式日

文月八千代

第1話

「お兄さんが事故に遭われまして……」


 そんな電話がかかってきたのは、午後1時を少し過ぎたころ。昼食を済ませたばかりでぼんやりとしていた頭が、一気に冴えた。

 耳元から聞こえた「どうか焦らずに。落ち着いて病院までいらしてください」という言葉がなにを意味しているか、瞬間的に理解できるくらい。


 目の前が一瞬真っ白になったけれど、スマホの画面に浮かび上がる赤いボタンをタップして、のろのろと立ち上がった。

 そして電話をしているあいだ、こちらをじっと見ていた上司に事情を説明してオフィスをあとにした。



 電話で告げられた病院は、ここから車で1時間ほどの場所にある大学病院だった。病気ひとつしたことない私には縁がなく、いまいちピンとこない場所だ。

 しかしひたすらにまっすぐ伸びる国道を走っていけば、背の高い建物が嫌でも目に入る。

 そこを目指してハンドルを握り、震える足でアクセルペダルを踏んだ。


 時速は60km/h。

 隣の車線や前を走る車はそれよりも早く、後続車も次々と車を追い越しをかけてくる。

 けれど、速度は変えない。

 さっきの電話で言われた「焦らず」という言葉が、頭のなかをグルグルしていて。加えて「早く兄に会いたい」という気持ちと、「会いたくない」という相反する気持ちがせめぎあっていたからだった。



 実をいうと、兄とは血が繋がっていない。

 父が再婚したときにできた兄だから、正しくはだ。

 あのころ小学生だった私は、「兄ができた」という実感がなかった。高校生だった兄はバイト三昧であまり家にいなかったし、家でバッティングしても特に会話することもない。

 けれど自分に兄弟ができたということが嬉しくて、兄の部屋を覗き見たり、こっそりなかに侵入して人となりを知ろうとしていた。

 そしてどんな音楽が好きなのかとか、ベッドの下に隠してある本の存在を知ったりだとか……そういうところから兄の一面を知るたびに、胸がドキドキと高鳴った。


 それが恋だと理解したのは、あと何年もあとのことだった。




 病院で対面した兄は、眠っているようだった。

 顔や体には傷があり、ガーゼや包帯など処置のあとが見える。でも目を閉じて横たわっている姿は、リビングのソファでうたた寝しているそれと変わらない。

 形のいいピンク色の唇は、いまにもなにか言い出しそうだ。


「お兄……ちゃん」

 指先で頬に触れると、やわらかな感覚が伝わってくる。

「ひとりになっちゃったね、私……」

 小さな声で話しかけてみたけれど、唇はなにも返してくれない。でも不思議と、涙は出なかった。

 考えてみると、誰かの死で涙を流したのはあのときだけだ。



 中学生になってすぐ。義母を「お母さん」と呼ぶのに慣れたころ、事故で両親を亡くした。

 報せを聞いたとき、お葬式のとき、私は泣かなかった。

 でもいるはずの人がいないからっぽの家で過ごしていたら、悲しくて、苦しくて、とめどなく涙が溢れてきた。

 そんな私の耳に届いたのは、父でも母でもない。普段あまり話すことのなかった、兄の声だ。


「俺がお前を養うから。これ以上、悲しい思いはさせないから」

 それから兄は人が変わったようだった。

 大学を辞め、家から近い会社でがむしゃらに働いた。

 家では家事をして、学校行事にも顔を出してくれた。それに私の誕生日には、ごちそうとケーキを用意してくれたりと、まるで、母みたいに。

 最初は戸惑いもしたけれど、私を無事に成長させてくれた兄が誇らしくて、少し心配で、大好きになった。

 たったひとりの家族……だからじゃない。特別な「好き」という気持ちが芽生えていた。




 兄の葬儀は、ひっそりと行った。

 梅雨に片足をつっこみどんよりとした空のもと、死を知った友人や会社の人がぽつりぽつりとやってきて、静かにお焼香をして帰っていく。

 そんな弔問客に何度も頭を下げたりしていると、ひとりの女性が祭壇のところで立ち尽くしているのが見えた。

 いったい誰だろう? と考えていると、くるりと向きを変えて歩き出した女性が、目の前までやってきた。


「あの……妹さん、ですよね?」

 か細く、弱々しい声だ。

「あ、はい。ええと……すみません。兄とは、どういう……」

「同じ会社で。それから、お付き合いさせていただいていた、須藤マキエと申します」

 女性――マキエさんはゆっくりとお辞儀をしたあと、祭壇のほうに向けた目から涙を流す。そしてバッグから取り出したハンカチで押さえた口元から、小さな嗚咽を漏らした。



 火葬まで同席したいというマキエさんと一緒に、待合室に入った。大きな窓からは施設全体が一望でき、正面には兄と最後の別れをした炉のある部屋が見えた。

「知りませんでした。お兄ちゃんに彼女がいたなんて」

 備え付けられた急須にお湯を入れながら、マキエさんにそう言ってみた。

「ごめんなさいね、こんなときに……。お兄さん、『ちゃんと結婚報告できるまで、妹には内緒』って言ってたものだから。でも、こんな形で知らせることになっちゃうなんて、ね」

 ほんとうに。そう言いかけて、飲み込んだ。


「それにしても、最近の火葬場って煙が出ないんですね」

 近隣住民からの苦情だとか、設備がよくなったとか、いろいろと聞いたことはあった。でも高い煙突から白い煙がモクモクと吹き出ているイメージだったものだから、実際に煙がない光景を目にして少し寂しくなった。


「ちょっとだけ、残念よね。煙が出てたら、彼が空気中に散らばって……息をしたら、ひとつになれるような気がするじゃない?」

 マキエさんは深く呼吸をしてから、さらに続けた。

「ふふっ、おかしいわよね。もうずっと前から、体も心もひとつになってるはずなのに。最後の最後で、こんなこと言うなんて」

「そんなこと……ない、です」

 フルフル首を振って否定したけれど、うっすらと微笑みを浮かべるマキエさんが憎くて憎くて仕方がなかった。




 しばらくして館内放送で名前が呼ばれ、お骨上げとなった。

 私たちはなにを話すわけでもなく横並びになって廊下を歩き、『お別れ室』と書かれた部屋に足を踏み入れた。

 部屋の中央には御影石でできた台が置かれていて、まだ熱をまとったが静かに安置されていた。それを見た瞬間、私の目から涙がこぼれた。

 もういないんだ、と、兄の死をようやく実感して。


 私とマキエさんは、それぞれに持ったお箸で白い塊を持ち上げた。そして静かに骨壷に収め、続きは職員にお願いすることにした。

 目の前で進められる淡々とした作業を見たくなかったのだろう。マキエさんはハンカチで顔を隠し、肩を小刻みに震わせ始めた。

 そんなマキエさんを横目で見ながら、熱くて小さな塊を握りしめていた。そのぬくもりはいつだったか兄と手を繋いだときと同じで、私の胸を高鳴らせる。

 

「お兄ちゃん、ずっと一緒だよ」

 声には出さずに呟き、小さな塊をそっと口に運んだ。歯を立てるとギシリ……と砂を噛むような感覚が広がっていく。味は、ない。

 でも、兄とひとつになれた。触れ合ったりしただけのマキエさんより、ずっと深く。

 体に取り込まれた兄は、これからもずっと一緒に生きていく。


 私はまだ泣いているマキエさんをチラリと見たあと、静かに口角を上げた。


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式日 文月八千代 @yumeiro_candy

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