3・迷子
――どうしたんだ。
周囲の静寂を破らぬよう斉木はたずねた。
霧がやって来たあと、誰もが声高にしゃべらぬようになった。
やはり、理由は誰にもわからない。
――帰れないの。
震える声で囁き少女は斉木を見あげた。白々とした横顔は、斉木の記憶の奥底からいにしえの月の輝きを呼び覚ました。
膝を抱いた体がわずかに動き、ふいにその輪郭がはっきりした。
すんなりとした体にぴったり合った濃紺のジャージを着ている。袖口にはあざやかな黒い毛筆体のプリントがはいっていた。
I・・・・・・県立津久田中学校弓道部
――津久田中なの?
少女は目を伏せたままうなづいた。
津久田中は縦貫道の稗田インター近くにある。弓道部には古い伝統があり、全国制覇を達成したこともあったはずだ。
突然ある情景が脳裏によみがえった。その今は喪われた色彩のあざやかさに、斉木はかすかに目の眩む思いがした。
霧のおとずれとともに、すべての過去と現在は反転した。いまやすべての現在は色褪せ、あらゆる往時の夢こそが閃光のごとき輝きを放っている。
――きみが今住んでいるところには、
――なにを言ってるの。わたしはずっとあそこで、お母さんやお姉ちゃんたちと暮らしていたわ。
かつての市西端であった津久田、そしてさらにその先に広漠と広がる稗田郡の農村地帯には、忘れ去られた集落が今なお存在するのだろうか。
だが、存続していると言うならいったいいかなる形で?
――ずっと長いこと、誰にも会えなかった。
少女はなおも闇のなか片目だけを光らせ、同じ調子でつぶやいた。
――誰にも会えなくて、誰も来なくって。淋しくて淋しくて気が変になりそうだった・・・・・・そうしてるあいだにおねえちゃんの一人が死んだ。・・・・・・でもあたしたち、長いことかけてやっと外へ出る方法を見つけたの。あの山と山にはさまれた谷間みたいな場所から。
――山あいというと、
――知ってるの? まだ十文字は名前を覚えられているの?
少女の目にはげしい感情が宿った。
――十文字に人が残ってるって、どうしてもっと早く新杜丘の執行部に連絡しなかったんだ。保安巡回だって定期的にイオンモールの先まで行ってただろう。
――出来なかったのよ!
少女は根かぎりの絶叫をささやいた。
――杜丘に入ろうとしても入ることなんか出来なかった。なぜ? どうして市のひとは分かってくれなかったの? あれだけ色々な方法でここに人がいるって合図したのに。
挙げ句ようやくやっとここにたどり着けたとおもったら西イオンのまわりにはもう誰もいないし、おまけにこんどは津久田から向こうへ戻ることが出来なくなっちゃった・・・・・・
そう言って少女は顔をおおい、ふたたび肩をふるわせて泣きだした。
その首から右肩をおおい、奇妙なかたちに
♮
霧の到来とともに、時間と空間は絶対的に相対化した。
同時に生じた電磁波の減衰現象は大規模な通信途絶をひきおこし、有形・無形の社会組織が瞬時にして崩壊した。
なすすべもなく国家秩序は解体した。
孤立した騒乱する都市と沈黙する集落の上を、数知れぬ永遠が過ぎ去った。
そのあいだに霧の緞帳の陰では、およそ人間の想像しうるありとあらゆる残虐行為が繰りひろげられた。
のちに明らかになったように、ある種の人びとにはすべてを可能にする力が備わったのだ・・・・・・
この歳月ではあらわせぬ忌まわしい時代のあと、それでもなお人の子を自認する人びとは再度崩壊した都市につどった。多数の人間がひとところにあつまり暮らせば時間と空間に関する共通した認識が生ずる。そこに生まれたパラダイム――〝 相対的閉鎖時空系 〟 に従い、人びとは秩序の再建に着手した。
しかし奇怪な霧は人びとの見当識の合一を長くさまたげ、戦闘と混乱がすべて終息するころには残存する都市群のおのおのが異なる長い歴史をもった別世界と化していた。
現在では全世界の有力な共同体勢力の大半が、この〝相対的閉鎖時空系〟 概念を採用しているとされる。県都であったここ杜丘市の国立大学に、心理学部と量子物理学研究所があったのは幸運だった。両者の併存がこの
こうして市民たちの共同幻想・時間認識の総和として存在する単一時間のなかで、変化にとぼしい閉鎖的な生活が始まった。
質素・従順の規範がふたたび美徳とされ、個性は
♮
斉木は、座りこんだままの少女の姿態にだまって見入っていた。
現在すくなくとも新杜丘と定期的に連絡を取りあっている東北の有力な都市や
子どもたちにも禁忌の観念が徹底されているはずだ。ならば。
ゆっくりと、背筋が氷柱に変じてゆくのを斉木は覚えた。
この杜丘にもどってくるまえの狂気じみた放浪生活ですら、噂にしか聞いたことのなかったものがそこにいた。
目の前にいるのは 〝 迷子 〟だった。
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