第14話

ソンジェは舞台の上に座りミリネにも座るように促した。


「親父の会社、駄目になるかもしれないんだ」

「倒産するってこと?」

「ずっと単体で経営してきたところなんだけど、他の事務所から合併しないと永く続いていていかない。廃業寸前のところにいるんだ」

「それなら留学どころじゃないでしょう?どうしてこんな時に海外へ行こうとするの?」

「今しかやれる時間がないんだ。親父もそうして向こうに行けって言ってくれた。その間になんとかうまく努めていくからお前は自分の事をやりぬいていけって言ってくれた。その通りにしてあげたいんだよ」

「私は、どうでもいい存在なのね」

「そうじゃない。どうでもいいならひたすら隠し通して黙って逃げるように行っているさ」

「……ともかく、私は別れない」

「ミリネ。俺、どうしても自分のことしか考えられない。君にこうして出会えたことは感謝している。これからのために……申し訳ないけど、別れてくれ」

「私、あなたがいなくなったらまた一人きりよ。もう嫌なの!一人になるのは……」


彼女は彼の肩に手をかけて泣き出していた。


「ミリネ。まだ君には希望がある。俺が全てじゃないよ。これからも大事な人が見つかって一緒になれるのならその人生も悪くはないよ」

「私は……遠い未来の事までなんか考えられない。ソンジェが一番よ」


彼は彼女の顔を両手で包み込み微笑んでいた。


「お互いが一番幸せになれるのは今この時に決めることではないよ」

「どうして言い切れるの?」

「俺だって未来の事なんか知らないさ。でも、こうして出会えて良い分岐点になったことがお互いの幸せに繋がっていくように、そういう方向に行けるようになるんだと願っていれば辛いことも幸せに変えられる。楽しいことに変えられるって信じていたい」

「それが、あなたの本心?」

「ああ。ありったけの君への愛だと考えている。いつどうなるかわからない男と一緒になるのなら、他の人と一緒になってたくさんの幸せを作っていって欲しい。君だってそうしたいだろう?」

「あなたは、私をそこまで引き離したい?」

「引き離すのではなく、それぞれの道を歩んでお互いがその道の途中で小さくてもいいから幸福を拾い集めていくんだ」

「幸福?」

「うまくいえないけど、どんな積み重ねも人間が持っている幸福を知った時、その箱のようなものを開いた時に俺たちの道理がきちんと筋立てていけるような気がする。ミリネもそうして考えて生きてく方がためになる気がするんだ」

「本当に自分の願う道理に進んでいけるのかしら……」

「とにかく自分たちを信じるんだ。祈祷して努力していけばなるようになるって信じたい」

「そこまで考えているなら、その気持ちは受け止める。ただ少し時間がほしい。また今度会って話がしたい」

「……」

「ソンジェ?」

「時間がもうないんだ。来週の便で行くのが決まった」

「突然過ぎて胸が苦しい……せめてでも手紙を書いてほしい。お願い、ソンジェ……」

「分かった。向こうに着いて落ち着いた頃に手紙を送る。それじゃあ、また明日」


部室を出ていきその背中をしばらく見つめていた。ミリネも自宅へ帰り台所で夕食の支度をしながらソンジェの事を考えているうちに、ぼろぼろと涙が止めどなく溢れて、その場にしゃがみ込んだ。

できるならば帰国した後も一緒に傍にいたいと泣きついてせがみたかったが、彼の今後を考えて自分の気持ちを全身で抑えつけていた。


それから彼がいなくなってから、いつも通りに大学へ行き三年生に進学して就職活動が始まり、希望先の企業に面接を受けたのち、一社内定が決まった。ミリネは家族やソンジェの仲間に報告すると彼らも一緒に喜んでくれた。

ソンジェが留学中に手紙を送ってきたのだがその返事を送って以来彼からの返事は来なくなり、彼が帰国してから連絡を入れても結局はそのまま会えずに悲壮感の旋律の音を立てるように流れていき、ただひたすら時が過ぎ去っていった。



「そうだったのか。その後ミリネさんはソンジェさんには会うこともなかったの?」

「その後の行方は全く聞かされていないの。恐らくはお互いはソウルにはいたけど、ソンジェが両親のことがあったから会えずに音信不通になってしまったのかもね」

「ミリネさんはその後はどうなったの?」

「一般企業で働いてから三十歳の頃かしら。その会社で知り合った方と結婚をしたんだけど五年くらいで別れてね。その後はずっと独りでいたみたいよ。それから日本に来たみたいだけど、その後はどうなったかは彼女の姉弟も知らないみたい」

「じゃあ俺は韓国で生まれたことになるのかな……」

「きっとそうかもね。ただ日本に一緒に連れてきたからもしかしたら国籍は日本になっているはず。斗真ウジン、そこは調べていないのかい?」

「役所に行けばわかるとは思う。ただ以前に住民票が必要になった時に本籍が東京になっていたんだ。だから、日本で間違いないと思う」

「じゃあ、ミリネは本当のところはどこであなたを産んだのかしらね?」

「どちらにしても向こうだというのは確かだと思う」


ミリネの情報が曖昧なまま彼らとの会話は進んでいった。帰り際に叔母から手のひらに乗るくらいの日記のようなものを手渡されてその日の取材は終わった。新聞社へ戻るとユソクが他の記者と打ち合わせをしていて彼が帰ってきたことに気がつくと、どうだったのか訊いていた。


「そう。それじゃあ今は日本のどこにいるかさえも分からないんだな」

「ああ。これ、そのミリネって人が書いた手記の様なものなんだって。何ぺージか読んでいったけど、全部ハングルで所々染みみたいな痕もあって読みにくいところもあった」


ユソクが手に取り中を開いてページをめくり、その中に彼女の子どものことを書いたものがあると言ってきたので、読み上げてもらった。


「一九八十年五月。とう……ま?斗真って書いてある」

「そのまま読んでいって」

「……日本の高知県にある市内の知人の元を尋ねて相談したところ、息子を引き取ってもらう事を許可する。チェ・ウジンならびに阿久津斗真、五歳。愛しい我が子に辛い思いをさせてしまう事をどうか許してほしい。これもソンジェのため。家族になれなかった私をどうか許してください……」

「高知にいたってどういうことだろう?俺は生まれたのは都内で日本人の義父とユン・ソヨンが義母になって一緒に暮らしていっていたんだよ。何がどうなっているんだ?」

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