地に堕ちろ

田辺すみ

地に堕ちろ

 まさか財務総監自らいらっしゃるとは思いませんでしたね、一介の記者の尋問に? 署名しろと。結構ですよ、トリスタン・ルネ・アベイユ、新暦1715年8月。陛下は調書をお読みになるんですか。ではアポロン神に誓って偽り無く話さなくてはなりませんね。

 私は何もしていません。事実を記事にするのは職務ですよ。どうやって知ったかって? どんなに離れていても、貴族の方々に箝口令を敷いても、ヴェルサイユのことは分かります。鼠が入り込む隙間があったら、人間の噂話は簡単に漏れ出しますよ。ヴェルサイユ宮に鼠がいるか知りませんが。

 しかしヴェルサイユ宮全ての噴水・水路から汚物が噴出したとは傑作…… 失礼、おおごとでしたね。まだ清掃中でらっしゃるんですか。ポンプも使いものにならなくなった? 修理にどれだけかかることやら、国庫はもう底を突いているでしょうし、これ以上増税しようものなら、暴動は避けられませんでしょう。

 ですから、私は何もしておりません。見ていただけです。

 あの男と親しかったのではないかと? いいえ、何度か話したことがあるだけです。どこに住んでいるのかも、今どこにいるのかも知りません。あの男は-レアンは硝石取りですから。硝石取りはまあ、あまり歓迎されない職業ですからね。はは、そりゃ総監殿、『汚くて』『臭い』からですよ。お会いになったことがない? 硝石は火薬の重要な原料じゃないですか。鉱山からも採れますが、この辺りに硝石鉱は有りません。納屋や馬小屋や便所や排溝をね、掘るんです。で、その汚土を煮て冷ますと結晶ができる。これが硝石です。

 だから私も呑んで潰れて、パリの路地に転がってた時に会ったんです。ところでパリの排水施設はいつ改善されるんですか。汚水も排泄物も道にぶち撒けて、文化人のやることじゃありませんな。ああ、貴族の方々からすれば、我々平民はそんなものでしたね。パリはさしづめ家畜小屋ですな。中央溝? になってどんだけ経つんです。

 レアンは脚が悪かった。戦争で負傷したんだそうです。軍から放逐されて、やっと雀の涙ほどの恩給が出て田舎に帰ったら、両親は飢饉で、婚約者は病気で、とっくにこの世にいなかった。なけなしの農地は不在の間に荒らされて奪われた。仕事を求めてパリに出てきたんだそうです。パリは大都市ですが身寄りのない平民に回ってくる仕事なんぞ、低賃金の重労働しかありません。それを奪い合うんだから、馬鹿らしいほど残酷ですよ。脚も悪かったですから、レアンが食べていくには、硝石取りになるしかなかった。

 私ですか? はは、よくいる田舎の文学青年崩れというやつです。父は貴族だと名乗っていたらしいですが、まあ純朴娘が騙されるくらいに羽振りが良くて、子供ができた途端に姿をくらました。母はその後商人と再婚したので、生活はそこそこ安定していましたが、私は再婚相手の子じゃありませんからね、日陰者は文学に逃げるわけです。楽に暮らして大学へ行って、新進の風に憧れてパリに出てきたという、ありがちな話ですな。尤も故郷にいたくなかった、ということもありましたが。

 実家から仕送りがあったので、名ばかりの記者になって三文記事を書きながら、のらりくらりしていたんですが、夢見がちが祟って新大陸での戦争に赴くことになりましてね。総監殿は新大陸へ行かれたことは? ありませんか。私が言うのもおかしな話ですが、行かれてみるといいと思いますよ。いやあ、でかいでかい。面積だけで言えばヨーロッパ大陸も広いですが、国境と戦争で雁字搦めですからね。新大陸は、とてつもない自由です。自分がこれまで住んだことのある社会やら信じてきた概念やらは、あそこには無いんです。社会秩序とか階級・階層だとかは、その土地の人間が作り上げた人工物で、自然というものは何も命じはしないんですな。必然というものは無いのです。国家も王も平民も、金や法律やモラルというルールも、人間自らが決めたことです。だから変えることができて、当然です。ジャン・ロシェの受け売りですな。ただあそこでは、大規模な奴隷制が広まってきています。”よくない方向へ“社会が作られていっているのではないかと、危ぶみますね。

 レアンは衛生兵としてフランドル方面へ従軍したことがあったらしくて、面白い話を知っていました。“微生物(アニマルクル)“をご存じですか。アムステルダムのレーウェンフックという男が発見して名付けたのですが。目に見えないくらいの小さな生物です。顕微鏡を使うと−より精密なレンズを使うと土の中や川の水やチーズの表面に、たくさん何か蠢いているものが見えるのです。人間の皮膚にも体内にも無数に存在しています。レアンが言うには、この微生物にも悪質なものがあって、それが病気を起こすのだと。どう思われます?

 悲惨な目に遭って嘆き続けると、恐らく精神も半分死んじまうんじゃないでしょうか。レアンはそんな類いの人間で、そういう奴がパリの路地裏には大勢います。あいつらはたむろっていても、軽くなった魂が互いを見ることはありません。独りでじっと蹲ってるだけです。レアンのあれは、妄想に近いものだったのでしょう。顕微鏡も拡大鏡も持ってないのに、微生物が見えるわけがありません。でもレアンの磨耗した心の目には現れるんでしょうな。自分は汚物を扱っているから、いろいろな微生物を見たことがあるし、どれが悪い微生物なのかも分かるんだ、と言いやがりました。病人の排泄物や吐瀉物には、ある種の微生物が増えるんだそうです。本当かどうかなぞ知りませんよ。だから私は、見ていただけです。

 ……大雨が続いた後に、パリの貧民街である種の病気が流行ったのをご存じですか。発熱、激しい腹痛、下血。ただでさえ弱っている人間は、保ちません。酷い有様でした。レアンは、あれには清潔な水と食べ物が必要だと言ったんです。それが準備できれば、少なくとも感染の拡大は抑えられるはずだと。数少ない井戸の水には、雨後の汚水が混じっている。それで私たちはノートルダムのポンプ場に、水を分けてもらえるよう頼みにいきました。比較的きれいな水は、高級住宅街に供給されています。だから、金を払えと言われました。

 ポンプ場へ交渉に行ったせいか、感染の拡大はやっとヴェルサイユに伝わったようです。しかし侍医の方々は、レアンと同じようには考えないんでしょうな。または陛下のお考えなのかもしれませんが、最初に軍がやってきて、罹患者を隔離しました。動けない人間を家族やコミュニティーから引き離して閉じ込めるなど、どうなるか目に見えています。私たちは人を戻してくれるよう嘆願しにいきましたが、全くなしの礫でした。それどころか軍は、感染地区を取り壊し始めました。の除去のためと言いますが、ロンドン大火以降進められていた建築物の再建強化にあずかれなかった貧民街を、一掃するための口実でしょう。住民は、何もかも失いました。

 あんなに身体も精神も疲弊していても、人は憤ることができるものなんですね。レアンの怒りは凄まじかった。いえ、憤怒ではないのかもしれません、絶望というものは何よりも強い感情です。矛盾していますか、しかし全てを捨てられる人間が一番強いのです、違いますか。ヴェルサイユ宮に水を供給するマルリー揚水機と水道橋について、レアンに話したのは確かに私です。そそのかしてなどおりません。ヴェルサイユ宮にはそれは美しい庭園が有って、無数の噴水や水路がしつらえられているのだと、その水は高度な技術を駆使して作られたマルリー揚水機がセーヌから汲み上げて、ローマ式水道橋を通ってヴェルサイユに送られるのだと。まるで御伽噺のようだな、とその時レアンは珍しく笑っていました。

 レアンは硝石取りです。人は疎んで避けますが、硝石取りはどこにでも入っていくことができます。硝石は重要な武器原料ですからね、硝石取りには特別な許可が与えられているのです。ですから、実際のところレアンが接触することのできる人間は大勢いるのです。それまで言葉も交わさず、家々の汚土を漁っていただけなのですが、レアンはほとんど枯れてしまった声で、囁きかけるようになりました。『“桶“を持って、集まるように』と。

 水道橋は長く伸びておりますし、それに沿ってずっと守衛を置くほど人手は足りておりませんでしょう。その新月の夜、レアンの元に“桶“を持って集まった人々がどれほどいたのか、私には分かりません。垢と泥に塗れてけた頬に、濁って落ち窪んだ目には、啓蒙たる輝きなど欠けらもありません。あるのはただ、絶望的な衝動だけです。『同じ目に合わせてやる』。

 なんという愚昧、なんという野蛮、軽蔑されて然るべきです。その何百という“桶“に何が入っていたかは、もうお分かりでしょう。一家族がみんなそこで用を足すのです。あとは精巧に作られた仕組みが、ヴェルサイユまで運んでくれます。大分ポンプ弁に詰まってしまったかと思いますがね。用水を全て同一水源に頼るのも考えものですな。それでヴェルサイユは、ということです。はは、いや失礼、歴史上どんな国のどんな王の宮城もさすがに、になったことはないでしょうな。

 これで放免ですか? 身元の保証ができたから? ああそうですか…… 持つべきものは貴族の親戚ですな。この身体にどんな血が流れていようが、私にできることなど限られているのにね。ではこれで。そういえば陛下のお加減があまりよくないと伺いましたが、早くのご回復を祈念しておりますよ。


 跳ね橋を渡ると、朝日の中でパリの街がさんざめいて見える。まだ多くの家が火を使い始める時間ではないので、辛うじて空が青く瞬いている。猥雑な物音と腐臭は相変わらずだが、この中よりマシだな、と背後のバスティーユを仰ぎ見た。昨日憲兵に捕縛され、連れてこられて尋問を受けたものの、一晩留置されただけで解放された。父方の関係者から口利きがあったのだろう。政治犯にすらなり損ねたようだ。

 レアンはもうどこにもいない。どこにいるのか分からない。あれから何日かして、呆気なく逝ってしまった。君に会わなければ−君と話をしなければ、こんなこと思い付かなかっただろうね、と恨みとも感謝とも聞こえない言葉が最後だった。新大陸、行ってみたかったな。

 陽が高くなるにつれ、パリの街は熱を帯びて、ますます臭くなってくる。俺は澱んだ空気を掻き分けるように進みながら、頭上を睨んだ。くそったれ、地に堕ちろ。

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