10・薫風
久慈市が炎上している――。
どこかの階の廊下で開いたままになっているドアから、つけっぱなしのラジオ放送が聞こえていた。アナウンサーの声に背後で交錯するやりとりがひっきりなしに重なる。さらにそこへスタジオ内の慌ただしい物音が混じり、音声自体がときおりとだえた。
だいぶまえからNHKのテレビ放送は中断して混乱した内容のラジオのみに切り替わっており、これを見かぎり独自でローカルニュースのみを流し始めた杜丘のラジオ第一とエコー杜丘は、混迷の度を深める東北各地の状況を全力で報じていた。
エレベーターホールの隅におかれた大きな植木鉢にもたれ斉木は座りこんでいた。
斉木が家族とくらす部屋はマンションの廊下に面したいちばん手前にある。窓の網戸だけを閉めて風を入れているので、妻が両親とはげしく言い合うのが筒抜けで聞こえていた。
海岸沿いに北上して霧の被害が比較的少ない北海道へ渡るか、それとも南のどこかから山脈の尾根をぬって日本海側へ出るか。 網戸のむこうからはそんなやりとりが聞こえてくる。
―― 苦笑しようにも頬の筋肉を動かす気力さえのこってなかった。
北関東から東北中部にかけての太平洋沿岸に、東方海上から巨大な霧の団塊が接近しつつあった。すでに沿岸全域が避難民でごった返し、それをめぐってあちこちの県境で頻発する警官隊同士のこぜりあいが混乱に拍車をかけている。
♮
家族はまだ知らない。
ゆうべ青函トンネル前の非常線が突破され、大渋滞していた車両が大挙して構内になだれこみ追突炎上した。脱出しようとするものと侵入しようとするものが互いの進路を塞ぎ、 火と煙と有毒ガスの地獄絵図の中でなすすべもなく今なお屍の山がきずかれつつある。
そもそも中心に背骨のような山脈の連なりをそなえた細長い島国で、国家規模の災厄が発生したなら逃げ場などどこにもないのだ――。
誰も口にしないがそんなことは3・11以来、自明の理だった。
――しかし、ならばその原発事故はどうなのだ? これだけ世界が混乱を極めていると言うのに、有数の原発依存大国である日本では進行中の核災害がまったく存在していないとでも?
どの局もすでに報道している余裕がないのか、さもなくばもはや報道する意味のないほど大規模な状況がどこかで進展しているのか。
日ましに沈黙し、その数をへらしてゆく有力な中波局も、これに関しては何ひとつ報じようとしなかった。
下を通る『
♮
斉木はまだインターネットがひんぱんに途切れながらもまだかろうじて存続していたころの、ある出来事をおもいだしていた。
対馬でおこった大混乱が、島の西北部から進出してきた霧より脱出した人びとの引き起こした “ 説明の困難なある奇怪な現象 ” と関係している、と報じたあとでYahoo!やGoogleは二日にわたり配信を停止した。
だがこれは混乱や設備の不具合ではなく、暴動化して凄惨な市民戦争の様相を呈しはじめた衝突に県からの要請を待たず海自が介入した事実を隠蔽するための報道規制であるらしい――。
あれは一週間も前のことだったろうか。
そのころ『イオン江西』は、時間を短縮しつつもまだ営業を続けていた。
吹き抜けになっている中央階段に面したソファーにすわりBECKS のコーヒーをすすっていた斉木は、階段の反対側にあるフードコートで若い客たちが声高に話している声を耳にした。
斉木がそちらをむくと同事に階下から登ってきた重装備の警官隊が、斉木の視界をさえぎりながら足早に通りすぎた。
正面玄関前の特設ブースで挽く新茶のかおりに混じり、クイーンの “ Somebody to Love ” が吹き抜けを漂っていたのを不思議によく覚えている。
ひっきりなしに駅前広場で拡声器がなにごとか叫んでいる。嵐のような喚声と硝子が割れ金属のきしみ擦れ合う音にかき消され、意味はまったく聞きとれない。
やがて大きな重いものの倒れる音がして、地響きとともに爆煙が上がった。
五月の微風がまた吹きはじめて、青葉の匂いに混じり埃くさい重油の臭いが斉木のところにまで漂ってきた。不思議に懐かしいにおいだった。
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