩谷のボディガードが二人一組でさり気なく屠っている。


 「でも、事務所に籠ってるよりは刺激があるでしょ。」


 「……まぁ、そうなんだけどさ。」

 

 刺激しかない。

 そのことに、気づいているのか、いないのか。

 

 「あ。

  見て。」


 ストリートギターを鳴らす若者と、

 それを涙ぐみながら聴く大人達。


 「……変わったんだね、本当に。」


 これが、彼が望んだ世界。

 私の愛する人が、命がけで勝ち取った自由。

 

 私の隣で、稚拙なエレキギターの音色に耳を傾ける

 純一の横顔が、なぜか、遠く感じた。


 「……ねぇ。」


 端正な容姿の純一が、私を見る。

 その瞳が、ひどく、優しすぎて。

 

 不安が、沸き起こる。

 考えてもいなかった嫌な予感が、脳裏に膨らんでいく。



  「純一。

   どこへも、行かないよね?」


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浮気ゲーの主役に転生しちまった @Arabeske

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