第22話

 トリルは、視界に入った真っ赤なバッタを指さした。触覚から足の先に至るまで、全身が赤い。

「見事なまでに真っ赤ですね」

「すごいよね」

「触るなよ」

 伸ばしかけていたスーの手が止まる。

「反撃されるぞ」

「反撃って……凶暴なの?」

「基本的にはおとなしい。だが、身の危険を感じると、口から体液を噴射してくる」

 トリルもスーも、思わず後ずさる。

「――毒?」

 アインが笑う。

「そんなに大それたものじゃない。だが、ひどく臭う。悪食で、動物の排泄物でも平気で食うからだと聞いたことがある」

 さ、行くぞと言ってアインはまた山道を歩き始めた。トリルとスーはお互いの顔を見合って苦笑し、またアインに続いた。

 トリルは、それからも初めて見る虫や花、木の形を見てはへぇほぉと感心するのだが、どれもこれもアインが解説をした。もっとも、多くの場合、足を止め始めるのはトリル、質問を重ねるのはスーだった。

「用途はありますか?」

「効能はなんですか?」

 植物や花に興味があるのはトリルもそうだったが、アインのある一言には固まってしまった。

「その虫は食えるやつだ」

 えっ、と思ったトリルが振り返ると、スーは表情を固めていた。人馬ケノスは、虫も食べるのだろうか。ここまで旅をしてきてそんな様子は一度も見なかった気がするが、ただ見ていないだけだったのだろうか。旅の途中で、それしか食べるものがないとなったら食べざるをえないのかもしれないが、個人的には、極力、そういう窮地に至りたくない。だが、アインがそれ以上何も言おうとしないので、トリルはおそるおそる口を開いた。

「聞かない方がいいかもしれないけど――人馬ケノスって、食べるの? その、虫とか」

「どうだと思う?」

 曖昧な返答に、トリルは瞬時に後悔の念を覚えた。失礼なことを聞いてしまったのかもしれない。アインの顔が見えれば、表情から感情を察することが出来るが、今は歩きながら話しているせいでそれも出来ない。どう返すのが正解なのか。だが、あまり考え込んでも礼を欠いている気もして、トリルは意を決して口を開いた。

「食べない――と思う。というか、いや、その、アインが虫を食べるのが好きだっていうなら、私は別に止めたりしないし、それが人馬ケノスの流儀だっていうなら否定する何者もないけど……」

「そうか。虫を食べるというのは、トリルにとっては望ましくないことなのだな」

 アインの声はいつもの通りに聞こえたが、トリルは申し訳なさでいっぱいになった。

「あの、その……ごめん。望ましくないなんて、そんなことないけど、ちょっと、私は、虫を食べるっていう習慣がなかったから。でも、自分の食を否定されたら、誰だって嫌だよね……」

 トリルが消え入りそうな声で言うと、アインが振り返った。

 笑っている。

「そんな習慣は、人馬ケノスにもない」

 それだけ言って、アインはまたスタスタと歩き始めた。どういうことかと振り返ってスーを見ると、下を向いているが肩が揺れている。

 笑っている。

「スー……さては、知ってたでしょ!」

「すみません。旅が始まってすぐ、どんなものを食べるか、狩りに出るときに確認したので。ただ、アイン様がトリル様をからかおうとしてらっしゃるんだな、と分かってつい……おふたりの邪魔をしてはいけないかな、と」

 トリルは、頭を掻きながら話すスーから、澄ました顔をしているであろう人馬ケノスに視線を移す。

「悪いことしちゃったって、ほんとに思ったんだからね!」

「はは、すまなかったな。お前と話していると、つい、からかいたくなってしまう」

「何がつい、よ。いつか絶対仕返ししてやるんだから。これからウソツキ女と戦うっていうのに、その前に仲間内で騙しあってどうすんの」

 口を尖らせたトリルの視界、その少し遠くの方に、木の板でつくられた簡素な屋根が見えた。小さな煙突からは、煙が見えている。

「あれって……」

「ああ、ルーラードの小屋だ。着いたな」

 小屋の入り口の前で、アインを先頭に一行は立ち止まった。ふぅ、と息を吐いてアインがドアを開く。

「ルーラード」

 アインが声をかけると、奥に座っていた牛人ミノスが椅子から立ち上がり、向き直った。

 小柄な牛人ミノスだった。行商の三人と比べると、二回りは小さかった。かぶったフードに空いた穴から、細く捻じれた角が上に伸びている。毛並みは小麦の穂が枯れたような色だったが、瞳の藍色は透明で力強い。

「アイン――息災だったか」

 ぼそぼそとした消え入りそうな声で、彼は言った。

「それに、人族――黒い瞳、黒髪、女。緑色の瞳、栗色の髪、女。珍客だな」

「ト、トリルです」

「スーブレットと申します」

 二人は慌てて自分の名を告げた。

「吾輩はルーラードだ」

 隠者はそれだけ言うと、さっきまで座っていた椅子のところに戻り、キィ、という古い木の音を鳴らしながら腰を下ろした。

「用件は?」

「手当を。それと、この山に危険な人族が潜伏しているという情報を得た。実際、俺たちもそいつに襲撃された。黒ずくめの女に、心当たりはないか」

 ルーラードが、じっとトリルを見る。

「え、いや、私じゃないですよ! 確かに髪は黒いですけど……」

「そんなことはわかっている。嫌な気を纏った女なら、確かに見た。数ヶ月前から。山の裏、崖の下に出入りしている」

「崖の下――あの、オンブラが沸き続けているという?」

 小柄な牛人ミノスは頷いて応えた。

「どういうわけか、あの人族はオンブラの中に居ても無事らしい。それで、手当というのは………………なるほど、話は分かった。であれば、そこにある赤い壺のものがいいだろう。歩けるくらいの怪我ならば、一晩で治る」

 トリルとスーは目を合わせて、お互いに安心したように微笑んだ。

「雑な小屋だが、お前達が横になるくらいの広さはある。それに、ここは陽だまりで、オンブラは嫌がって近寄ってこないし、沸きもしない。裏に行くなら、明朝がよかろう」

 ルーラードの早口の提案を、三人はありがたく受け入れ、お礼代わりにとスーが王国に伝わる薬や魔法の知識を伝えることになった。トリルは薬を塗り直してから台所へ向かい、かまどが使えそうな状態であることを確認した。

「火打ちは上だぞ」

「アイン――せっかくなんだから、ルーラードさんと一緒にいたらいいじゃん」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る