中
翌日。
朝のまだ薄暗い内に、
車で来たら離合に気を遣うだろう畑の間の細道を、二人並んでてくてく歩く。
時々人を見掛けるが、それは大抵農作業中の人達であり、消毒散布機や草刈り機を皆一様に使用していた。機械の駆動音に紛れるので、小声でなら日室と話しても不審がられる心配はない。一応言い訳のため、孝迪はワイヤレスイヤホンを片方の耳に押し込んでいた。万が一見咎められても、これで友人と電話していたと答えられる寸法である。
「死んだの夏休み中だろ。どうして学校の制服なんか着てるんだ?」
「別に大した理由はないよ。好んで着てるわけでもない。たぶんだけど、僕の自己認識と君の僕に対する認識の最大公約数みたいなものが、こうして表れてるんじゃないのかな。ほら僕等、学外じゃ全然会わなかったろ」
「あー。なるほど」
暇潰しに駄弁りながら歩いて、約20分。廃病院ことキタハラさんの前までやって来た。かつては地元の人間に親しまれたのだろうその医院は、民家が疎らに建つ小路を途中で逸れて、緩やかな坂を少し登った先にある。コンクリートで舗装された小さな駐車場の奥には、所々黒ずんでいる角張った二階建ての白い建物。そのさらに奥には、山へと続く雑木林―――
「この中?」
「うん」
孝迪は顔を顰めた。樹々も雑草もキタハラさんを半ば呑み込む勢いで、呆れるほど野放図に茂っている。昼間入っても迷いそうだ。ここに真夜中入るのか。考えるだけで気が重い。
「おい日室。行きだけじゃなくて、帰りも案内するんだろうな」
「するする」
本当に大丈夫か? こいつ、なんか返事が軽いんだけど………
「あれ。佐原じゃん」
帰りの道すがらである。行きと同じ農道を行きと同じくてくてく歩いていると、思いがけず知り合いと出会した。
「誰?」
「俺だよ、俺」
バイクに跨がった男は、フルフェイスヘルメットをひょいと外した。
「ああ、戸田か」
「おー。お前も帰ってたんだな」
戸田は孝迪の高校時代のクラスメイトだ。一年時に同級となって以来、薄ぼんやりと付き合いが続いている。なんでこんな畑ばっかのとこに、と孝迪が首を傾げれば、
「車少ない涼しい時間にさぁ、あちこちバイク走らせて遊んでるんだ」
黒い車体を指差して、戸田は照れたようにニコニコ笑った。
シャベル。リュック。懐中電灯。小型ラジオ。軍手。長靴。手拭い。虫除けスプレー。剪定用ノコギリ。長袖、長ズボンの服。水筒。そして、日室の骨を納める硝子瓶。……
「シャベルと水筒は出掛けに用意するとして、まあ、こんなもんか」
必要と思われる品々を検分し、持ち込める物は自室の床にまとめて置いてから、孝迪は「よし」と頷いた。
「これ、全部家にあったんだ」
物珍しそうに触れもしない小型ラジオを突きつつ、感心したように日室が言う。
「うち兼業農家だし」
「そういや、軽トラとか作業小屋っぽいの庭で見掛けたな。君も農業するの?」
「手伝いはたまに。でも兄貴がやる気だから、基本そっちに丸投げ」
「ふぅん」
ふと5時半を示す壁掛時計に目を遣って、「ほんとに行く気か?」と日室は軽く眉根を寄せた。
「行くけど」
「飲み過ぎたりしないよな」
「飲み過ぎる以前に飲まねーよ。車使うし、下戸だもの。自慢じゃないけどね、俺は大概の酒は一杯で吐くぞ」
「マジで自慢じゃない……」
あの後、戸田と道端で話す内、夕方一緒に飯でも食おうという話になったのだ。キタハラさんへの出発は、午前1時の予定である。駄弁るのが主目的の集まりで、飲んだとしてもノンアルコール。大して遅くはならないだろうと、孝迪は戸田の誘いを承知した。
「別に、いいんだけどさ」
何か思うところがある様子で、呟いたきり日室は黙った。集合時間は18時。そろそろ家を出ないといけない。
指定の飯屋は、夕飯時ということもあって賑わっていた。四人掛けの半個室で戸田と二人(日室もいるので実質三人だが)対座して、銘々好きな料理を頼む。定食屋と居酒屋を足して二で割ったような店であり、サイドメニューやドリンクの種類も結構豊富だ。孝迪は唐揚げ定食とシシャモとだし巻き卵とノンアルの梅酒を頼み、戸田はカツ丼とフライドポテトと枝豆とビールを頼んだ。
「俺だけ飲んで悪いね」
家が近いから徒歩で来たという戸田は一応断りを入れつつも、あまり悪いと思っている風ではない。孝迪も気にせず、鷹揚に「ああ」と頷いた。料理を待ちながら、料理が届いてからは飲み食いしながら、最近のことや昔のことを取り留めもなく語り合う。
「……で、だ。佐原お前、就活どうよ」
「バイト先が拾ってくれるって」
「ちぇっ。気楽だなあ!」
「そっちは?」
「こないだやっと内々定貰えたよ。就活って嫌なもんだね。心身の健康によろしくない。例えば」
「シシャモってこんな美味かったっけ」
「話聞いてる?」
不意に隣で日室が退屈そうに欠伸をした。話に混ざれない。することがない。まー、暇だろうな。何となく思い立ち、「なあ」と孝迪は戸田に問い掛けてみた。
「日室のこと、覚えてるか」
ビールを口に運び掛けていた手が、びくりと止まる。
「そりゃ覚えてるけど……」
三年の時、同クラだったし。
言いつつ戸田は戸惑いがちに、結露で濡れたジョッキを下ろした。
「なんでいきなり日室の話?」
「日室の墓、実家の墓と同じ墓地にあるんだよ。昨日ついでに墓参りして、ちょっと思い出してさ。明日が命日なんだろう?」
目を瞬いて、戸田は「いや」と苦笑した。
「命日は明後日――30日だよ。誰からそんなこと聞いたんだ」
「あ?」
まさかそこにいる本人から聞いたなどと答えられるわけがない。
「うちの人」
「間違えて覚えてるぞ、それ」
間違えて?
孝迪は横目でチラと日室を見遣った。話を聞いているのかいないのか、日室は澄ましてぼんやり頬杖を突いている。
***
30日に5、6人くらいで川遊びしてたらしいんだ。佐原は割と家近いし、知ってるだろ。あの川……そう、それ。そんな名前の。水、綺麗だよな。
うん。そう。水着とか持って行って、泳いでたんだと。河岸付近は浅いけど、カーブしてるところは急に深くなってて危ない。そんなことを、後から学校の先生が注意喚起がてら話してた。たぶん泳いでる内に、そういうとこ行っちゃったんじゃないかな。
気づいたら姿が見えなくなってて、慌てて通報
したって聞いた。で、そのまま―――え。誰? 誰がいたか、か。うーん。うろ覚えだけど、眞鍋、辻村、由梨ちゃん、大宅、加藤さん……いや。やっぱあんま覚えてないや。違うかもしれない。てかクラス違うのに、名前聞いて分かるか? あ、そっか。あそこら辺で遊んでたなら、近場の奴もそりゃいるよな。
………友達グループっていうか、あー。まあ、眞鍋、辻村あたりはよく一緒にいたな。他はその時々で入れ替わってた。日室の奴、やたらと顔広かったし。
俺?
俺は、あんま親しくなかったよ。嫌いでもなかったけどさ。ほら、スクールカーストってあるじゃん。苦手とかムカつくとか、そういうのなくても、それが違うと自然に距離ができるっていうか。誰でもちっとは経験あるだろ。でも、うん。正直なとこ、少し避けてたな。嫌いじゃなかったんだよ、本当に。ただ、何て言ってたらいいのかな、ちょっとその、変だったから。何がって。お前、日室と同じクラスなったことある?
なんだよ。大分前じゃん、それ。そうか、じゃあ分からないか。分からないよな。変だったんだ。変だった。うまく言葉に出来ないけど、そう―――信仰、みたいな。皆、日室を信仰してた。
………
日本人の倫理・価値観って儒教に結構影響受けてるらしいじゃん。家族とか年配者に対する意識とか。昔よりは薄れたけれど、今でも色んなとこに名残があるって。でも、気づかないよな。本で読んだり、人に教えられたり、調べたり。指摘されてやっと「ああ、あれはそうだったんだ」って考える。変な感じよな。漢文で習った論語なんか碌に覚えていないってのに。……思うにさ、信仰はたぶんそういうものなんだ。骨肉みたく当たり前に『自分』を構成してる。だから普段は意識しないけど、それがすっかりなくなったら今日の自分と明日の自分はきっと別物になる。そういう、
日室はそういう奴だった。
日室がいたから2年3組は2年3組で、俺達は俺達だったんだ。
*****
「お前、何したらあんなんなるんだよ!」
「知らないよ!」
兄から借りた車を運転しながら、孝迪は助手席に座る日室を一瞥した。身に覚えがない因縁をふっかけられて不貞腐た子供みたいな面をしている。誤魔化しているのか、本気なのか。どちらにしても質が悪い。
食事を済ませて外に出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。現在時刻は、19時半手前である。もう少し遅くなるかと思っていたが、酔いに任せて勢いのまま喋った戸田は、ふと我に返ると急に気恥ずかしくなってしまったらしい。口数少なに飯と酒を掻き込んで、はにかみながら「またな」と夜道を歩いて去って行った。
孝迪は始終困惑する他にない。多少気にはなっていたので、日室が死んだ当時のことをちょっと尋ねてみただけだったのだ。世間話の範囲に収まる質問しかしていない。なのに、返ってきた反応はあれである。久しぶりに会った友人がネズミ講やカルト宗教や陰謀論に嵌まっていた――厳密には状況が違う気もするけれど、体感としてはそれに近い。
赤信号。数回に分けてブレーキを踏んで緩やかに停車し、孝迪は溜息を吐いた。
「なあ」
「知らないったら」
日室は幼稚で頑なな声の響きで以て、こちらの追求を突っぱねている。自分の過失を認めていない、あるいはそんなものはないと確信している、子供の声音だ。しつこく聞いても拗ねる一方で時間の無駄だろう、と孝迪は頭を掻いた。
「命日が明後日ってのは何だったんだよ」
仕方がないので、話を逸らす。こちらも気に掛かっていたことではある。
「昨日はお前、明日……29日って言ってたろ」
「生前の最後の記憶が、29日のものなんだ」
信号が変わったので、アクセルを踏む。
「僕ん家、一人で何日か留守番ってことが昔から時々あってさ。あの日もそうだった。大人の介入が少ない家って、子供にとっては便利なんだよね。皆で集まって、ちょっと勉強して、遊んで――あ。不健全なことはしてないよ。ほんと。これでも優等生だったんだから。で、庭で花火して解散しようって話になって」
平素ほとんど運転しないことも手伝って、走行中に隣を見る余裕はなかった。車間距離に注意しつつ、「それで」と孝迪は先を促す。
「それで……そこからはあまり覚えてないんだ。花火は、やったと思う。線香花火の蚊帳吊草に似たあの火をさ、何となく見たような気がするんだよ。でも、ぶつ切りにした映画フィルムを眺めてるみたいで、一連の流れはよく分からない」
「その日は誰が家に来てたんだ?」
「辻村、眞鍋、大宅、加藤さん、三木……でも正確かって言われると、自信ないな。午前と午後でちょっと入れ替わりがあったから」
「何にせよ」
と孝迪は眉根を寄せた。
赤信号。ブレーキを踏む。
「29日に死んだってのが事実なら、30日に川で遊んでたって証言は全くの嘘ってことじゃあないか。それなら」
「だから昨日、言ったろ」
よく連んでた奴等の誰かだって。
助手席を窺う。日室は窓外の街灯を、それにぶつかっては離れ、ぶつかって離れを繰り返す蛾を無感動に見詰めていた。孝迪の視線に気づいて、にっこり笑う。
「犯人捜しはしないぞ」
咄嗟に、孝迪は釘を刺した。
「正義漢って柄でもないし、割と間が抜けてるって自覚あるんだ。俺は絶対どっかでヘマをする。少なくとも30日の証言者は全員グル――つまり相手は複数犯だろ? 俺みたいな奴には、どう考えたって荷が重い」
「そんなこと頼みやしないよ」
日室は苦笑し、軽く首を左右に振った。
「骨だけ見つけてくれれば、それでいい。興味もないしね。誰がやったかなんて結局のとこ、瑣末な誤差さ」
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