誤字脱字 ―ごし”だつじ―

真殿すみれ

ごし”だつじ

 一連の出来事は、アシスタントから渡された空の茶封筒が始まりだった。


 私の職業はマンガ家。20代でプロデビューをしてからというもの、ありがたいことにそれなりに売れていて、50代になった今も大手マンガ雑誌に連載を1本持っている。連載以外にも、編集者に頼まれて時々短編を寄稿するなど、なかなかに忙しい日々だ。


 そのかいもあって、都市部にマイホームを購入できた。妻もいて、ペットのネコもいる。子どもはいないが、なかなかに順風満帆な人生といえる。


 当然、一人で描いているわけではない。アシスタントと呼ばれるマンガ制作の手伝いをしてくれる人間を雇って、数人で協力して完成させるのだ。


 アシスタントたちは大体がプロマンガ家デビューを目指しており、胸に野望を抱いて前向きに仕事をしてくれる。


 しかし、みんながそうとは限らない。最近雇ったばかりのアシスタントが、言動というか雰囲気というか、少し様子のおかしい青年だった。


 なんでそんな人間を雇ったのかと思われるだろうが、もちろん理由がある。彼はまだ20代だが、背景を描くのがべらぼうにうまい。しかも、今時希少なアナログ派の人間だった。


 マンガ制作に詳しくない人のために少し説明すると、この界隈で『アナログ』というのは、『原稿用紙にインクで描くこと』を意味する。しかし、技術の進歩した今は、『デジタル』で制作するのが主流になっており、『パソコンやタブレットを使いペン型マウスで描く』のだ。


 そのため、最近の若いマンガ家ほどデジタルで描く者が圧倒的に多い。いや、歳を取った私たちのような人間でさえ、今時はデジタルに移行する者も増えている。


 だから、未だにアナログで描き続けている私のようなマンガ家にとって、紙にペンで絵を描ける若者は貴重な存在だということがわかってもらえるだろう。彼が初めて仕事場と自宅を兼ねる我が家にやって来た時、目はうつろで声がぼそぼそして聞き取りにくくても、まあ少し内向的な性格なのだろうとしか私が思わなかったのも、仕方がないことだ。


 そうそう、その青年は利き手にケガをしていたっけ。自分で処置をしたのか、手当ての知識もないまま包帯をぐるぐる巻きにしました、という様子だったので覚えている。でも、この業界は腱鞘炎になる者が多いし、絵を描くことはできるようだから問題視しなかった。あとはそう、人懐こい飼いネコがやけに彼を避けるものだから、それも印象的だった。


 さて、その青年だが、初日は来てくれたのだが、次の日にはもう来なくなった。彼のスマホに電話をかけても、電源が入っていないために繋がらない。何せ仕事なので、こちらにも制作スケジュールの都合というものがある。これではとても雇えないと、彼を紹介してきた編集者に文句の電話をかけた。


「――というわけで、きみが紹介してくれた男の子だけど、とてもうちじゃ雇えないよ。ほかのマンガ家に紹介するのも迷惑だからやめたほうがいいよ」


 私が不満を隠さずに伝えると、電話越しでも「すみません、すみません」と頭を下げているのがわかるほど相手が委縮する。編集者はまだ30代なので、年上の私に対していっそう気を使うのだろう。


「本当にすみません先生。言い訳に聞こえるかもしれませんが、彼は今はあんな様子でも、以前は受け答えもしっかりできる好青年だったんです。絵もうまいし、近いうちにプロデビューするだろうと編集部でも評判で……」


「絵に関しては納得だけど、性格はとてもそうは見えなかったけどねえ」


「それが、2ヶ月ほど前から次第に内向的になって……実は先生のところでアシスタントをする前は、別の先生のところで1年以上働いていたんです。でも、性格に変化が起こってからクビにされちゃって。何か悩みがあるのだろうかと僕のおごりで食事に誘っても、辺りをきょろきょろ見回して、とても落ち着きがなくて……本当にどうしちゃったもんかと」


「もしかして、彼は前の職場でいじめられていたんじゃないの? それでメンタルをやられたとか」


「実は僕もそう考えたんです。だけど、彼に尋ねても、彼が働いていた職場の人間をそれとなく探っても、そんな事実は出てこなくて」


「でも、いじめって根が深いから被害者も加害者も真実を言えないものじゃない?」


「その通りです。それで僕、新しい職場で働いたら気分転換にもなって、元の元気な彼に戻ってくれるんじゃないかなって考えて先生にご紹介したんですけど……こんな結果になって本当にすみませんでした。また別の人を紹介させていただきますね」


 こうして、仕事をバックレたアシスタントくんの件は終わったかのように思えた。


 それがだ。


 今日の夕方ごろ、突然彼が尋ねてきた。完成したマンガ原稿を入れる、大きめの茶封筒を持って。


 彼の様子は以前にも増しておかしかった。げっそりとやつれた頬。そして、以前ケガをしていた片手だけでなく、片足もケガをしているのか、引きずるようにして歩いた。


「先生にどうしても見ていただきたくて」


「突然来ないから驚いちゃったよ」


「もう嫌になっちゃって」


「あー、まあ仕事はいろいろあるよね。その手に持っている封筒、もしかしてマンガが入ってるの? 来ない間は自分の作品を描いていたんだ?」


「もう嫌になっちゃって」


 そして、茶封筒を半ば強引に押し付けるようにして渡してくると、片足のせいで歩きにくそうにしながらも、さっさと帰ってしまったのだ。彼の考えることがさっぱりわからない。だからといって、情緒不安定な者を追いかけるのは、身の危険があるのでしなかった。


 手元の茶封筒には何も書かれておらず、とても軽い。念のため中を改めたが空っぽだ。彼はいよいよおかしくなってしまったのだろうか?


 呆然としていると、背後から声をかけられる。


「ねえあなた、お茶の用意ができたし中で話したら? お客さんでしょ?」


「もういいんだ、帰ってしまったから」


 リビングへ行って妻の入れてくれたアイスティーを飲むと、その冷たさでずいぶん心が落ち着いてくる。妻に彼とのやり取りについて話していると、どこからともなくネコが「にゃー」と鳴きながらぺたぺたと歩いてきて、イスに座る私の膝に飛び乗った。


「お前ったら、彼が来たものだから隠れていたんだろう。よしよし、お父さんのお膝の上なら安心だもんな」


「結局この子は、彼に懐かなかったわね」


 妻はそう言いながら、テーブルの端に無造作に置かれた、茶封筒に視線をやる。


「これはもういいの?」


「うん、何も入っていなかったし捨てていいよ。ねえ、今日の晩メシ何?」


「まだ暑いし冷やし中華にしようかな、冷しゃぶの乗った。あなた好きでしょ?」


 うん大好き。


 まだ仕事も残っているし、夕飯の時間までもうひと頑張りしよう。


「もう一杯お茶もらえる?」



 ◆



 様子のおかしい彼がやってきてから数日後のお昼過ぎ。


 先日渡した連載マンガの完成原稿について、編集者から電話がかかってきた。


「全体的に勢いがあってとても良かったです、この調子で続きもお願いします。……ところで、6ページの2コマ目のモノローグ、『喜 私は、まだ気づかずにいたのだ』は『喜“ぶ”私は、まだ気づかずにいたのだ』で良いですか?」


「うんそれで直してちょうだい」


「わかりました。それでは引き続き頑張ってくださいね。先生の原稿楽しみにしています!」


 疲れて注意力が散漫になると誤字脱字が増える。送る前に見直しているが、気づかなかったのだろう。


 そういえば……嫌な予感がして、仕事場にあるもっぱらネットサーフィンに使用しているパソコンを開く。仕事関係のメールを確認していると、こちらから送ったメールにやはりミスがあった。


 以下のようにだ。


 ////////////////////////////////////

 株式会社〇〇書店

 〇〇様


 いつも大変お世話になっております、作家の〇〇です。

 マンガ制作の資料としてお願いしていt、植物図鑑のこ手配ありがとうございました。

 先日、郵送にて届きま た。

 また次回もどうぞよろしくお願いいたします。


 〇〇より

 ////////////////////////////////////


「ああ……」

 つい、うめいてしまう。いい歳をしてこうも誤字脱字が多いのでは、さすがに恥ずかしい。このメールを送った日の自分は、そんなに疲れていただろうか?


 または、いい歳してなどと考えたが、むしろ加齢のせいかもしれない。視力も悪くなるばかりだし、ずっと机にかじりついて絵を描いて生きてきたので、運動不足の自覚がある。体を動かすために、散歩でもしてみるか。


 そう考えていたら、尻ポケットに入れていたスマホがヴヴヴ……と振動する。妻からの電話で、彼女は用事があって朝から出かけていた。


『あ、あなた? ちょ縺ぴり帰りが遅れそうだから電話したの。$っちは天ヲ縺が悪くて今もぐ√? ついていて……でも、お夕飯ョ律でには帰るからね』


「なんだか電波が悪くないか?」


『えっなあに? ああ電車が来たわ! じゃあお留守番よろしくね』


 そこで電話は切れてしまった。よく聞き取れなかったが、おそらくは……


『あ、あなた? ちょっぴり帰りが遅れそうだから電話したの。こっちは天気が悪くて今もぐずついていて……でも、お夕飯までには帰るからね』


 と言っていたのだろう。彼女はまめな性格だから、わざわざ連絡をくれたのだ。ずぼらな私とは対照的で、その違いがケンカの種になることもあるが、相手を魅力的に思う部分でもある。


「ふふっ……おや?」


 スマホをまたポケットにしまおうとして気がついた。どうしたことか、スマホを持っていた聞き手である右手の甲に、いくつもの引っかき傷が付いている。まさに小動物がつけそうな傷だが、我が家の大人しいネコに引っかかれた覚えはない。


「いつ作ったんだろう。紙の束か何かで擦ってしまったのかな?」


 マンガ家ということでただでさえ紙とは縁が切れないし、原稿用紙はほどほどに分厚いので引っかき傷を作ることはある。傷はできたばかりのようで、うっすらと血がにじんで赤い線になっている。


「商売道具の手にケガなんか ていられないな……ん?」


 ケガなんか“し”ていられないな、だ。なんということだ、とうとう呂律も回らなくなったか?


 すると、手に持っていたスマホがまた震えた。今度は、先ほど電話をした編集者からだ。


『何度もお電話をしてすみません、お伝えし忘れた件がありまして。今はお電話大丈夫ですか? ……ええ、ええ、ありがとうございます』


 ――ぺた


『実は先日お渡しした書類を至急』


 ――ぺた ぺた


『頂く必要がありまして』


 ――ぺた ぺた ぺた


『それをお願いしたくてご連絡を……今、そちらにどなたかおられますか?』


「ああ飼いネコかな、ご主人様の気も知らずにいいご身分だよ」


 ネコの足音など、電話越しに聞こえるものだろうか? 振り返るがネコの姿は見当たらない。この部屋はマンガを描くための荷物が多いから、どこかの死角にいるのだろう。


『ネコ? いえもっと別の……ああいえ気のせいです。それでは、本日中に受け取りにうかがいますので。おそらく夕方ごろになると思います。すみませんがよろしくお願いします』


 私は通話を切ると、編集者の言う書類を手に取る。何か入れるものがほしいが、残念ながら封筒の類は切らしている。しかし、慌てる必要などない。こういう時こそ妻頼みだ。何せ彼女はまめな性格だから、買い物をした際の紙袋やプレゼントについているリボンだのを、几帳面にも取って置いてある。


 書類を手にしたまま、仕事部屋を出て物置にしている部屋へ入る。確かお目当てのものは、押し入れに閉まっているはずだ。ふすまを開けると、押し入れの上段に収納ケースを利用してきっちりと整理整頓された袋の束があった。有名百貨店の袋に手を伸ばそうとして気がつく。ちょうどいいことに、大きめの茶封筒が一枚あるではないか。


 そうか、先日彼が来た時に押し付けられた茶封筒だ。


 なんとまあ、彼女はこんなものさえご丁寧にも取って置いたのか。妻にも彼にも感謝だな、ありがたく使わせてもらおう。


 ――するり


 足に何かが触れる感触がするが、私は作業中のため、そちらを見ずに言った。


「お前もついてきたのかい? お父さんはちょっとやることがあるから、もうちょっと待ってね……ん? 中に何か入ってる?」


 彼から受け取った時は確かに空だったはずの封筒に、一枚の紙が折りたたまれて入っている。妻が入れたメモだろうか? でも、彼女らしくない。


 手に取る。


 何か書かれている。


【まずこぶし っき”aし】


 これはなんだ?


 ――するり


「もうちょっと待って」


「まずこぶし、つぎはあしをちょうだい」



 ◆



 喫茶店特有の心地よい雑音の中で、編集者の僕は先生と原稿の打ち合わせ中だ。1ヶ月ぶりに会った先生は、ずいぶんやつれていた。まるで、アシスタントをしていた彼のようだ。


「でも本当に驚きましたよ。あの日、お宅にうかがって呼び鈴を何度鳴らしても先生は出てこないし、スマホに電話をかけても通じないものだから」


「そのタイミングで妻が帰ってきたんだってね」


「そうなんです。先生に何かあったんじゃないかって交番に電話をするか迷っていたら、ちょうど帰ってこられて。それで説明してすぐに鍵を開けてもらい入ったら、先生が倒れていて……窓を割ってでもすぐに入るべきでしたね、すいません」


「きみが謝ることじゃないよ。記憶はないけど、あとから妻に聞いたよ、パニックになっている妻の代わりに、きみが救急車を呼んでくれたんだってね。ありがとう。仕事も数か月お休みをもらっちゃって、なんか悪いね」


 先生は笑ってそう言うが、その事件以降、片手に包帯を巻き、片足を引きずるようになった。


 先生が倒れたすぐあとに編集長と連れ立ってお見舞いに行った。何が理由で倒れたのかを先生に聞いたら、医者からは、仕事による過労と、あとはネコにひっかかれてウイルスでも入ったんだろうと言われたらしい。しかし、先生は納得していない様子だった。何か思い当たることでもあるのだろうか?


「やっぱり、よくわからないモノには触れるもんじゃないね」


「え?」


「あったはずのモノがないのは良いけど、なかったモノがある時は用心しなきゃ駄目ってこと」


「はあ」


「いやあ、あれからね、いろいろと気にするようになったんだ。鍋の蓋を開けて昨日の残りの煮物が入っているから、さあ食べようかなと思うんだけど、でもこれは本当に昨日から入っていたモノなのかな……とかさ」


「先生?」


「引き出しを開けて仕事の道具を取る時も、これは本当に自分が用意したもので、前からこの引き出しに入っていたモノなのかな、とかさ」


「……先生」


「朝カーテンを開けて窓の外を眺めた時に、街並みがいつも通りに見えるけど、もしかして私が気づかないうちに何かが増えているんじゃないかな、とかさ」


「……」


「だから悪いんだけど、今きみが手に持っている大きな白封筒のそれも、そのまま私にくれるんじゃなくて中身だけを取り出して直接貰えないかな? 気づかないうちに増えているのも怖いけど、全部出したと思ってさあ封筒は捨てようとしたのに、中にまだ何かが入っていて、でもそれは私が取り出し忘れたモノなのか、はたまた今増えたモノなのかが私にはわからないからね」


「……わかりました」


 正直何もわからないが、僕はなんでもないようにほほ笑みながら、封筒の中身を取り出す。連載中のマンガに使う資料の写真が10枚と、やはり資料用に本をコピーしたA4用紙が3枚。あとは……


 ふと先生に目を向けると、僕が取り出す資料たちを食い入るように見つめている。忘れまいというよりも、例外を見逃さないようにしている、そういう感じだ。


「先生はスマホをお持ちだから、この資料を写真に取ればいいんじゃないですか?」


「それだと、映した写真をあとから眺めて何かが増えていたら嫌じゃないか」


「そうですね、すいません」


 先生が何を言っているのかやっぱりわからないが、とりあえず謝る。そして、資料を全部机に広げ終わると、先生が口を開いた。


「ところで、きみに渡したいものがあってね。もう嫌になったんだよ」


「なんでしょう?」


「もう嫌になったんだよ」


 そう言って先生は、持参したのであろう大きめの茶封筒を取り出した。にこにこしながら押し付けてくるので、受け取らないわけにはいかない。


 ずいぶん薄っぺらいけどなんだろう? マンガの原稿が入っているようには見えないが……


 そう思って封筒の中を見たが、やはりからだった。これがなんだというのだろう? なぜ先生の笑顔がいやらしく歪んでいくのだろう?


「どうしたんですか?  

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誤字脱字 ―ごし”だつじ― 真殿すみれ @madonosumire

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