第98話

 スーは両手で顔を覆った。

「いいです、それでも」

 トリルは彼女の背中に手を回して、抱き寄せた。

「私のこと、嫌いになっちゃった?」

 大きく首を横に振る。いつもは馬の尾の髪型が、今はまっすぐ下りたまま大きく揺れる。

「意地悪です、トリル様」

 震えた声でスーが言う。ふふ、とトリルは笑って、頭を彼女の肩にこつんと預けた。

「帰ってくるよ。半年で。人馬ケノスを見つけても、見つけられなくても。アインとも、何度も話し合って、二人で決めたことだから」

 ぐすぐす言っているスーに、トリルは続けた。

「スーが、私達のことを考えてくれてるのは、よく分かってる。すごく嬉しい。でも、スーが私のことを考えてくれるように、私もスーのことを考えてる。アインは大切な人だけど、スーも大切な人なんだよ」

 でも――と言うスーを、トリルは抱き寄せて制した。

「アインのことも、スーのことも、人馬ケノス全体のことも、大切なの。わがままになれ、って言ってもらったこともあったけど、この結論が、私にとってのわがままなんだよ」

 スーがトリルを抱きしめる。

「帰ってくるよ。きっと、いい報せをもって」

 こくこくとスーが頷く。このまま一緒に寝ちゃおうか、とトリルはスーを横にして、二人はそのまま同じベッドで眠りについた。


「山脈の南端は、通り過ぎたんだよね」

「ああ。バルカロール殿が薦めるだけあって、たいした馬だ」

「だってさ、アウローラ。よかったね」

 夜明け色の毛の駿馬が、ぶふ、と鼻息で応える。

 二人がカステロを出て、一週間が経っていた。バルカロールの厚意でトリルはアウローラの主人になり、『天幕要らず』の恩恵もあって、アインとの旅は快適そのものになっていた。

「それにしても、やっぱり方角の感覚はまだ掴めないや。スーは分かってたから、経験なのかなぁ」

「太陽の位置、月の位置、山の形。判断する材料はいくらでもある」

 ふぅん、と言いながら、トリルは遠くまで目を凝らした。旅慣れてきたつもりではいたが、まだまだのようだ。

「今いるのは、鳥の翼の西側の海岸――だよね」

「ああ。カステロから見て、霊峰ファートの裏側を、俺達は歩いていくことになる」

 トリルは肩掛鞄から、スーに持たせてもらった地図を広げてみた。鳥の翼は、南端を折り返してからはそれほど横に広がらずに、縦に長いように見える。

「アイン達は、西側に来たことはあった?」

「俺達の部族がということか? いや、西側には来なかった。マチネ達もそうだが、西側は危険だという話を聞かされていたしな」

「じゃあ、もしかして、西側を歩いた人っていないのかな。だって、竜人ドラグーンはあたたかな台地から離れられなかったし、鉱人ドワーフも基本的には国から出なかったんでしょ。そして霊峰ファートの上の方はいつも霧がかかっていて誰も登ろうとしなかった」

「何が言いたいんだ?」

 トリルは、あらためて海に面してずっと続く砂浜を眺めた。

「インブロリオがつくった地図って、本当なのかなぁ、って。私は方角の感覚が今一つだから自信がないけど、アインは、地図と見比べてどう思う?」

 むぅ、と唸りながら、銀髪の戦士は地図と景色を交互に見る。

「言われてみれば……」

「ちょっと、駆けてみようか。実は、全然違う陸地が広がってるのかもよ」

 ぶふ、と鼻息で答えた愛馬の腹を、軽く蹴る。手綱を振って、鐙を踏む。アウローラが駆けだし、頬を風が撫でていく。

「息ぴったりじゃないか」

「仲良しだもん。ね、アウローラ」

 やわらかい土の上を、駿馬が気持ちよさそうに駆けていく。そして、目の前に広がる景色は、ひとつの答えをふたりに伝えていた。

 大地は、西に続いている。

 考えてみれば、インブロリオはあの地図をいくつも改竄していたのだから、形自体に嘘があったとしても不思議ではなかったのだ。小一時間ほど走らせて、トリルはアウローラの歩みを緩めさせた。歩みを止めるに足るものを、見つけたからだ。

「アイン、あれ」

 アインが頷く。

 砂の道が海を割って、ずっと西の向こうに続いている。そして、気のせいか、海の向こうにうっすらと、陸地があるように見える。

「そういえば、海は満ち引きによって深浅を変えるのだったか」

「うん。もしかしたら、干潮の時にだけ、こうして道が出来るのかも」

 ふたりは何も言わず、じっと遠くの島影を見た。影は決して目の錯覚ではなく、実体として向こう側にある。

「向こうに行けば、見つけられるかな?」

「行けば分かるさ」

 アインが駆け始めた。トリルも遅れずに、アウローラを走らせる。

 世界には、まだ知らないことがたくさんあるみたいだ。人馬ケノスを見つける以上のたくさんの驚きが、これからいっぱい見つかるかもしれない。太陽の光をいっぱいに浴びて、海がきらきらと輝いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る