「婚約破棄上等!」と思っていたら、改心した婚約者が性癖でぶん殴ってくるのですが

紫陽花

第1話

 私はロゼッタ・セラフィーニ。

 水の楽園ベラルディ王国の公爵令嬢であり、第一王子メルクリオ殿下の婚約者。


 そして、半年前に前世の記憶を思い出した転生者でもある。


 だから私は、ここが小説の世界だと知っている。


 今日このあと、メルクリオ殿下から婚約破棄を言い渡されるということも……。



 でも、実はまったく気にしていない。

 むしろ早く言い渡してほしいくらいだった。


 なぜなら……



 婚約破棄されたら、前世で推しだった「忠実な護衛騎士」のリベリオに告白するつもりだから!



 その楽しみのおかげで、半年前からずっとワクワクしていたし、メルクリオ殿下の私への冷たすぎる態度も寛大な気持ちで許せた。


 訳もなく無視されたり、ぞんざいに扱われたりしたとき、前世の記憶がなかった頃は傷ついてショックを受けたり、陰で涙を流したりするばかりだった。


 けれど、記憶が蘇ってからの私は違う。

 心からの笑顔を浮かべ、優しい言葉をかけてあげることができた。


『ふふっ、殿下らしくて大変結構ですわ。ずっとそのままの殿下でいらしてくださいね(そして半年後に私を解放してください)』


 あのときの目を丸くした殿下の顔といったら。

 今思い出しても笑ってしまう。



 ──……って、いけないいけない。笑ってる場合じゃないわ。



 ここは王宮の応接間。

 これからメルクリオ殿下が婚約破棄しにいらっしゃるのだから、ちゃんと真面目な顔で待っていなくては。

 

 緩んだ頬を両手で整え、神妙な表情を作ったところで、私ははたと考える。



 ──そういえば、婚約破棄の理由って何だったっけ?



 ……ああ、そうだ。たしか、ひと月前に出会ったばかりのエレナ男爵令嬢と真実の愛を貫くため、とかだったはず。



 どうぞ貫いてください。

 私もリベリオと真実の愛を育むつもりですから!


 小説では、婚約破棄されたロゼッタが嫉妬から悪役令嬢化し、エレナ嬢にさまざまな嫌がらせをするという流れだったが、私はそんなことをするつもりはない。


 推しのリベリオへまっしぐらだ。



 ──ふふ、どんな風にアプローチしようかしら?



 脳内でイメトレに励んでいると、やがてノックの音が聞こえ、メルクリオ殿下がやって来た。



「ロゼッタ嬢、今日は呼び出してしまってすまない。本来なら僕が公爵邸に出向くべきなのに……」


「いえ、殿下はお忙しい身ですもの。気になさらないでください」


「……ありがとう」



 殿下が物憂げな笑みを見せる。


 いつも私に冷たい彼がこんな表情を見せるなんて珍しい。

 一応、婚約破棄するのを悪いと思っているのかもしれない。


 向かいの席に腰掛けたメルクリオ殿下が、ためらいがちに口を開く。



「実は今日、君に伝えたいことがあって……」



 ええ、分かっておりますとも。

 こちらは心の準備万端です。

 ご遠慮なく婚約破棄しちゃってください。



「僕は君と別れたくない」


「はい! …………えっ?」



 あれ、私の聞き間違いかしら?

 今、別れたくないって聞こえたのですが。



「あの、殿下。私と婚約破棄したいというお話ですよね?」


 念のため確認すると、メルクリオ殿下はガタッと音を立てて立ち上がり、悲痛な表情で私を見つめた。



「違う、君と別れたくなどない……! 君はもう僕に愛想を尽かしてしまったかもしれないが、僕は君と別れたくないんだ」


「えっ??」



 一体どういうことだろう。

 ストーリー展開がおかしい。


 小説では、メルクリオ殿下が「君との婚約を破棄する」と冷酷に言い放つはずなのに。

 

 これには私も動揺を隠せない。



「ど、どうなさったのですか? 殿下にはエレナ男爵令嬢という真実の愛のお相手がいらっしゃるのでは……?」


「そのような令嬢など知らぬ。僕の真実の愛の相手は君しかいない」



 ヒロインの存在を知らないうえに、振られ役の私が真実の愛の相手だなんて、ますますおかしい。

 しかし、殿下の目は本気だ。



「で、ですが、私なんて、目つきが悪くて小言がうるさくてファッションセンスが古くて話がつまらなくて一緒にいても退屈な女だったのでは?」


「ぐっ……僕はなんということを……」



 メルクリオ殿下が胸を押さえてうなだれる。

 まさか私の返事にショックを受けたとでもいうのだろうか。

 あの私限定塩対応殿下が。



 ──実は本当に心臓発作を起こしたりしてないでしょうね……?



 言動もおかしいし、ちょっとだけ心配になって殿下のそばに駆け寄る。

 念のため脈拍を測ってみたほうがいいかもしれない。



「失礼します」


「なっ……!?」



 殿下の手首を握って脈を測ると、とんでもなく脈が速い。

 さっきまで青かった顔が真っ赤になっているし、これは危険な兆候かもしれない。



「で、殿下、まさか不整脈の持病でも……?」


「違う」



 殿下は私の手を取り、隣の椅子に座らせると、そのまま真面目な顔をして話し始めた。



「ロゼッタ嬢、僕は君に謝りたい」


「謝る? 殿下が私に? 一体何を……」



 訳が分からず眉をひそめると、殿下が突然ガバッと頭を下げた。



「今まで君に冷たい態度を取って本当に申し訳なかった。酷い言葉を放ってしまったことも、心から反省している」


「えっ、ちょっ、殿下!? 顔を……頭を上げてください……!」



 思いもよらない殿下の言動に、私は心底驚いた。

 先ほどから彼はどうしてしまったのか。

 私と別れたくないと言い出したり、急に頭を下げて謝罪したり。


 どうすればいいか分からずオロオロしていると、殿下がぽつりと呟いた。



「──"殿下らしくて大変結構ですわ。ずっとそのままの殿下でいらしてくださいね"」


「え……?」


「半年前に君から言われた言葉だ。この言葉を返されて、僕は自分の愚かさに気づいたんだ」



 殿下がゆっくりと顔を上げ、切なげな眼差しを私に向ける。



「知ってのとおり、僕と君の婚約は親たちが決めたものだ。立場上、政略結婚は仕方ない。そう頭では分かっていたが、本音では受け入れられなかった。君は僕に好意を向けて、歩み寄ろうとしてくれていたのに、それを僕はすべて悪いように受け取って、君を邪険にしてしまった。今思えば、甘えていたのかもしれない。何をしたって、君から僕を拒否することなどないと」



 後悔するように、わずかに震えた声音が静かな部屋に響く。



「だが、君は半年前から変わり始めた。僕が冷たい態度を取っても一切気にしていないように見えた。僕への関心が一気に薄れてしまったように感じた。それから、あの言葉を聞いて、君はもう僕のことが好きではなくなったのだと分かった。……馬鹿な僕は、そこでようやく気がついたんだ。君からの好意を失ってショックを受けた自分に。本当は、君がいてくれることで心が満たされていたことに──」



 殿下の青い瞳が不安げに揺れる。



「今までの君への仕打ちを心から後悔している。君が僕に嫌気がさすのも当然だし、別れたいと思われても仕方がないと思っている。だが、身勝手な願いだとわかっているが、どうかもう一度やり直させてほしい。以前の僕は本当に愚か者だった。君の切れ長の目は涼やかで美しいし、僕への助言もありがたい。クラシカルな衣装も君の聡明さを引き立てていて好ましいし、他愛のない出来事を楽しそうに話す君の姿はいつまで見ていても飽きない。これからは決して君を蔑ろにしたりしないから……お願いだ。僕と別れないでくれ」


「…………」



 私は衝撃を受けていた。

 こんなによく話す殿下を初めて見たことへの驚きもあるが、何よりも、彼の言葉に心を打たれてしまっていた。


 心から悔いていることが伝わってくる反省の言葉。

 私との別れを恐れ、赦しを懇願する切実な表情……。

 


 ──これは……私が後悔男に弱いと知っての所業ですかっ!?



 実は誰よりも心を許していたのにそれに気づかず冷たい態度を取っていた男主人公がいざ別れるとなったら彼女の大切さを思い知って後悔するシチュエーション……。


 私の大好物だ。

 それをこんな風に持ち出してくるなんて、ズルい。ズルすぎる。


 しかも、メルクリオ殿下は恐ろしく顔がいいから、その破壊力も凄まじい。



 ──なんてこと……! 一瞬、別れなくてもいっかな、とか思ってしまったじゃない!



 美形に甘くなるのが私の悪いところだ。


 でも、こんなことで挫けてはいけない。

 「銀髪後悔王子」も素晴らしいのは確かだけれど、私には「黒髪忠実護衛騎士」なリベリオが待っているんだから……!



「い、いえ、だめです。別れたほうがいいです。別れてください」


「……僕は別れたくない」



 殿下が辛そうな表情で私を見つめる。



 ──くっ……こちらから頼んでもダメだなんて。



 仕方がない、こうなったら殿下から幻滅されるようにするしかない。

 私は後ろめたそうに睫毛を伏せ、口元に手を添えてためらいがちに口を開いた。



「──実は、私は殿下という方がありながら、他に心惹かれる方が出来てしまったのです……。こんなふしだらな女は殿下にふさわしくありません。婚約破棄されて然るべきです……!」



 ちらりと殿下の様子を盗み見ると、彼はショックを受けたようにフラリとよろめいた。



「……他に心惹かれる男だって?」


「はい」



 これで私のことを見限ってくれたらいいのだけれど。

 殿下はそれから長い間黙り込むと、やがて見慣れた冷たい表情に戻って私に告げた。



「……君の話は分かった。今日は一度持ち帰って、後日冷静な状態で話し合おう」


「承知しました」

 


 結局、今日は婚約破棄には至らなかったけれど、この様子だと近いうちに破談にしてもらえるのではないだろうか。



 ──とりあえずは上手く軌道修正できたわよね?



 私は一礼して応接間を後にすると、軽やかな足取りで帰路についたのだった。



◇◇◇



「──私、婚約破棄されるかもしれないの。リベリオ」



 数日後、私は公爵邸の庭園を歩きながら、護衛騎士のリベリオに相談をしていた。

 もちろん、「相談」と称したアプローチである。



「……なぜですか? お美しく聡明なロゼッタお嬢様が婚約破棄されなければならない理由が分かりません」



 リベリオが憤慨したように形の良い眉を寄せる。


 タイミングよく吹いてきたそよ風がいい感じにリベリオの艶やかな黒髪を靡かせてくれ、まるで美麗な挿絵を見ているようだ。

 私はそっと心のアルバムに保存した。



「私だったら、一度交わした約束を反故になどいたしません」



 リベリオの強い意志を感じる言葉に、私の胸がざわめく。



 ──やっぱり、護衛騎士との主従愛は最高だわ……



 これからの護り護られる素敵エピソードが私の頭の中で次々と展開していく。


 ここはもう一押しアピールしておいたほうがいいかもしれない。



「……リベリオ、いいのよ。実は私、婚約破棄されても構わないと思っているの」


「お嬢様? なぜそんなことを……」


「だって、いま私の心の中には殿下よりも大切な存在が──」



「ロゼッタ嬢」



 渾身のセリフを放とうとしたところで邪魔が入り、私は睨むように背後を振り返る。

 しかし、そこにいたのは……



「メルクリオ殿下!?」



 なぜか殿下が腹立たしげな様子でこちらを……というか、リベリオを睨みつけていた。



「やはり、その男だったか」



 殿下はその長い脚であっという間に距離を詰めると、私の手を取って抱き寄せた。



「ロゼッタ嬢から離れろ」



 殿下の声も表情も、以前私に向けていたものよりもずっと鋭くて険しい。



「殿下、彼は私の護衛騎士ですわ」



 王族からの命令と、私の護衛騎士という職務の間で迷うリベリオに助け船を出す。

 すると、頭上から今まで聞いたことのない寂しそうな声が降ってきた。



「……分かっている。ただの嫉妬だ。すまない」


「ぐぶっ……!?」



 し、嫉妬!?

 驚きの反応に思わずむせそうになったのを、なんとかくしゃみっぽく誤魔化す。



「……っくしゅん。し、失礼しました。ところで今日はなぜこちらに……?」



 今日殿下がいらっしゃるだなんて聞いていない。

 婚約破棄の意思を伝えにきてくださったとかだったらいいのだけれど。


 しかし、殿下は私の手をきゅっと優しく握りしめ、切なげな眼差しを寄越した。



「君の気持ちを引き留めたくて……君に会いたくて来てしまった。迷惑かもしれないが、どうしても気持ちを抑えられなくて……」



 普段はきりりとした眉を下げ、宝石のような瞳を不安げに揺らしている。

 銀色の犬耳が垂れているのは、私の幻覚だろうか?



 ──だめだわ。このままでは性癖で押し切られてしまう……!



 絶体絶命の危機に、私は声を張り上げて訴えた。



「後悔男とか独占欲とか子犬化とか、そんな私得の美味しいことばかりしたって無駄です! 私は忠実護衛騎士が最推しなんですっ……!!」



 恥をかなぐり捨てて、自分の性癖をさらけ出した。

 ここまでしなければならないとは予想外だったけれど、これできっと殿下も諦めてくれるだろう。


 そう思ったのに、殿下はふっと笑って私の耳元で囁いた。



「護衛騎士リベリオは、故郷に幼いころ結婚を誓い合った幼馴染がいる」


「なっ……!?!?」



 殿下の言葉に、私はがくりと膝をついて顔を覆う。



 ──そんな設定、知らなかった……!



 リベリオは、「忠実護衛騎士」である前に「一途幼馴染」だったのだ。

 そんな尊すぎる関係を、ぽっと出の私が引き裂いていい訳がない。


 しかし、私も把握していなかった設定をなぜ殿下が知っているのだろう。



「……殿下はなぜそのことをご存知なのですか?」



 よろよろと立ち上がりながら尋ねれば、殿下は黒い笑みを浮かべて教えてくれた。



「君の想い人と思われる男たちをリストアップして調べさせた。どうにか弱みを握って消してやれないかと思って」


「ぐふっ……!」



 私は血反吐を吐いて倒れた。



 ──これはなんという腹黒王子……!



 悔しいが、もはや「勝負あり」だ。

 ここまで圧倒的なポテンシャルを見せられては、抗う気にもなれない。


 私は潔く白旗を上げる。



「メルクリオ殿下、私の完敗です」



 完全なる敗北宣言。

 その真意を見抜いた殿下が、私に手を差し伸べ、立ち上がらせる。



「それは、君との婚約継続を許してくれると理解していいだろうか」


「ええ、許します」



 後悔男に独占欲に子犬に腹黒……。

 忠実護衛騎士との主従愛の夢がついえた今、こんなに自身の性癖を刺激されて落ちない女子がいるだろうか、いやいない。


 今日は私の推し変記念日だ。



「改心した殿下に惚れ直しました。これから末長くよろしくお願いします」


「ああ、今までの分まで君を愛すると誓う」



 メルクリオ殿下が私の手に口づけを落とす。



「ふふっ、溺愛ってやつですね。あ、それなら、溺愛してくださる前に一度『君を愛することはない』って言ってみてもらえますか?」


「そのような心にも無いことなど言えない」


「1回だけでいいので。そんな酷いことを言っておきながら結局好きになっちゃうのもすごく好きなので」


「……善処しよう」


「ありがとうございます、殿下!」


「……」



 お礼を言われただけでほんのり頬を染める可愛らしい殿下を愛でながら、メルクリオ沼は深そうだな……と、私はひとり確信した。

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「婚約破棄上等!」と思っていたら、改心した婚約者が性癖でぶん殴ってくるのですが 紫陽花 @ajisai_ajisai

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