第9話

地下鉄のホームで一両分の間隔で離れて、ミリネを遠くから見ては気づかれないように電車に乗り、数駅通過して停車したところから彼女が降りていくと彼も後ろからついていった。

改札出入り口から地上へ出てしばらく歩いていくと、次にその近くにあるバス停に止まったので彼は彼女から数えて十人ほど後ろのところに立ち止まり、バスが来ると後方座席に座った彼女から離れて最前列のところに手すりを掴んでそのまま乗っていった。


二十分後、彼女が下車していくと彼もまたバスから降りて、大通りから裏路地に入り、住宅街の道を歩いていくと一軒家の角に隠れて彼女が進むのを見ていると、ある三階建ての古いアパートの階段を上っていくのが見えて最上階のところにある部屋へと入っていくのを見ていた。


「ここ、なのか……」


それから来た道を一旦戻っていき、中央駅へと出て彼は家に帰っていった。家に着き母親から声をかけられて家族で夕食を摂り、事前に話してあった就職の件で、父親から設計事務所に入ることを検討してもいいと返答してきて、彼もまた礼を言った。

食後、部屋に入りベッドの上に仰向けになって今日の事を振り返っていた。ソンジェは日中食堂で友人になりたいと言った時、ミリネに悲しい思いをさせてしまったのかと気になって仕方がなかった。この頃から彼は彼女に対して慕うようにしていきたいと強く願うようになっていった。


次の週の金曜日、講義が終わるとミリネは大学から弘大へと出向き、洋服店や飲食店で賑わう通りを抜け低い建物が立ち並ぶ所まで来ると、とある小劇場の出入り口に入っていった。会場の席についてしばらくすると客席の照明が落ちて、舞台にスポットライトが照らされると袖から役者陣が出てきて演劇が始まった。

役者の活気あるエネルギーに個性ある喜怒哀楽の演技に魅了され、終演すると彼女も拍手を贈り続けていた。周囲の客が少なくなった頃、ミリネを呼ぶ声に振り向き、先ほどまで舞台にいた一人の男性が彼女の元に来ていた。


「ジンソクさん、お疲れさま」

「来てくれてありがとう。舞台どうだった?」

「楽しかった。シリアスっぽい感じなのに時々笑えるところもあってお客さんの反応もうけていたわ」

「この後まだ時間ある?」

「はい、この間言っていたお店に行きたいんでしょう?」

「覚えてくれていたんだね。これから荷物持ってくるから、外で待っていてくれ」


彼はユン・ジンソクといい、同じ大学の卒業生であり俳優の卵でもある。ミリネが1年生の時に新入生の歓迎会の席で知り合い親しくなった。その後近くの居酒屋に入り品物を注文してから、今日の舞台について会話を交わしていった。


「今日一緒に出ていた仲間の中にこの間テレビ局のオーディションに行った人がいたんだ。やっぱり厳しくて簡単には通らなかったみたい」

「そう。俳優になるのも一筋縄ではいかないところがあるよね。ジンソクさんはオーディションは受けているの?」

「一応劇団のオーディションには何ヶ所かは行ったんだ。二つ一次審査が通ってこの次にまた劇場に行くんだ」

「受かるといいですね」

「そうだね。親にはまともな仕事に就けって言われてうるさいけど、俺芝居好きだし簡単には辞めたくないんだよ」

「そういえば、舞台が終わったら話がしたいことがあるって言っていたよね。何かあったんですか?」

「ミリネは今好きな人はいるの?」

「ううん。いないわ」

「……ずっと気になっていたんだけど、俺たち付き合わないか?」

「あの人は?婚約者の人だって言っていた女の人は?」

「あれは向こうが一方的に言い放っていただけで、婚約者はともかく付き合ってもいない。ただの役者仲間なんだ」


食事を進めながら話を続けていくと、ジンソクは焼酎を飲み始めて、彼女にも少しだけ酒の付き合いをしてほしいとグラスを渡し注いでいった。


「去年も君に告白していたのに断られたから彼氏でもいるのかなってさ。二年間君にひと筋なんだ。俺じゃ駄目かな?」

「良い友人だとは思っている。ただ……」

「どうした?」

「両親が安定のしていない男性と付き合うのはどうかしているって言われて……。私もそんな人じゃないって何度か言っているのに、首を振ってくれないの……」

「親御さんのことはわからなくはない。確かにミリネの将来も考えてあげらるる男じゃないと納得できないもんな」

「ごめんなさい……」

「いいよ、そんな風に考えてくれていたのも悪く捉えられないさ。これからも良い友人でいよう。もう少し飲める?」

「ええ、いただきます」


店を出ると通りは一層人で溢れて騒がしい雰囲気に包まれていた。地下鉄の通路沿いを歩いて改札口を通り、電車を待つ間二人は会話をしていた。するとジンソクはミリネを見つめてきたのでどうしたのか訊くと手を繋いで欲しいと言い、彼女は繋ぐだけならいいと答えると彼の大きな手がかぼそい彼女の手を包み込んだ。


「だいぶ酔った?」

「いや、そうでもない。ミリネ、君は本当に優しい人だ」


そう告げた瞬間、彼は彼女の唇にキスをしてきた。驚いて手を離すとやはり酔っているからそうしてきたのかと尋ねると、彼は付き合うことを真剣に考えて欲しいと言い、電車に乗るとまた手を繋いできた。


「今日は強引ですよね。なんか……積極的というか」

「必ずオーディションに受かる。そう信じていて欲しいんだ。受かったら俺とのこと真面目に考えてくれ」


停車した駅に着くと、彼は先に降りて手を振って帰っていった。

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