街の涯 - まちのはて -
深 夜
1・橋のむこう
阿子川に架かるみどり橋を渡りきると斉木は立ちどまり、振り返って背後をみた。
対岸のゲートも旧杜丘駅ももう見えない。駅ビルの向こうがわに聳えるサンルートやイトーヨーカドーの廃墟が、その
もはや二度と晴れることのない曇天の下で、それらはさながら愚鈍な巨人たちの葬列を思わせた。
もう長いこと風は滅多に吹かない。
しかしここ阿古川の西では、連なるなだらかな丘陵を縫って幾本かの急流が走っているせいか、常につめたい微風が空気をふるわせていた。
四車線道路の分離帯近くを足音も立てず、斉木はどこまでも歩いた。
斉木の歩みに連れて霧は、その行く手につぎつぎとその
瀟洒な
〝 ボーア = ペンローズ危機 〟 のあと、誰もが足音を殺して歩くようになった。
理由は誰もしらない。
ふいにマリンスノウのような濃霧を突きやぶり、信号機がぬっと眼前に立ちふさがった。見おろす三つならんだランプはとうに死魚の目と化している。
十字路の右側にたたずむ市立病院跡の巨大な影法師を過ぎると、そこから先はかつて
見すてられたビルがいくつも、亡霊のように濃霧の中から立ちあらわれては消えてゆく。
まだ完成してまもなかった病院もマンションも、その足許にわずかにのこっていた古い木造の農家や商店も、もろともに打ち捨てられ住人のすべてが姿を消していた。
はるか昔、斉木はこの廃墟のどこかに住んでいたのだが、どこだったのか今となってはまるで思い出せない。
♮
突如として霧は各地にあらわれ、短期間で全世界をおおった。
いかなる成分で出来ているのか、そもそもほんとうに物質なのかどうかさえ解明されぬまま、ほとんどの主要都市で通信が途絶した。
しかし斉木はまだ覚えている。
最初に霧が発生したのはこの日本―― その言葉にもう地名以外の意味はないが―― の富士山麓だったのだ。
奇怪なひとかたまりの霧が青木ヶ原―― 通称 “ 樹海 “ をおしつつむ直前、富士の山梨県側にひろがる裾野に展開する自衛隊・在日米軍共同の大規模な機密行動が発覚した。
中国・台湾・韓国・ロシアさらにASEANにいたる周辺諸国は、ただちにこの状況に関する完全な釈明と、事態の即時収拾を要求した。しかし日米両政府はこの軍事行動に関する一切の弁明を拒否、この緊急事態をめぐってアジア大陸沿岸はたちまち先の読めぬ危険な状況に突入した。
緊張と混乱が破滅的に高まるいっぽうで、世界各地から奇妙な濃霧の出現が続々と報じられはじめた。スティーヴン・キングの原作によるホラー映画との類似が指摘されたが、得体のしれぬフェイクニュースが現実の脅威をおび、やがて超大国同士の衝突を上まわる恐るべき大異変に発展するまで日数はかからなかった。
霧におおわれた地域では通信が例外なくとだえ、そこから避難してきた者たちは大半が発狂していた。
なぜだったのか。
今なら斉木にも、その理由はよくわかる―
♮
うずまく霧と静まりかえった廃墟のあいだを、斉木はゆっくり通り過ぎてゆく。
まだ空と雲との区別がはっきりしていたころ、その通りは『
西イオンの裏手で住宅地はとぎれる。突然始まった静寂のように、そこからは地平線までつづく畑地が広がっている。
津久田以南の旧東北線西側にひろがる農村地帯の放棄が新杜丘市の中央執行部によって決定されたのは、《 新杜丘パラダイム 》 で言えば3年前のことだった。
現在、江西地区は境界区域として常時監視下に置かれてはいるものの、『イオン江西』の向こうは『新杜丘市』の
津久田で新杜丘市の市街は終わる。そのむこうに広漠と広がる稗田郡は、市09年の居住区移転問題にからむ大暴動以来まったくの無人地帯と化していた。
そして斉木は津久田の交差点をわたった。
そこで街はおわる。
彼を見とがめるものは誰もいなかった。『新杜丘市』は斉木の背後で濃霧に閉ざされた。そこにもはや彼の居場所はなく、かれに帰るつもりもなかった。
だれひとり彼に宣告するものはなく、彼もまた誰にも告げぬまま、斉木はみずから追放されたのだ。
後悔はなかった。
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