第23話

「俺が出る幕はなさそうだったからな」

「そっか。ところでアイン、砥石持ってる?」

「ああ」

 そう言ってアインはトリルに、手のひらに乗るくらいの小さな砥石を置いた。

「……あんまり使ってないでしょ、これ」

 アインは何も言わない。沈黙がそのまま答えになる。

「まぁ、それだけ武器を何種類も持ち歩いていたら、研ぐのも大変だろうけど……今度、手伝ってあげるね」

 そう言ってトリルは、小屋にあった小さなナイフを研ぎ始めた。表を研ぎ、裏を研いで、また表を研ぐ。そこそこの切れ味を取り戻すだけでいいと思ったのだが、最初の状態が悪いので時間がかかる。

「刃の手入れとは、そんなに時間をかけるものなのか」

「まぁ、こまめにやってれば、こんなにはしなくていいんだけどね。でも、アインの武器はどれも大きいから、この小さい砥石だと難しいね。ノルドに帰れば、回して使う研ぎ機があるから楽なんだけど」

「ノルド――トリルの生まれ育った街か」

「うん。海の幸が美味しい街だよ。牛人ミノスの人たちがつくる料理ほど美味しいものはないかもしれないけど……そういえば、こっちにきてから魚料理ってほとんど食べてないね。人馬ケノスは、魚は食べるの?」

「ああ。虫よりは食べるな」

「もう! その話はいいってば!」

 トリルがにらむと、アインは声をあげて笑う。

 トリルは自分の中で、アインに対する印象が変わってきていることに気が付いていた。戦いや旅の知恵においては熟練者の姿を見せるが、こうして子供じみた言動も多い。手際よく調理をしながら、トリルはふと浮かんだ疑問を口にした。

「そう言えばさ」

「む」

「アインの話がここにたどり着く前までの話って、ちゃんと聞いてないよね」

「ああ……そうだな。トリルにもスーにも、しっかり話しておくべきかもしれんな。食事が終わったら、少し、時間をもらうか」

 アインは、トリルに告げた通り、簡素な食事が終わると静かに語り始めた。

「俺の部族は、大陸の東側を渡り歩く一族だった。オンブラを屠り、獣を狩り、果物を食い、夜になるとみんなで飯を食った。勝利と生存を祝って歌う日もあった」

「歌? 人馬ケノスにも歌があるのですか? それはどういう――」

「スー、あとにして。アイン、続けていいよ」

「俺が九つのときだ。新月だった。見張り役だった一人が悲鳴を上げ、倒れた。焚き火の光が照らしたのは、火よりも赤い髪をした人族の男だった。男は剣一本で部族の戦士達を斬っていった。奴はカストラートと名乗りを上げ、次々と相手を替えて剣を振るった。距離のない戦場で、本来の戦い方が出来なかったのはあっただろう。だが、それを抜きにしても奴は強かった。俺は既に戦いに参加することを許されていた年だったが、母が俺とともに隠れ、俺を止めた。もっとも強かった父が切り結んでいる間に、母は言った。何があっても俺が死ぬことはあってはならないと。月精ルナの声に耳を傾け、『月の導き』に従いなさいと。今は、とにかく走って逃げろと。部族において、年長者の指示は絶対だ。それが肉親であればなおさらな。

 俺は夜陰に乗じて逃げた。今思い出しても、情けない。家族とともに討ち死にする道もあったように思う。だが、母のまなざしに何か決意を感じた俺は、ただ逃げるしかなかった。どれほど走ったか分からん。逃げるからには普段は行かない場所がよかろうと思い至った俺は、人馬ケノスがあまり寄り付かない山地に入ることにした。

 そうして出会ったのが、ルーラードだった。ルーラードは、ひとり山中にいた俺を見て「追われているのか」と言った。俺は「追われているのかは分からない。でも、身を隠す必要がある」と答えた。ルーラードが「いつまで」と聞いたので、俺は「月が教えてくれる」と言った。それから、俺はここで生活するようになった――十年ほどだ」

「吾輩は、てっきりもっと早くに出て行くと思っていたのだがな。独りを好んで山に入ったというのに」

 そう言ってルーラードは目を細めたが、その表情の裏にある感情が、否定的なものでないことはトリルにも分かった。

「そう言うな。俺がいる間は、食糧の調達には事欠かなかっただろう」

 笑い合う二人に、スーが口を挟む。

「先程アイン様がおっしゃった『月の導き』というのは、どういったものなのですか?」

「部族の生きた言い伝えだ。自分が月に語り続ければ、月が大きく変化を見せるときがあると。それは自然の満ち欠けではなく、月精ルナの力で自分にだけ見せられる超常の現象だと。俺は、復讐の旅を始める兆しを示してほしいと願い続けたのだ」

「それを毎日、毎晩……気の遠くなるような話ですね」

「両親の、そして仲間の無念を晴らすために、万全を期したかった。だからこそ、俺は待ち続けた。そしてある夜、はっきりと、それと分かる現象が俺の目に見えたのだ」

「それは、どういう変化だったの?」

「……俺は、お前に出会ったときに、あの導きが正しかったことを確信した。それが人族の予言にまで繋がっていたと知ったときは、たてがみが震えもした。俺が見た現象は、月に虹色の輪がかかるというものだったからだ」

「虹色の……」

 トリルは思わず瞬きをした。『影の予言』に『月の導き』、確かに偶然にしては出来すぎている気がした。

「俺はルーラードを呼び、輪が見えるかと聞いた」

「吾輩には見えなかった。そもそも、薄く雲がかかっていて、月自体がまともには見えていなかった」

「間違いないと思った。そして俺は、人族の国を目指した。そうして俺は旅に出、オストに着き、カステロに入れず、北に向かうことにした、というわけだ」

「そして、二人の運命の出会いが果たされたのですね……」

「言い方……」

「――あらためて話してみると、あっという間の十年だった気がするな」

 アインが苦笑した。

 孤独と言っても差し支えないような生活を、ただひたすら自分の強さを高めることだけに費やして、十年――トリルは、目の前の戦士の、紫色の瞳の奥深さの理由が分かった気がした。

「では、俺は外で寝る」

「大丈夫? 突然コレペティタが襲ってくる可能性だって……」

「それならそれで、返り討ちに出来て手間が省けるというものだ。美味い食事だった、ありがとう」

 アインはトリルの頬にそっと触れて、そのまま出て行った。トリルは視界の端でスーがニヤニヤ笑っているのを見ないようにしてルーラードの方を見た。

「珍しいこともあるものだ」

 ルーラードが鼻息交じりに呟いた。

「あの男が、食事について何か言ったり、ましてや感謝を口にするとは」

「アインは、美味しいものを食べるのが好きそうでしたけど」

「そうなのかもしれんな。ここでは毎日、芋と木の実ばかりだったが……旅に出る前に比べると、表情も雰囲気も変わったように思う。君たちの影響なのだろうな」

 トリルとスーは互いを見て、くすっと笑いあった。

 旅の中で、アインに頼らなければならない場面はどうしても多い。ここに来るまでの道でも、アインは手で草を分けてくれていた。それ以外の場面でも、人馬ケノスの戦士が先陣を切り、警戒してくれているから、無事に旅を続けてこられているのは明白だった。

「トリルといったか。スーブレットの話では、君とアインとの出会いが重要だったとか」

「彼との出会いが、ただの町娘だった私を旅に出させたのは事実です」

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