9・夜道を往くものたち - 2 -
少女が身を低めるにつれ、コリー犬も前脚をのばし上半身を沈めた。
ぎらつく目が下から少女を睨めつける。
統率者をとりまき半円形にうずくまっていた配下の犬たちも、いっせいに後屈姿勢をとった。
――かれらが霧の中で種としていかなる歳月を過ごしてきたのかは地域差や個体差もありはっきりしていない。だがかれらは独自のやり方で、しだいに高い知性を育みつつあるらしい。
じっさい都市間に放置されたままの広大な無人地帯では、今までになく高度に組織化された多頭からなる群れが各所で目撃されている。
斉木が新杜丘の情操安定委員会で耳にした噂では、将来危険な敵対勢力に成長する可能性を危惧した旧仙台周辺のいくつかのコミューンと小村落が、連合で野犬たちの殲滅を画策しはじめていると言う――。
コリー犬のうなりはいちど聞こえぬほど低くなり、ふいに獰猛な響きとともによみがえった。そして今度はそこにさながら対旋律のような、もう一つの喉声がかさなった。
斉木ははじかれたように顔をあげた。
背を向けた少女の口からも、凶暴な恫喝じみた唸りがもれ出している。
噛みしめた奥歯がぎりぎりと音をたてた。
ふいに少女はうつむいたままびん、と背筋をのばした。
肩先から胸もとへと、
斉木は跳ねおき、威嚇射撃のため拳銃を闇空にむけ差し上げようとした。その手首を少女が前を向いたまま指先でつかんだ。
鋼鉄を編んだような筋肉に手首を極められ、斉木は拳銃を取り落とすことさえできなかった。
手首がしびれ指先の感覚もまったく消えた。
三本の指をつたいぐるぐる……という激しいうなりが、斉木の腕の骨にまで伝わってくる。
二つのうなりは絡まりあい、殺意に満ちてもつれ、高まった。
コリー犬の足もとで砂が蹴り立てられ、切り炸くような音をたて乾いた路面をこすった。
斉木の手首をつかんだまま少女は反対の手で、顔にかかっていた前髪を一息にかきわけ首を横に一閃させた。
霧に沈む廃墟の街路に爆光が生じた。
♮
――どこか遠いところで犬たちが啼き叫んでいる。
けたたましい叫喚はやがて散り散りになってゆき、火花のような尾を曳いて夜闇の奥底へと消え落ちていった。
何ひとつ見えぬまま長いあいだ斉木は、それ自体がまばゆく輝く空間を浮遊していた。
身体が消えたかのように見当識が喪失していた。しかしどこまでもひろがる輝きの中に、視界もまたあらゆる方角に向かって展開していた。
それは盲目の暗黒の対局にあるものだった。
いかなる神経も衝撃はおぼえず、骨伝導でさえなにひとつ感ずるものはない。
夜闇を蹴散らした光輝は、そのはじめに生じた時から静寂に満たされていた。
そうするうち徐々に斎木にも理解できてきた。不意に周囲にみち、いまもなお斉木の目を
溢れでる陽光に音などあろうはずもない。
衝撃はただ驚愕のかたちで襲ってきたのだ。
追憶から覚めるように斉木は闇の中でわれに返った。幻の陽光は残像さえのこさなかった。
後にはとうに老いた廃品と化した水銀灯の下に、ひとり立つ少女の後姿だけが残った。
――これであいつらはまた“ C ”以前の、自我なんてやっかいなものを持たない犬たちに返ったわ。もういちど人間をまねて知能を獲得するまでにはかなり長い時間がかかるでしょうね。
―― いまのは――君がやったのか?
―― 先生とわたしのどちらかしかいないんだから、当然そうなるでょ?
少女は笑い、もう一度ひとふりして顔の前にたれていた髪を跳ねあげた。斉木の問いには答えず、振り向こうともしない。そのまま滑りやすい運搬車両用のスロープを、ふり返りもせず確信に満ちた足取りで下りはじめる。
斉木も慌ててそのあとを追った。
―― やつらが日中どうしてるのかはわからない。そして夜になるとああやって、群れをなしてあらわれる。あの光は、あいつらが微かに覚えている真夏の午後の記憶よ。あたしがやつらの集合無意識から作り上げたの。
―― そんなことができたのか君には
―― 犬たちは人間とちがい、別のものになることにさほどの禁忌はないみたいね。
それから少女は、斉木に二度と振り向こうとはしなかった。
見ると後ろ髪を留めていたあの紅い紐ももうなかった。
―― もしかしたら彼らにとっての人間は、あたしたちが思っていたほどいいお友だちじゃなかったのかもしれない。かれらはあたしたちとは別の道をゆくつもりよ。
朝と日暮れ時川に沿っておとずれる気流の変化が落ち着いたのか、配送センターの廃墟群がふたたび巨大な輪郭をとりはじめた。
ふたりの周囲に幾つもそそり立つ倉庫の外郭は地中海沿岸に点在する神殿を思わせる形をしていた。
そのとき打ち捨てられた倉庫街の巨大な壁をふるわせ、怪獣の雄叫びのような轟きが生じた。上空の霧をつらぬき一条の光が空を旋回し始める。闇にかくれて渦巻いていた霧が、紅く染まって頭上の空いっぱいに姿をあらわした。
阿古川西岸の高さ50メートルを誇る陸灯台が夜間定期稼働を始めたのだ。
旧国道や縦貫道をゆく旅人たちの
鳴り出したサイレンに動ずるようすもなく、少女は無言のまま斉木の先に立って歩いてゆく。その足さばきについて行くため斉木は小走りにならなければならなかった。少女との距離が開く度に煙のような濃霧がふたりの間にたなびき、いくどとなく彼女を見失いかけた。
旋回する灯台の光の帯がとおる車もない16号の広い路面をはう。先をゆく少女の姿がはるか前方の霧に投影される。そのたびに少女の影は行く手に黒々と広がった畑地や野原からなる地平の上に、あかく彩られて巨神のようにそびえ立った。
鯨の声より合成された、と言う低く太いサイレン音は闇と霧をつらぬいて、いつまでも斎木の背中をもの悲しく震わせつづけた。
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