第26話

「アイン! アイン!!」

 駆けよって、肩に手を乗せて名前を呼ぶ。まさか、まだ何か影響力があったんだろうか。アインがあんなふうになったら――どうしよう。

「あぁぁぁ……はは、はっはっは」

 顔を上げて、笑っている――信じられない。今の今まで、あんなに緊張して戦っていたのに、もうふざけるなんて。

「もう、なんでもなさそうだぞ。俺のたてがみも、別に何も――」

「アイン様……!」

 どの時点からか近くに来ていたスーが、顔をしかめて言った。トリルは、目元を袖で拭った。それを見て、アインが言葉を失う。

「トリル様、無事だったからこそ出来る戯れです。多分に悪趣味ですが」

 スーがトリルの腰に手を当て、言葉を紡ぐ。

 安堵と怒りと動揺と、他にいくつもの感情が入り混じり、涙があふれてくるのを止められない。それでもどうにか心を落ち着かせ、鼻から大きく息を出し、もう一度目元を袖で拭い、震えた声を出す。

「なにか、分かった?」

「一周回ってみましたが、奥がありそうです。私達が入ってきた道と、ちょうど逆側に、もう一本通路がありました」

 スーがアインを一瞥した。

 トリルは見なかった。

 広間に入ってきた順番とは変わり、スーが先頭を行き、トリルがそれに続き、アインが後ろになった。奥に続く通路は、広間に出るまでの通路と同じようにうすぼんやりと光る筒が埋め込まれていて、十分に明るい。ある程度歩いた辺りで、スーが振り向いた。

「着きました」

 奥に広がっていたのは、部屋だった。広間と同じように、ぐるりと円形の造りだ。ただ、広さはまるで異なっていて、せいぜいスーの屋敷の一室くらいの広さだった。

「これは……壁画ですね」

「書かれてるのは、人族だけじゃないよ。耳が長いのは、森人エルフじゃないかな。これは牛人ミノスで、こっちは竜人ドラグーン?」

人馬ケノス鉱人ドワーフらしき姿もありますね。こっちの水辺に描かれているのは、水人フォークでしょう。みな一様に横を向いていますが……」

 部屋の丸い壁に、ずっと横長にその光景が描かれている。人々の視線の先を辿っていくと、黒く塗りつぶされた部分があった。

「これは、どういうことでしょうか」

「黒い部分は、オンブラをあらわしているのではないか」

 トリルは思わずアインを睨むように見てしまい、アインもまた、ばつの悪そうな顔をした。

「『影の予言』と関わりがあるのでしょうか。『七色の糸』とは、七つの種族が手を取り合うことを意味している――? でも、これは古代のもので、未来のことではないはず。もしも、種族の違いを超えてオンブラに立ち向かった過去があるのだとしたら……」

 そこまで言って、スーは振り返り、アインをキッと見上げた。

「はっきり申し上げます。先程アイン様がなさったことは、あまりにも浅薄でした。およそ戦いというものから離れた生活をされてきたトリル様が、あのような異形に立ち向かって平静の心持ちであるはずがありません。故郷を出てひと月、恐怖に膝を折ったり、泣き叫んで前後不覚になってもおかしくなかったかもしれません。そんな女性を心配こそすれ、直後に不安がらせるなど言語道断です!」

 腕を組み、小さい体ながら堂々とアインに言ってのける。

「騎士団や魔術師団の任で鍛えられてきた私ですら足がすくみました。にも関わらず、トリル様は決定的な機を生んで下さいました。それは、アイン様ほどの手練れであれば重々にご承知のはず。しかも、習得て日の浅い魔法を使って、ですよ」

 分かっている、とアインが呟く。彼がこれほどまでに小さく言葉を紡ぐのを、トリルは初めて見た。

「であれば、先程の行いについても含めて、ご自身の口から、トリル様にお伝えすべき言葉があるはずです。私はこの壁画を描き写しますので、少々お時間を頂きます。その間、お二人は広間に戻ってオンブラがまた現れないか、警戒をお願いします」

 しかし――と口を挟みかけたアインを、スーは手と目で制した。

「よろしいですね?」

 アインが口をつぐんで踵を返し、通路を戻っていく。それを見送って、スーはトリルを抱き寄せた。

「ご健闘、本当にありがとうございました。本当に、本当に、ご無事で何よりです」

 スーがトリルの肩に手を置いて、ぐっと離す。翡翠色の瞳が、少し潤んでいる。

「これからも旅は続きます。心の荷は溜め込まず、きちんと言葉になさってください。そのために、このスーに出来ることなら、何でもご協力しますから」

「スー……」

 彼女はにこっと微笑んだ。その翡翠色の瞳は、柔らかい白い光を映している。

「この広さで、急にサイクロプスやオーガが顕現するとは思えません。私は一人で大丈夫ですから、あのしょぼくれた戦士殿の護衛をこそ、して差し上げて下さい」

 スーの言葉に、トリルはついクスッと笑ってしまい、頷いて、アインが戻っていった通路に入った。広間に戻ると、すぐの所にアインが立っていた。トリルは何も言わず、通路の口を挟んでアインの反対側に立った。彼に対して心から腹を立てていたわけではなかったが、もやもやとした感情が渦巻いている。

 動く影は見えないが、トリルは念のため、腰に帯びた小型弩を持ち、取っ手を回して矢をつがえ、そのまま右手に持った。

 何の音もしない。沈黙が、トリルの耳に痛かった。

「さっきは」

 アインの声がしたが、トリルは視線を動かさなかった。

「すまなかった。悪ふざけがすぎた」

 トリルは、うん、とだけ答えた。

「スーに言われるまで、トリルが戦士ではないことを忘れていた。許してほしい」

 トリルは何も言わなかった。戦士ではないかもしれないけれど、ここまで来て町娘というのもおかしい気もした。鍛冶屋の娘ではあるが、鍛冶屋でもない。適当な言葉も浮かばないまま、口を開く。

「アインは……」

 何を言ったらいいんだろう。

「予言を、どう思ってる?」

 トリルは、自分の口から出て行った言葉に自分で驚いた。引っ込めることも出来ず、アインの返答を待つ。また、沈黙が戻ってきた。

 少しして、アインが口を開いた。

「自分が『白き王子』かどうかは、正直、よくわからん。ただ、この古い不思議な建造物や、さっき見た壁画には心が躍った。戦いとはまた違った胸の高鳴りだ」

 小さく笑うアインを横目で見て、胸のつっかえが少し消えた感じがした。スーの言うとおりだ、とトリルは思った。これからも旅は続くのだ。ちょっとしたすれ違いや諍いで、雰囲気は苦しく重くなる。そんな状態のまま一緒に旅をするのは、苦しいだろう。

「こんな流れで言っても信じてもらえないのは、繕わない毛のしらみだが……さっきの戦いは、スーが言っていたようにトリルの力で勝てた戦いだった。素晴らしかったぞ」

「ありがと。でも、私の力っていうか陽精ソルの力だけど――そう言えば、精霊に嫌われてないかな……トイ、トイ、トイ」

 戦いの中で魔法を使ったのだ。一応、確認しておいたほうがいい。目を閉じて、指を組む。

陽精ソル。光で、周囲を、照らして。イン・ボッカ・アル・ルーポ』

 唱え終えて目を開けると、ふわっと柔らかい光がトリルの手から広がって、その明るさはそのまま残った。

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