第8話 うたごえ喫茶ニューモダン 1/2★★★
忘れもしない。あの日は土砂降りの雨だった。
車内のオーディオをかき消すような雨音。フロントガラスの視界を埋め尽くす雨粒。
ただでさえスピードの出せない山道を、俺たちの車は亀のような速度で下っていた。
「なあこれ、雨がやむまでどこかに停めた方がよくないか」
ハンドルを握る俺にそう提案したのは、助手席のAだった。
「確かに。前がほとんど見えないからな。どうする?」
俺が聞くと、後部座席にいたBとCも「あー、そうだな。雨が大人しくなるまで休憩するか」と言って頷いた。
俺たち4人は高校時代からの友人で、温泉旅館から帰る最中だった。宿を出た時はむしろ晴れてるくらいだったのに、途中で雲がかかったかと思うと突然の豪雨に見舞われた。山の天気は変わりやすいというが、まさにこのことだろう。
車を停めて雨のピークをやり過ごす。そう決めた俺たちだったが、路肩のスペースもろくにない道で停車するわけにはいかない。
どうしようかと思いながら車を走らせていると、前方に少し開けたスペースが現れた。
「お、店か? 一旦ここに停めさせてもらうか」
ハンドルを切って車を入れると、確かにそこは店の駐車場だった。
しかし雨の向こうに見えた建物はボロボロで、とても営業しているようには見えない。
うたごえ喫茶 ニューモダン
山間の道沿いに突然現れた、ペンションのような形の建物。くすんだピンクの外壁が周囲の景色からはかなり浮いて見える。
駐車場は車が8台ほどは停められるスペースが確保されていた。昔はそれなりに賑わっていたのかもしれない。
「ナビには載ってないな、この店。だいぶ前に潰れたんだろうな」
「ていうか歌声喫茶って何だよ。聞いたことねーよ。カラオケみたいなもん?」
俺たちは見慣れない廃墟の出現に「いつまでやってたんだろう」とか「こんな立地じゃ潰れるだろ」とかそんな話をしてた。
ただそんな興味もそのうち消え、俺以外の3人は買い込んで余った酒を開け始めた。
それからちょっと経って、雨は少しマシになったものの、今度は雷が鳴り始めた。
そのうちかなり近くで雷が光るようになり、肩がビクってなるレベルで音が響いてきた。
「うわこれ、カミナリ落ちてくるんじゃねーの? 車の中って安全なんだっけ」
Aの言葉に、そうは言っても避難するとこなんかねーだろ。そう思って、俺はなんとなく建物の方を見た。
劣化の割に窓ガラスは割れていない。雨風はしのげそうに見える。
でも中に入れる保証はないよな……。
そんな風に思った矢先に、また雷が光った。その時だ。
店の窓ガラスの向こうに、人影のようなものが見えた。
え、人? そんな声が口から漏れた。
ただ俺の声はどでかい雷鳴にかき消されらしい。誰も耳にも入った様子はなかった。
「今の雷はかなり近かったぞ! 俺、あの建物に入れるか見てくるわ!
ドアが開いたら合図するから」
後部座席にいたCがそう言うと、俺以外の二人が「頼むわ」と言って送り出した。
俺はさっき見たものを話そうとしたが、その時にはCはもう傘をさしてドアを開けていた。
Cは小走りで建物の入り口まで走ると、ドアノブに手をかけながら、こっちに向かって手招きをして見せた。
それを見ると、AとBもそれぞれ車を降りようとしたが、エンジンを止めようとしない俺を見てAが言った。
「おい、行こうぜ。あそこ入れるってよ」
「ん、ああ……うん」
曖昧な俺の返事に、Aは少し怪訝な顔をした。けどBがすでに建物へ走っていたこともあり、二人でその背中を追うことになった。
さっき見た影のことは気になっていた。でも見たのは雷が光った一瞬で、気のせいかって言われたらそんな感じもした。それより雷の方が危ないかもって意識がその時はあった。
俺たちはびしょ濡れになりながら建物に入った。
扉を閉めると外の雨音と雷鳴が驚くほど遠くなった。
防音がかなりしっかりしてるんだろうな。看板に書かれた“うたごえ喫茶”と言う文字が頭に浮かんだ。
「おー、なんか色々残ってんなあ」
最初に建物に走ったCが、室内を物色しながらそんなことを言った。
床は散らかり、埃がかぶってはいるものの、内装はほぼ当時のままじゃないかってくらい色々なものが残されていた。
酒のボトルと宙吊りになったグラス。テーブルは3つあって、それぞれ壁沿いに赤茶色のソファが置かれていた。
一見、普通のバーや喫茶店のようだが、室内の一角にあるステージのような空間が目を惹いた。
少し小高く作られたそのスペースには、数本のマイクスタンドと音響設備、古びたレコードが置かれている。
物珍しさもあって、Bも「どれどれー」とか言いながらレコード盤を物色し始めた。
曲はほとんど知らないものばかりだったが、パッケージには美空ひばりとか石原裕次郎とか、さすがに見たことのある顔も混じっていた。
「1950年とかそこらへんのヤツじゃん。見る人が見れば貴重なんかな。
よく泥棒に盗まれなかったよな」
Bがそんなことを言うのを聞きながら、確かにそうだなって思った。廃墟は荒らされるってよく聞くけど、この建物にはそんな様子がない。
立地だってそれなりに目につく場所だ。
それが逆に不審者の侵入を防いでいるのだろうか? いやそれにしたって……。
そんなことを考えていたら、部屋の中にキイキイと音が響いた。
爪で何かを引っ掻くような、金属を擦り合わせるような、そんな音だ。
それから古めかしい感じのイントロが流れ始めたところで、俺はそれがレコードの曲だってわかった。
「おいC。あんま触んなって」と、AがレコードのそばにいるCを注意した。
「お前だろ。レコード鳴らしてんの」
「いや、知らねーって! コレが勝手に鳴り始めたんだよ」
Aの指摘に、Cはレコードの脇で両手をあげて見せた。
確かにCはレコードに触れていなかった。そもそも目の前のレコードは手回し式のものではなく、スイッチを押せば自動で回るものだった。
ならCがふざけてスイッチを押したのだろうと思ったが、それも変だった。
この廃墟に電気が通っているとは思えない。
勝手に鳴り始めた。
Cの言葉がそのままの意味だとわかった時、俺たち全員が言葉を失い、その場に固まった。
そんな俺たちの視線を浴びながら、コンセントの刺さっていないレコードは回り続けている。
まもなく聞こえてきたのは女の歌声だった。
ガサガサと雑音が混じっているにも関わらず、女の声は脳の芯に染み込むような声をしていた。
歌詞はよく聞き取れない。けどなんだか言い表せない、物悲しい曲調に背筋が震えた。
聞いているだけで精神がどん底まで落ち込みそうな、そんな音色だ。
「——おい、これ絶対やべーやつだろ! 逃げるぞ!」
ようやく叫んだのは俺だった。けどどういうわけかB・Cはぴくりとも動かないどころか反応すらなかった。
ただ黙ってレコードを見つめ、曲に聞き入っているように見えた。
Aだけが俺の問いかけに反応したが、「ダメだ、なんでだ。力が入らねえ」と入ってしゃがみ込んだ。
いいからここを出るぞ! って引っぱろうとするが、Aは「お前は先に……俺も行くから」と言って、震えながら立ちあがろうとするそぶりを見せた。
耳元で響いているかのように、歌声はどんどん鮮明になっていく。
俺は耳を塞ぎながら「来いよ、絶対だぞ!」と言って、フロアを飛び出した。
入り口のドアを乱暴に閉めると、歌はぱったりと聞こえなくなった。代わりに雨音と、遠くの方で雷の音。
俺はすぐさま車に逃げ帰ったもののどうしていいかわからなかった。ガタガタ震えながら運転席で膝を抱えていた。
それからどれだけ待っただろう。いつの間にか雷が聞こえなくなったくらいの頃に、建物からAだけが姿を見せた。
Aはヨタヨタと車に歩み寄ると、びしょ濡れのまま助手席に座ってボソッと「行こう」って言った。
「え、でもまだBとCが……」
「あいつらはもうダメだ」
虚ろな目をしたAの言葉に、俺は唾を飲み込むと、乱暴にエンジンをかけた。
その時にAの言った“もうダメだ”の意味がわかったのは、雨の上がった翌朝のことだった。
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