第7話 遺書を落札した話★★
私はフリマアプリにはまっている時期があった。
もともと掘り出し物を探すのが好きで、
しかし最近は便利になったもので、アプリを開けば日本中の不用品が家で見られるようになった。
仕事を定年退職し、時間ができた私は、その日も様々な出品物を見ていた。
そんな時に見つけたのが、あの遺書だった。
遺書、とは言ったが内容はサイトに記載されていなかった。
出品物の説明には
“遺書です。私の書いたものではありません”
そう書かれているだけ。
不謹慎な話だが、私は興味をもった。
赤の他人の遺書を覗き見ることなどそうはない。
そもそもどういう経緯があったら、遺書が出品されることになるのだろう。
少ない説明が余計に私の関心を
私は出品者とコメントも交わさずに、購入希望のボタンを押した。
ものが家に届いたのはそれから3日後のことだった。
てっきり封筒で送られてくるかと思っていたが、それは小包くらいの段ボールに入っていた。
テープを剥がして最初に姿を見せたのは、木箱だった。
黒と赤の
商品説明にこの箱のことは書かれていなかった。
梱包のためだけなら封筒の方が送料が安い。なぜこんなものに入れて送ったのだろう。
中身が遺書であることを思うと、単なる木箱が少し不気味に見えた。
組紐を解いて蓋を開けると、中には三つ折りの紙が入っていた。
紙はいわゆるコピー紙のようなものではなく、目の荒い藁半紙のような材質。
ずいぶん古いものなのかもしれない。
そう思いながら紙を開くと、箱にあったような墨の文字で、なにか文章が書かれていた。
なにか、と表現したのは、なんと書いているのかわからなかったからだ。
歴史の教科書などに載っている、江戸時代や明治時代の文字を想像してもらえばいい。
時々、現代の形に近い漢字やカタカナが混じっていることはわかるが、とても内容が読み取れるものではなかった。
私は少し期待が外れたなと思った。骨董品を取り寄せるつもりではなかったからだ。
そもそも内容がわからないので、これが本当に遺書であるのかさえわからない。
私は大学で勤めている昔の友人へ連絡をとった。
友人は日本文化に関する学部で客員教授をしており、文献などの解読もしているという話を思い出したのだ。
メールで画像を送り、画像を見た友人は「おそらく江戸後期〜明治初期のものではないか」と推測した。
そして一見したところ……確かに「苦シミ」とか「死」という字は使われていると言った。
照合してみないとわからない文字の方が多いというので、私は友人からの連絡を待つことになった。
問題が起きたのは2日後の夜のことだった。
私は例の遺書を箱に戻し、書斎の本棚に保管していた。
それから寝室に行って灯りを消し、寝つこうとした時に妙な音が聞こえてきたのだ。
音というよりも、声。
ぶつ切りでよくわからないが、誰かが一人で喋っているように聞こえた。
最初、私は泥棒かと思い、息を殺して廊下に出た。
廊下に出るとさっきよりも声は鮮明に聞こえて、その先を辿ると、声は書斎から聞こえているのがわかった。
閉じた書斎の扉の向こうから聞こえる声。
私が耳を立てると、その声は急にぱったりと止んだ。
そして今度は、べちゃっ、べちゃっ……と、這いずるような音が聞こえた。
——何かが私の立つ扉に向かってきている。
瞬間、全身をめぐる血が凍りついたかのような悪寒がした。
私はすぐに寝室に戻り、鍵をかけて布団に潜り込んだ。
自分を抱き抱えるようにして体を丸めたが、震えは収まるどころか酷くなるばかり。
扉の向こうにいる何かを、本能が警告しているのを感じた。
書斎にいるのは泥棒とかそういう
でもその正体を確認する勇気はとてもなかった。
結局、私は朝までベッドの中に潜ったままでいた。
朝の9時になって家政婦がインターホンを鳴らし、それで初めて寝室を出ることができた。
それから理由をつけ、家政婦とともに書斎へと向かう。
部屋の中には誰もいなかった。
だが部屋のカーペットに大きな黒いシミができていた。
とても触れる気にならなかったが、見たところほんのり湿っていて、異臭のするシミ。
ここに何かがいた。
あるいはここで何かがあったという確かな痕跡だった。
家政婦は「このお部屋……」と何かを言いかけたが、私の手前であったせいか言葉を飲み込んだ。
私は書斎の本棚に目をやると、箱の蓋が開いているのが見えた。
それでようやく、私の中で昨夜の出来事と遺書が結びついた。
とんでもないものを手にしてしまったのだと確信した。
このまま手元に置いておけばどうなるかわかったものではない。私はすぐに木箱を段ボールに入れ、処分をしようと試みた。
しかし箱を持って玄関に立ったところで、胃のなかをかき混ぜられるような吐き気が私を襲った。
すぐに洗面所に駆け込み、そこで胃液と涙を搾り出しながら1時間ほど身動きが取れなかった。
その後、家政婦に薬箱から薬を出してもらって飲んだが、昼になってもうめき声を噛み殺せる程度にしか回復しない。
それどころか朦朧とした頭で遺書の処分を考えるだけで、吐き気と一緒に頭が割れそうな痛みが私を襲った。
処分すれば命はない。
大袈裟ではなく、そう警告されているのがわかった。
しかしどうしていいか分からない。
誰か頼れる人はいないか……考え始めた時、遺書の解読を依頼した友人の顔が浮かんだ。
もし書かれている内容がわかったなら、何か解決のヒントがあるかもしれない。
そう思い、私は友人に電話をかけた。
何回かのコールの後、電話に出たのは友人ではなくその妻だった。
「主人は昨夜、亡くなりました……」
電話口での言葉に、私は言葉を失った。
通夜はその日の晩に
体調はとても回復したとは言えなかったが、私は体を引きずって友人の自宅へと足を運んだ。
友人の棺は蓋が閉められたままで、顔を見ることはできなかった。
——自殺や怪死など、人に見せられないような亡くなり方をした場合に、そのような対応をすると聞いたことがある。
私は遺族に、友人の死の詳細を尋ねることはできなかった。
そんな事よりも、次は自分が同じ目に遭うことへの恐れしかなかった。
画像を分析しただけの友人が一晩で死んだ。持ち主である自分が無事に終わるはずはない。
下手をすれば今夜にでも、私は友人と同じ道を辿るだろう。
——絶望に暮れる私を現実に引き戻したのは、スマホの通知だった。
フリマアプリで落札した小物が発送されるというメッセージ。
全く関係のない取引の通知ではあったのだが……それを見た私は、一つの恐ろしい仮説に行き着いた。
この遺書は処分できないが、他人に譲ることはできる。
私はアプリで、遺書を出品していたユーザーの検索をした。
2日前まで存在していたアカウントは削除されており、見つけることができなかった。
アカウントの削除や変更は本人にしかできない。
自分にこの遺書を送った誰かは、少なくとも生きているということだ。
『誰かに渡せば自分は助かる』
そんな悪魔の
きっと私に遺書を送った誰かは、この
——私はその場にうずくまって顔を伏せた。
それからそっと自分のアカウントを開き、震える指で“新規出品“のボタンを押す。
商品の説明にはこう記した。
遺書です。私の書いたものではありません
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