9月1日、保健室の姫と

熊野トウゴ

前編


「鹿児島ではクレープが自販機で売ってるんだってさ」


 9月1日、始業式が終わった後の教室で友達がそう言った。

 高校二年生の夏休みが終わった、始業式だけの二学期初日。わざと家には帰らずに近くのコンビニで昼ご飯を買って、教室で飲み食いしながらゲームをしてだらだらと喋っていた時だった。


「クレープ?自販機で?おいしいのそれ?」

「しらねー。」

「自販機でわざわざクレープ売る意味なくね?コンビニでいいじゃん」

「おでんがありなら、クレープもありじゃん?」

「おー、たしかに…」


 帰宅部の俺らが話す内容には、いつも生産性も意味もない。なにもなく。普通の学生が部活動や勉強に精を出す時間を浪費している。

 それがいいんだと思うときもあるけど、なんだか半端だ。

 価値がない時間と自覚しているけど、中途半端に誰かと一緒にいようとして何かの意味を求めている気がする。


 クレープの自販機には何か意味あるんだろうか?




 午後一時を回りそうになる時計を見て俺はゲーム機を鞄に入れ始める。


「なに?もう帰るの?」

「違うよ、保健室の姫のところ。職員会議の間、面倒見ろって養護教諭に言われた。」

「あー…例のお姫様」


 「保健室の姫」は保健室登校の女の子だ。

 俺らよりも一つ年下、高校一年生。

 一学期の中頃に保健室の隅で勉強していた彼女と話したのをきっかけに、養護教諭から頼まれて、彼女が登校した日に少し話しをする仲になった。


「で?どんな感じなの?」

「なにが?」

「姫と、良い感じなの?」

「そういうのじゃないって…」

 友達のからかう問いにそう答えながら半笑いが出てしまう。

 最初は俺も姫との間にそういうものを期待していた。

 保健室登校の傷ついた女の子と特別な関係になると言うとなんだかドラマチックな話だ。

 でもそんな下心も彼女のことを知ると段々と消えてしまっていた。




 保健室の扉には、養護教諭が在室かどうかを確認するための立札が掛かっていた。

「在室」のちょっとポップな立札が掛かっている扉を開けるとすぐ正面に養護教諭がいた。

 養護教諭は俺の顔を見るなり、

「来てくれてありがと、それじゃあ私は職員会議に出るから、一応、看板掛けるけど、だれか来たら伝えてあげてね。」

と用件を伝えてくる。そのあと保健室の隅を見ながら

「課題終らせて日誌を書かせたら帰らせていいから。」

と言って保健室を後にした。


 養護教諭を見送って俺は保健室の奥に歩き始める。

 保健室の姫は入り口からは見えないベッドのカーテンで遮られた奥に座っていた。

 ここは彼女の定位置だった。


「誰かに見られたくないから」

 奥まったところにわざわざいるのはそういう理由らしい。


 窮屈な定位置で保健室の姫は机の上の数学の課題とにらめっこしていた。やっているのは数学Ⅰの無理数の証明問題、簡単な背理法を利用する基礎問題だった。


ある事柄の否定が偽であることを示せれば,その事柄は正しいと言える。


ということさえわかれば、少なくともやらされる問題は同じようなもので、どれも簡単なはずだろうけど、姫はおそらく有理数と無理数の区別が上手く飲み込めてない。課題として出されているプリントの解答欄は証明問題の大きな空白がそのままになっている。

 それに、姫の手は今にも机の横に置いてあるスマートフォンに伸びようとしていた。


「課題終わらせないとまた先生にネチネチ言われるぞ。」

「あの数学の先生、性格オワってますよね?このプリント貰うときにも先輩を見習いなさいって言われたし、会うたびにネチネチ言われるし。」

「見習いなさいとか言いながら先輩のこと居眠り常習犯とか言ってたし、私と話すとき変なところ見てて、絶対スケベですよ。」

「なんでああいう人が先生なんだろう?ああいう先生だから数学出来ない人が増えるんじゃない?付けてるネクタイもダサいし…」

 姫が開口一番で出してくる敬語混じりの陰口は止まらない。

 保健室の姫はだいたいこんな感じで、話す内容の半分は誰かの陰口だ。

 普通の人だったら関わるのを避けようとするような態度でも、彼女に慣れてきた俺にはどうすればいいかもう分かっていた。


「なあ、クレープの自販機って知ってる?」

「なにそれ?知らないです。」

「鹿児島にあるんだってさ。」

「鹿児島?遠すぎ!先輩、学校サボって旅行に行くの?」

「俺、優等生だからそんなことしないよ。」

「居眠り常習犯なのに?」

 キャッキャと嬉しそうに姫は俺をいじる。狙い通り、陰口は止まる。

 最近分かったことだけど、姫は陰口が言いたいんじゃないらしく。話題にできることが姫本人の中に陰口しかないみたいなのだ。

…世の中の口が悪い人もみんなそうなんだろうか?

 どちらにしろ姫の話す内容はほとんどが先生や道端で会った嫌な人や親に対する陰口で、それに律義に付き合った結果、最初は持っていた俺の純粋な下心も段々と萎えてしまったのだ。

 だからと言って下心だけでここに来ているわけでもないから、俺は中途半端に彼女の話に付き合うふりをしていた。


「鹿児島って、おいしいものとか何かあるんですか?」

「うーんサツマイモとか?」

「私、お土産はお菓子がうれしいです!あんこは嫌いなんでクリームとかの洋菓子とか!あっ!スイートポテトでもいい…」

と姫が言いかけたところで、外から声が聞こえた。


「あれ!?先生いないじゃん!!」

「職員室だってよ!ドアに書いてる!」

「職員室って会議だから入れないじゃん。俺の足死んだわ!」

「引退するしかないじゃん!おつかれさまでした!」

 外から聞こえたのは男子生徒の声だった。

 たぶんどこかのスポーツ部員だろう。彼らが遠慮なくギャハハとしゃべる大きな声が保健室の中からもはっきりと聞こえた。


 元気なその声と対照的に姫は息を殺していた。

 顔を見なくても姫が不安な表情をしていることはすぐに察せた。

「最悪、ばっかみたい。なんであんな声でかいの?ガキ過ぎでしょ、キモ…」

 不安になればなるほど、姫の口は悪くなっていく。でもその声は今にも消えそうなくらい小さい。


 保健室の姫が、教室に行けないの理由はこれだ。


 姫は人の集団が怖いのだ。

 人の集団と言っても、彼女なりの線引きがあって、彼女は繁華街に遊びに行ったりするし、しきりに「先輩、私、ディズニーに行きたいです。」と言ったりするしで、自分と関わりのない人混みは平気なようなのだ。


 要は、自分と少しでも近い、対等なステージの人間たちが怖いのだ。

「私がただ自滅しただけなんです…」

 彼女がそう言っていたことを思い出す。

 入学してすぐのころ姫はクラスに上手くなじめなかったらしい。最初はそれでも教室に登校していた。でも、居場所がないと思った彼女の足は段々と教室に向かうことができなくなった。

「学校にちゃんと行けない私が、ただダメなやつってだけなんです。」

 学校でひとりぼっちの彼女と違い、彼女の言う「クラスメイト」はどこかのグループに所属して常に誰かと繋がっている。

「だから廊下で大きな声を出したりふざけたりできて、それができない私は…」

「お前はここに居ちゃいけないんだって言われてる気がするんです…」


「バカだ、ガキだ」と言いながら彼女の価値観では、今、外にいる騒いでる生徒の方が正常で、まともな人なんだろう。だから、そこにいることができない自分に苦しんでいる。自分はダメなやつなんだと思い続けている。

 口が悪いのはそれを必死にごまかしているだけなんだろう。



「クレープでも食べに行くか」

 すっかり委縮してしまった姫に向かって軽く提案してみる。

 姫はうなだれながら俺の独り言に答えた。

「…鹿児島に行くんですか?」

「違う、お台場。あそこならクレープ屋くらいあるだろ?」

「ここから遠くないですか?」

「知らないの?歩きでも行けるくらいの距離だよ。レインボーブリッジも歩いて渡れるらしいし、歩いてみようぜ?」

「でも私、数学まだ終わってないし…」

と姫は煮え切らない態度をとる。

 姫は変なところで真面目というか、自分に対して強迫的な部分がある。課題なんて多少遅れたって少し文句を言われるだけなのに、姫にはその少しの文句がとても嫌なんだろう。「普通の学生ならおわらせられるのに」とか思ってそうだ。


「じゃ、俺一人で行こっかな?先生からも用事があるなら帰っていいって言われてるし。」

「…私、ダイバーシティにあるクレープ屋行ってみたいです。いちごとチョコのやつ食べたいです。あと、ガンダムの写真も撮りたいです。ガンダム見たことないからミリしらですけど…」

 少しだけ、姫は機嫌を取り戻す。


 こうやって姫を保健室の外に連れ出すのは実はもう何回もしていた。

 最初の動機が不純なのもあって、彼女に配慮しつつなるべく人が少ないところを選んでデート気分で連れまわした。

 動機は不純でも、考えはちゃんとあった。

 学校以外の場所に触れれば、それこそ捕らわれの姫を外に連れ出すように、彼女の心の救いになるんじゃないかと思っていた。保健室を出るためのステップになるのではないかと。

 不純な計画通り、心の距離は近づいたとは思う。だけど、それと彼女が勇気を出して教室へと進むこととは別の問題だった。


 なんとかしなくちゃと思ってはいるが、何もいい案は思いつかない。

 かといって、当初の下心は消えてるから彼女にとっての特別な存在になる気もない。…なのに今日もクレープを食べに行こうなんて適当な提案をしている。


 要するに俺は中途半端なんだ。


 なにもかも。


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