第38話

 アインが、ちらとトリルを見た。

「俺の大切な存在を傷つけたことを悔いろ」

 振り下ろされた大剣で、赤い剣士だった異形は脳天から真っ二つになり、左右に裂けた。

 アインが月を見上げる。その頬を、光るものが伝った。その粒が地面に落ちると同時に、異形の肉体は黒い染みとなって、跡形もなく消え失せた――モンテ山で戦ったコレペティタがそうだったように。

「――トリル!」

 アインはすぐさまトリルの傍に駆けつけ、膝を折った。

「なんという――肩の傷が深い。縛るぞ」

 背嚢から白い布を取り出し、アインはトリルの肩口をぐるぐる巻きにした。最後の締めの強さに、トリルの声がうっと漏れる。

「すまん」

「ううん、平気。強く縛らないと、止血にならないでしょ」

 圧迫されているおかげか、少しだけ痛みも和らいでいた。トリルはどうにか笑みをつくったが、ひどく引きつった。

「もっと早く駆けつけられれば、この傷はなくて済んだ」

 目を伏せるアインに、トリルは小さく首を振った。

「ううん。アインが来てくれたから、これで済んだんだよ。謝らないで。それに――嬉しかったよ、さっきの言葉」

 アインがハッとした表情になる。

「気を失いそうだったのに、あれで目が覚めちゃった。大切な存在って、私のことで合ってる?」

 トリルは肩の痛みをこらえながら、なんとか笑みをつくった。アインの紫色の瞳にはトリルだけが、トリルの虹の瞳にはアインだけが映る。二人の唇は優しく重なった。月明かりの沈黙が過ぎ、二人は優しく離れた。

「スーを、起こさないと」

「俺が」

 体を揺さぶられて、スーが目を覚ますやいなや、蒼白な顔でトリルに駆け寄る。

「トリル様! そんな、こんな……」

 大きな両目に涙をいっぱいにためて、スーが声を震わせた。トリルは「大丈夫だよ」と言おうとして口を開いたが、声は出なかった。あれ――と思いながら、自分の視界がうつろになっているのが自覚できた。これって、もしかしたら、けっこう危ないかも。まぶたが重い気がする。

「トリル!! まずい――血を流しすぎている。ルーラードの薬を……」

「待ってください。血を止めなければ、薬を塗っても流れます……血を止める……止血の、魔法」

 スーが水源を見る。

水精アクア――一か八か、私が」

「待て、スーブレット!!」

 上からシラブルの声がした。植物のつるのようなものにつかまりながら、シラブルが上から降りてきた。途中で蔦が切れてしまって、シラブルは尻もちで着地した。

「僕がやる」

 立ち上がったシラブルがトリルの前に膝をつき、腰の鞄から水の入った瓶を取り出した。

『トイ、トイ、トイ。水精アクアよ、私は私の友人の血の流れを留めてくれるあなたをこそ愛する。イン・ボッカ・アル・ルーポ』

 瓶の水がフルルッと揺れたかと思うと、雫になって空中に漂い、トリルのあちこちの傷口にしみていった。

「トリル様!!」

 スーが両手でトリルの頬を包む。

「私が見えますか」

「ん……見えるよ。ちょっと、楽になった気がする」

 アインもスーも、そしてシラブルも安心したようにため息をついた。スーはカストラートとの邂逅をアインに伝え、アインはその決着をスーに語った。シラブルは、二人の話を真剣な面持ちで頷いて聞いていた。

「助かったが、お前も降りてくるとは思わなかったぞ、シラブル。明らかに禁忌を犯しているが、いいのか」

 若い水人フォークはハッとして、きょろきょろと見回した。

「ここには、お前たちしかいない。だから、お前たちが黙っていれば、これはなかったことになる」

 目を閉じてふんぞりかえるシラブルに、三人は笑ってしまった。笑ってしまって、トリルは肩の痛みに呻いた。

「シラブル! トリル様が痛がってるじゃないですか!」

「い、いや、それは不可抗力……」

「遊んでいる場合ではないな。まずはここを出て、トリルを休ませなければ」

「だが、どうする。お前は命知らずに飛び降り、僕は上で蔦を綯って即席のロープをつくって降りてきたが……登ることは出来そうにないぞ」

「奥に続く道がありますから、そちらを進むしかありません。急ぎましょう」

 スーは立ち上がり、銀の剣を拾って鞘に納めた。もう一本の愛刀が落ちたはずの池を一瞬見て、首を振り、奥の通路に歩いて行った。シラブルは、池の方に手をかざして、何事かぶつぶつ言った。

水精アクアが戻ってきている。穢れは除かれたみたいだ」

 シラブルも、槍を構えてスーに続いた。

 トリルは、痛みが走らないよう、慎重に立ち上がる。すると、アインの大きな手がそれを支えた。そして彼は膝をつき、母親が赤子にそうするように、トリルを背中に寄せてそのまま背負った。トリルはアインの馬の背にまたがる形になった。

「何も言うな」

 アインが小さく言って、トリルは彼のジャケットにつかまった。人馬ケノスの背中に他の種族を乗せることは禁忌だ、って言ってたじゃん――そう思いながら、今は歩かなくて済むことが何よりもありがたくて、トリルは言葉を飲み込んだ。

 一行は満月に照らされて、通路を進んだ。来た道と同じように一本道で、分かれ道はどこにもなかった。どれくらい進んだか、ようやく出口が見えた。

「入り口と同じ仕掛けがあるとも考えられます。一斉に出ましょう」

 スーの言葉に、全員が頷いた。息を合わせて外へ飛び出て、一斉に振り返る。案の定、その出入り口には水の壁が生み出されていた。

「一体、なんのための建造物だったのだろうな」

「一方通行になっている意図がわかりませんね」

「きっと古代の水人フォークが、何かしらの意味を持たせてつくったものなのだろう。ただ、今となっては、その意味は失われ、しきたりだけが形を残していたということなのだと思う。しきたりだけが――」

 シラブルは、難しそうな顔で水の門を見つめた。

 そこからの帰途、トリルは深い眠りについてしまった。次に目を覚ましたのは湖の下の都、その治療施設のベッドの上でだった。

「ご無事でよかった……」

 ずっとベッドの横にいてくれたらしいスーは、消え入りそうな声で言った。

水精アクアの止血の魔法は、万能じゃない」

 隣のシラブルが仏頂面で言う。

水精アクアは元来きまぐれな精霊と言われていて、何かの拍子に出血が始まることも多い。精霊の力に頼り過ぎず、自身の体の力で治癒を図ることが重要だぞ。わかりやすくいえば、まずはゆっくり寝てろということだ」

 トリルは何か反論しようとしたが、シラブルの横でスーが見たことのない厳しい表情をしていたので、頷くしかなかった。

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