2・霧と廃墟

 『イオン江西』の廃墟が、霧のなかで次第に形をとってゆく。

 最初に姿をあらわしたのは、屋上駐車場下の壁にもうけられた時計台だった。

 二本の針は装飾も錆びて、ある日の午前か午後の四時二〇分を指したまま止まっている。

 実際すでに午後もおそい時刻で、濃霧をとおして射す陽ざしはすでに西日のかげりを帯びていた。

 遺棄された商業施設は遠目にまだまあたらしい。しかし墳墓を思わせる白い建物は、人のこころを峻厳にこばむ千古の闇と静寂でその内側を充たしていた。

 ここ江西地区は、かつて蟹沢と呼ばれていた。  

 突如はじまった地形のホロコーストとでも呼ぶべき徹底的な造成の結果、水田と雑木林と点在する小山ばかりが続いていた田園地帯は、中心に大規模なショッピングモールをもつ県都の新しい中心地に変貌した。

 そしてこの新しいベッドタウンの第一期入居者には斉木とその妻、そして彼女の両親も名を連ねていた。

 阿子川対岸の杜丘駅、さらにその先の市街とをつなぐバス路線もほどなく完備し、蟹沢の名が廃止されるころには市立病院をはじめとするさまざまな公共施設が、阿子川のこちらへと移転しはじめた。

 そして霧がやってきた。

                  

           ♮


 霧の到来とそれにつづく大混乱を生きのびた大半の人びとと同様に、斉木にも当時のまとまった記憶がない。

 しかし彼の知るかぎり一番最後まで放送を続けていた岩手のIBCラジオが沈黙する直前、トルコで緊急に開催された有識者会議によってこの怪現象が〝 ボーア = ペンローズ危機 〟と命名された旨をくりかえし放送していたのを、斉木は今もよくおぼえている。

 ——のちに斉木はみずからも霧にのまれ、時間も空間もない薄明を彼岸なす狂気の果てまで経巡へめぐった。

 しかしあるとき彼は、ふとその名を思いだすことで自分をとりもどしたのだ。

 〝 ボーア = ペンローズ危機 〟——

 うずまく濃霧の底へと全世界が没してゆくさなか、アナログ通信のリレーを主媒体としてこの名称はからくも大半の先進諸国に報じられた。そしてこれがのちに『20世紀文明のダイイング・メッセージ』とでも言うべき重大な情報を含んでいたことが分かってくるのだ。

 そしてもう一つ。

 これは誰がいいだしたのか分からない。

 しかしいつの頃からか、この大異変はもう一つの、こちらはきわめて単純な名称で呼ばれるようになっていた。

 すなわち “ C ” と。――


           ♮


 イオンモール一階の北半分は食品売り場となっていた。

 とりあえず夜がくるまえに、出来るだけ売り場をあたってみよう。うまくすれば水や保存食のたぐいが見つかるかもしれない。もっとも、それを口にしても大丈夫かどうかは定かではないが。

 ―― “ 時空管制域パラダイムの外において、はいかなる変化をこうむるのか ” については生物とりわけ高度な知能を持つものへの影響よりも、無生物に対する影響のほうが謎に包まれており、研究もはるかに遅れている。しかし斉木に選択の余地はなかった。

 正面玄関まえの駐車場に入ると霧は急激に深まった。

 白灰色の宇宙を浮遊しているような感覚が襲ってくる。

 濁った湖底の影法師と化した自家用車はかなりの台数が乱雑に乗り捨てられ、中にはドアが開け放たれたままのものも多い。

 足もとを確かめつつ歩を進めながら斉木は、この施設を襲った終局のありさまをぼんやりと思いだしていた。

 ――霧と略奪さわぎと、どっちがさきに来たんだっけ・・・・・・

 そのときだった。

 斉木は幽かな物音に気づいた。


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 それは亡霊のような気配とともに斉木の耳へつたわってきた。膝がはげしく痙攣し、靴が不快な音をたてて路面をこすった。

 反射的に斉木は手近なバンのかげに飛び込み周囲をうかがった。

 音はみずからの生んだこだまに、輪郭さえ聞き分けられぬほど深く沈んでいた。

 何かがきしむような、こすれあうような、途切れがちにつづくかすれたその音は、斉木の体がある方向を向いた瞬間、突然あどけない娘のすすり泣きにかわった。

 どちらから聞こえるのかよくわからない。しかしおそらく廃墟の外周を成している軒庇のきびさしが落とす、おおきな長い影の下のどこかだ。

 イオンモールが放置されてからどれ程の歳月が過ぎたのか。数日か数千年、はたまた数千世紀? そしてその内部はやはり、魑魅魍魎の徘徊する暗黒界と化しているのであろうか。

 しかし斉木はわずかにためらったのち、決然と歩み出した。

 たとえ廃墟を彷徨うものが何であろうと、斉木はその同類となることを覚悟の上ここへやって来たのだ。

 泣く声のする方へ耳だけを頼りにすすみ、斉木は営業車用の駐車スペースに入った。

 商品搬入口をふさぐようにして、いすゞの10トントラックが止められていた。かすかに魚の腐ったにおいがする。

 足音をたてぬように斉木はトラックの裏側へまわった。

 突然闇が濃くなった。同時に谺が消えた。

 泣く声は斉木の足もとでしていた。

 息をのみ顔を上げる気配がして、暗がりにはなをすする音が響いた。

 闇の中で濡れた瞳がひとつ、きらりと光った。

 反射的に斉木は背後の薄日のなかへ飛びすさった。 

 汚れた壁を背に、一人の少女がうずくまっていた。

 顔をわずかにあげると白いうなじを幾すじも流れくだる髪が、月のない夜の漆黒に輝いた。




 

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