5・夕ばえ

 『 新杜丘市 』評議会が江西地区からの全面撤収を決議した理由は、阿古川の存在にあった。

 変転してやまない急流のエネルギーが市民の無意識に作用し、常にパラダイムの安定を脅かしていたのである。

 この決議をめぐっては、ながく続いた争議のすえ多数の人びとが、なかば強制されて新杜丘市

を離れた。何処いずこではぐれたかもさだかでない両親を追うようにして、斉木の妻もかれらと共にみどり橋を渡っていった。

 歳月に関するあらゆる基準が喪われ、廃墟ばかりが連なる灰色の世界。ともにそこを彷徨するうち斉木もその妻も、いつかかつての二人ではなくなっていた。

 いま旧東北線の西側に立ち入るものは、水力発電施設の定期点検員と巡回保安隊のほかだれもいない。


          ♮


 西の低い空が潤んだようにあからんでいた。

 奥羽山脈の遠い稜線が、今日はわずかながら霧の彼方に浮かんで見える。

 斉木と少女は田舎風の簡素な遊歩道を歩いていた。

 もとは牛馬が行き来していたその小道は七曲がりしながら、蟹沢変電所の敷地の外周をめぐる塀に沿って続いている。

 そのまま行けば十文字へ向かう16号線への近道となるはずだった。

 黒髪を頬から首にかけてショールのように巻いた少女は、弓道仕込みらしいきびきびとした足どりで斉木の後をついてくる。少女は斉木の手を握ったままだった。

 彼女が『新杜丘市』の時空域から脱出するためは、斉木の見当識が自身の周囲に形成している個人的な時空域が必要なのだ。 

 道の彩色煉瓦は雑に敷き詰められ、ながい歳月の間に舗装がゆるみ、あちこちから雑草が大きく伸びている。むかし遊歩道のかたわらを威勢よくながれていた堰はいつの間にか干上がってしまい、両側から夏草におおわれていた。

 やがてふたりが16号線の貫通する広い農耕地帯に出たころ、空の上半分はさながら憤怒の極みにあるような色合いにそまっていた。

 いまや車の行き来もたえた4車線自動車道のかたわらまでくると、少女はふいに斉木の手をはなして走りだした。


 ――ねえ。先生はこの霧、なにで出来てると思う?


 中央分離帯に駆けのぼると華奢な首をおもいきりそらし、少女は夕焼けのにじむ霧の空を仰いだ。


 ――さあね。考えたこともない。

 ――もしかしたらじゃないかしら?

 ――どうしてそう思うんだい。

 ――うまくは説明できないんだけどほら、この霧が東から押し寄せてきてから、時間や空間は心の動きに従って変化するようになったでしょ? これって人のこころの内がわと外がわの宇宙がつながってしまったせいじゃないかしら? ・・・・・・この霧はもしかしたら、あたしたちの心のなかから現実に流れだして来たんじゃないかな。


 斉木はこたえなかった。

 先ほどまで激しくうずまいていた霧は、まるで斉木の想いを映したように動きをしずめ、原野にゆっくりと棚引たなびいていた。

 濃霧のなかに暮らすうち、あらゆる人間の内宇宙で異形の変革が進行しつつある――。

 みずからの考えが心の表層に浮かび上がらぬよう、斉木は沈黙をまもった。そうする一方で茜の空を見あげる〝 迷子 〟の黒い前髪にかくれた片頬を、斉木は静かに凝視し続けていた。

 

 

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