8・夜道を往くものたち - 1 -

 遠いむかし。

 いちどは廃墟と化した杜丘の市街に、再びわずかずづつ夜の灯がともり始めたころ。

 すでに野犬たちは群れをなして無人の街路や荒れ果てた田畑を徘徊していた。

 当時もいまも、何を食料としているかはよくわからない。

 しかし “ C ” 勃発の直後、どうやってか飼われていた家々を脱出した犬たちの子孫は、以後幾代にもわたり霧の中で生きのびてきた。


 ―― 再開発時代、都市の復興にいそしむ市民たちのあいだで流行した〝 回想録よせがき 〟のあちこちには、夜に市の外周を疾駆する野犬の群れに対する漠とした恐怖が記されている。

 深更、遠くから犬たちの吠える声と跫音が入りみだれて接近してくると、母親たちは赤ん坊や幼児らをつれて像潟キサガタ古城址公園の本丸にあつまり、大篝火をかこんで一夜をすごすがあったという。

 当時は夜に跳梁する野犬が幼い子どもをその寝所から連れ去ってゆく、といういいつたえが広く信じられていたのだ。

 その後再市街化が進むにつれ犬たちは駆逐されて散り散りになったが、津久田地区が放棄されたころから再び群れをなし市周辺を徘徊するようになった。

 そのころから市民たちの間ではある種の、新しいうわさが囁かれるようになっていた・・・・・・。


                     ♮


 南大橋から16号線に駆け込んできた野犬たちは、そのまま勢いをゆるめず配送センター前を通りすぎるかに見えた。

 しかし不意に一際荒々しい吠え声がひびくと、トラックターミナルの出口横にある変形交差点を過ぎたところで群れのすべてがぴたり、ととまった。

 けたたましく吼え交わしていた声がふっ、とやんだ。

 あとにはじまる沈黙がしだいに無気味な意味あいをおびてゆく。

 黄色と緑と黒にいろどられたヤマト運輸の建物は、闇の色を奇妙にどす黒くひきたてる。斉木と少女は休憩所のちいさなくらがりで息を殺していた。

 霧がやって来たあと、ひとはまったくの闇でもわずかにものが見えるようになった。

 視神経に変化が生じたのか、霧自体が燐光を放っているのか、理由は誰にもわからない。

 霧の向こうで遠く近く、ぐるぐるとうなる喉声がする。年をへて汚れ、細かく傷のついたコンクリートを苛々と蹴りたてる音がそれに重なる。


 ―― いいかい? かかわっちゃだめだ。


 斉木はささやき、コートのポケットから陸自流れの拳銃をとりだした。

 空に向って撃てば威嚇になるかも知れない。だがここしばらく斉木は手入れを怠っていた。


 ―― 静かにしてるんだ。気配を消していれば、やつらそのまま、

 ―― Sssssssssss!


 突如少女はくちびるに指をあて、裂帛の歯擦音をはなった。

 斉木は一瞬あらゆる動きを封じられ中腰で固まった。


 ―― すわって。

 いい? そんなに甘くはないわよこのあたりの野良犬は。


 斉木は言うとおりにした。

 野犬たちの群れがいっせいにうごきだした。

 速度をおとし、無気味に整然とした足どりでセンターの入口まで引き返してくる。

 スロープの入り口で犬たちはいったん立ち止まった。

 そしてリーダーらしきものがよく通る太い咆吼をあげると、犬たちはいっせいに自動車専用道路を駆け上りはじめた。


 ―― 変だ。こいつらなぜさっきから急に吼えなくなった?


 なめらかに湾曲した道路を野犬たちはかつかつと駆け上がってくる。

 阿子川の対岸に建つ待機運転中の

陸灯台の光を反射し、その目はすべて赤一色に染まっていた。

 その数は三〇頭にものぼるだろうか、犬種も体格もさまざまな野犬たちは斉木のイメージする痩せてうす汚れたけものとはどこかがちがっていた。

 はね上げられた遮断機の前で、犬たちはよく訓練されたラグビーチームのようにとまった。

 やはりそのまま一匹残らず落ちつかなげに路面を蹴るだけで、吼えようとさえしない。


 ―― やつらまるで警察犬だ。


 最前列にいた精悍そうな中型犬が数匹、民族楽器を思わせる声音で高低をつけ唸りだした。

 明らかに互いになにごとか意思の交換をおこなっている。それもひどく剣呑な。

 やがて無気味なほど整然とした動きで群れが左右にわかれた。

 あいだを縫うようにして、群れを統率するリーダー格とおぼしき犬があらわれた。

 美しい体型をした大型のコリー犬だった。

 コリーは遮断機の真横まで進み、同事に他のものは2本の遮断機を両端に凹型楕円の陣形をとった。さながら“ C ”直前のノワール、いにしえの韓国ギャング映画だ。


 ―― あいつらも変わったわ。霧のなかをさまようあいだに色んなことを学びとって。


 ゆっくり腰を落としながら少女はつぶやいたいた。

 軽い棒とうすっぺらな板材だけでできた休憩所にゆっくりと鼻先をむけ、コリーはその祖先が決してしなかったことをした。

 まっこうから牙を剥いたのだ。


 ―― そして捨て去ってきたよ。いろんなものを。


 濡れひかる真っ赤な舌とのコントラストに白い大きな牙が、霧をとおして斉木の所まで見えるほどありありと浮かびあがった。

 斉木はゆっくりとSFPをかまえた。

 素人がろくに訓練もせず、こんないいかげんな格好で構えてどうなるものでもないだろう。せめて少女にけがをさせぬよう、犬をおどかせれば幸いだった。

 その時になって斉木はようやく頭上の黒猫親子をかたどった運送会社のマークに気づき、その皮肉にひきつった苦笑をもらした。

 少女がのびをするように、すばやく両腕を後ろにまわした

 そしてやはりその時はじめて斉木は、少女の髪を一房だけ結わえてあった紅い紐に気づいた。

 ごく簡素な飾り紐だが、東北のどこの教育指導部も子どもがそのようなものを身につけることを許してない。

 少女はそれをひどく熟練したやりかたで手ばやく後ろ手にほどいた。

 ぎょっとするほど多量の黒髪が少女の肩に流れ落ちた。

 コリーはふたたび低く喉をならすと、自信に満ちた足取りで霧の中から歩み出てきた。


                     



 




 


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