6・霧のくる前のこと
晴れわたる10月はじめの土曜日。
司書室の床におちた窓枠の影は目に痛いほどあざやかで、破損図書の修理に使う糊の鼻をつく匂いとよく調和していた。
校門の両側につらなる街路樹の色づいた葉の黄色と赤。
河に映る空の青さと彼方に波濤をつらねる山肌の紺青。
校舎のあちこちで、まだ感情の
それさえもがありとあらゆるものと相まって、校舎最上階のはずれにある図書館の静寂を際だたせていた。
窓のすぐ下では中庭にギターを持ち込み、へたくそな合唱を続けている男子生徒たちがいる。
車座にすわって大合唱する――そんな、とうになくなって久しい習慣をおぼえてるやつらが今どきの中学生に残っているのが、斉木にはみょうに嬉しかった。
それにあの歌には聞き覚えがある。
結構昔のものだったはずだが、あれはなかなかいい歌だった。
もう5分だけ大目に見てやろうと思った。それで止めなければ注意におりよう。
生徒たちがやってくるほんのすこしまえ、まだ無人の図書館で、司書の資格をもつ斉木は背表紙の破損した古い本を修理していた。
もう大昔から収蔵されている、松谷みよ子と瀬川拓男編纂による日本の伝説集だった。
その中で斉木はふと東北地方のみじかい民話に目を惹かれた。
―― 手代の長吉が使いにだされた帰り道のこと。
長吉が、化け物の出るという鬼がっ原を通りかかると、犬に吠えつかれて泣いている女の子がいる。
長吉は犬を追い払い、娘を家まで連れて行ってやる.。
家の前で礼を言って顔をあげた娘の顔には、つぶらな目がたった一つ……
♮
平原を走り去る夕風をほほにうけ、斉木は屋根びさしのあるベンチで現実に立ちもどった。
ふたりは津久田のはずれにあるヤマト運輸配送センターの門衛所で休憩をとっていた。
十文字へたどり着いたなら、謝礼としてすこし食料を分けてもらえないだろうか?
斉木には、それがさほどさもしい考えとも思えなかった。
“ C ” のあと、誰もがすこしづつ時間の感覚をじぶんの都合にあわせ、コントロールする術を学びはじめた。霧のなかではそんなことさえ可能になったのだ。
ましてここは《新杜丘
まだ斉木は空腹感を感じていない。
だがそうやって空腹感を先のばしにすることが、知らず知らずのあいだにおのれを異形の “ 迷子 ”――この世に自分と似たものを何ひとつもたない霧の山野を
遠い稜線のあいだで散り散りになった夕映えが、一
風が影をまとって幽かな音を孕みはじめた。
――まだ帰り道は思い出せない?
少女はながいこと口をひき結んだまま、ベンチにすわり、うつむいていた。
奇妙なかたちをした前髪は、夕闇のなかで深い翳りを右頬におとしている。先端が板壁に影を落としてわずかに揺れ、まるでコオロギの触角のようだ。
そのきりりとした横顔がふと霧に没した時代の、いまとなっては名前も思い出せぬ――たしか、“坂系 ”とか呼ばれていた――あるアイドルグループのメンバーを思いださせた。
――不思議だよね。先生。
――なにが?
――この霧、太陽の光をさえぎってるのにちっとも寒くならない。冷害もおこらなかった。ふつういくら暖かくても光がなきゃ植物だって育たないのにね。
――植物のそう言うはたらき、何ていう?
――光合成でしょ。知ってるわよ。そのくらい。
――そう言う基礎的な常識はわすれないでおいてくれ。
斉木はひと呼吸おき、それからつとめてさりげない口調で付け加えた。
――そう言うなんでもないことをおぼえてないと、霧の中ではいとも簡単に人はヒトじゃなくなる。
長いことたってからわずかに顔をかたむけ、斉木は少女を見た。
夕闇の
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