後編

 レインボーブリッジには遊歩道がある。

 ゆりかもめの芝浦ふ頭駅を降りて、運送会社に囲まれた薄暗い道を歩くと、埠頭の先にレインボーブリッジの入り口がある。

 一応、観光名所の一つのはずだけど、展望遊歩道と書かれた看板はおそらく建設当時から更新されず古いものなってる上、ろくに整備もされていないのか、文字はかすれてしまっている。

 でもそれが、逆に穴場っぽさを出していてワクワクする。

 知らない場所に行くのは好きだ。



 遊歩道の入り口からすぐにエレベーターに乗ると遊歩道が続いている。遊歩道は飛び降り防止の金網に仕切られて、上をゆりかもめが通るから薄暗く、鳥かごのように四方からの圧迫感がある。

 その圧迫感と薄暗さに冒険心を躍らせていた俺とは対照に姫はイラつき始めていた。

「くっさい!排気ガス臭すぎ!!」

 レインボーブリッジは、東京湾から降ろされたコンテナを運ぶ動脈の一つだ。だから昼でも夜でも関係なく遊歩道の横の車道は交通量が多いし、そのほとんどは排気量の多いトラックだ。


 鼻をつまむふりして、金網の隙間から外の景色を見ながら姫は話し始める。

「先輩、知ってます?東京湾ってめちゃくちゃ汚いんですよ。うんことかおしっこがそのまま下水から流れてきてるんですって」

「だから、ここも寂れているんですよ。空気は汚いし、うんこで汚い東京湾なんて誰も見たくなんてないし…!」

 そう話す姫の歩く速度は俺よりもずいぶん早い。

 きっと早くここを抜け出してお台場に行きたいのだろう。

 姫は俺の前を早歩きで進むけど、一人になりたくないのか、しきりに振り向いて俺が後ろにいるかを確認してきた。


「…先輩って小学生のころ、未来のために環境を守りましょう!みたいな授業やりましたか?」

「あったな。そんなやつ。」

 珍しく姫から陰口以外の話題が出てきて少し驚いてしまう。

「あの授業って酷いですよね。環境壊してるのって大人なのに、子供に押し付けて…東京湾だって大人が汚くしたのに本当最悪!」

 結局いつもの文句が出てきて俺は呆れてしまう。

 それでも姫は話し続ける、陰口でも話し続けるのは、話していない奴は「一人ぼっちなんだ」と感じてしまうからだろう。喋り続けないと不安なのだ。


「世界はもうオワッてるんですよ。」

そう話す姫の声はなんだか不安定だ。楽しそうにも悲しそうにも怒っているようにも聞こえる。

「世の中どんどん悪くなってるし」

「環境破壊とか、少子高齢化とか、離婚する人も昔よりもずっといて…」

「人が人を愛せなくなってるんですよ…こんな汚い世界だから、皆、上手く生きれないんだ」


 俺よりも前に出た姫の顔は見えない。

 陳腐な不幸の羅列だけど、そんことない──と言えるほど俺も世の中の事信じていない。

 姫じゃなくても愚痴が出そうになる時はある。


 でもそんなことを同意したくなんてない。

 そういうところも俺は中途半端なんだ。


 不安定な声のまま姫は絶好調で話し続ける。

「なんか起きればいいんですよ。きっと悪い世の中が変わるような!何か!」

「何かって?」

「ミサイルとか、台風とか?あっ怪獣でもいいや!でっかいやつ!ビーム!バァァーンって!みんないなくなっちゃえばいいんですよ!」

「何それ」

 無責任な物言いに怒りが沸いてくるのを半笑いでごまかした。ふざけてるだけとわかっていてもたまに出るこんな姫の発言は度を過ぎていると思う。

 怒らないように心を鎮めようとしていると

「めんどうくさいな」とふと頭に浮かんでしまう。

 姫と話していて何度も思ったことだ。

 声に出さないように注意して必死に他のことを思い浮かべる。


「鹿児島ではクレープが自販機で売ってるんだってさ」


 友達の言葉を思い出す。

 鹿児島には行ったことはない。

 今日は9月1日でもう夏休みは終わっている。

 なのに、適当な作戦が俺の頭の中で思いつく。


「学校にちゃんと行けない私が、ただダメなやつってだけなんです。」

 次に姫の言葉を思い出す。

 じゃあ、今、俺が考えてることを実行したら俺はダメなやつってことになる。


 そんな風には思えない。

 姫の言ってることはいつも何一つとして同意できない。したくない。

 オワってるとかだめとか陳腐な不幸を話す姫に間違っているんだと言ってやりたい。

 

 飛び降り防止の金網の隙間から見える東京湾の水面は光に照らされ輝いている。

 汚い、汚いと言われているけど、東京湾は十分に海らしい青色が広がっている。

 俺にはこの景色が綺麗に見える。


 ゆっくりと、息を吸い込む。喉が必死に拒絶するのを無視して排気ガスごと空気で肺を満たす。

「こんな汚い世界だから、皆、上手く生きれないんだ」

 俺の体はこの世界の空気を入れても、生きてることをやめたりしない。だから、この世界はそんなに汚くも、オワってもないんだろう。


 鼓動が高鳴ったまま、思い付きを衝動のままに声に出す。


「俺、鹿児島に行くから!!」

 俺の声を聞いた姫は振り返りながら聞き返す。

「いきなりなんですか?先輩、鹿児島の大学に行くんですか?」

「そうじゃなくて、旅行で!明日から!!」

 姫はキョトンとした顔をしていた。

「学校はどうするんですか?」

「サボる!」

 走りだして、前を歩く姫を一瞬で追い抜く。

「何しに行くんですか?」

 後ろから姫の声が聞こえる。声はどんどん遠ざかっている。

「自販機のクレープを買いに行く!!」

 振り返らずに走っていく。

「どういうこと?誰かと一緒に行くの!?ねえ!!」

 遠くにいる姫がめずらしく大声を出す。

 やっぱり姫にとって一人はとても怖いことなんだろう。

「一人で行くんだよ!!」

 喋りながら振り返ると姫はわけがわからないといった顔をしていた。


 教室に行かなくても、一人きりでも、俺は自分をダメなんて思わない。


「待ってよ!」

 泣きそうな声の姫を無視して走っていく。

 置いてかれたくないと姫も走りだしていた。

 その姿になんだか笑ってしまう俺がいる。


 学校をサボって俺が旅に出たって、たぶん、姫が保健室から出れるわけでもない、なにも変わらない。

 でも、中途半端に同じことを続けるよりもずっといい。


 息が上がり始める。でもまだ足は止めたくはない。

 ずっと足を動かし続ける。姫を連れて行ったりなんかしないで一人で駆け抜けていく。


 レインボーブリッジの遊歩道を抜けると、身体に日が差した。

 9月1日の午後の太陽は、まだ夏の日差しで熱いままだ。


 俺に置いてかれないように姫は必死に走っている。運動をまったくしていないだろう姫の足は遅い。



 それでも、日差しに向かって彼女は一人で動き出していた。






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9月1日、保健室の姫と 熊野トウゴ @Tougo_kumano

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