逆光気味の写真の中で、海が銀色に光っている。
第40話
十一月十三日木曜日、仕事のあと、新幹線と特急の最終を乗り継ぎ地元の駅に到着すると、薄蔵い駅舎の中に父ちゃんの姿がぼんやりと浮かんでいた。車で迎えに来てくれたらしい。明日、金曜日、父ちゃんには仕事の休みを取ってもらうお願いをしていた。﨑里ちゃんとの結婚について、先日祐介さんと﨑里ちゃんと三人で話をしたことは、母ちゃんの口から父ちゃんに伝えてもらっていた。今回は祐介さんの助けを借りて父ちゃんを説得するつもりやった。
駅舎を出ると、薄雲を刷いた空に寒月がにじんでいた。父ちゃんとふたりやと、闇に沈む町の音がことさらよく聞こえる。駅に隣接するホテルで客を降ろしたタクシーがドアを閉める音。どこかで自販機にペットボトルが転がり落ちる音。遠くを走る救急車のサイレン。歌うように長く尾を引く犬の遠吠え。
父ちゃんの運転する車で
この人と再同居しはじめると、母ちゃんは変わった。俺が小学校一年生のころ、別居する前は、母ちゃんはいささか陽気すぎるんやないかっち思うくらい明るく振舞っちょったが、ときにふっと口をつぐみ、暗い目で父ちゃんを追っているのに俺は気づいとった。別居したあとは、月に一度の面会のたびに、口だけが別の生き物のようにあれやこれやとしゃべり続けとった。心配になるほどやった。それが再同居すると、丸い体形は相変わらずやし、口うるさいのだって変わるべくもなかったけれど、言葉のひとつひとつがずしりと密度を増した。父ちゃんを見る目から暗い色がほぼ消え、俺たち子供を見るときと同じ、くるくると色合いの変わる、豊かな感情をたたえたまなざしになった。母ちゃんは本当に父ちゃんのことが好きなんやろな。
でも、父ちゃんのほうはと言えば、ほとんど変わらんかったような気がする。もちろん、それは、俺の目にはという意味やけれど。父ちゃんが何より大きく変わったと感じたのは、俺が高校一年のとき、父ちゃんが﨑里ちゃんと二人で話をしたという一月末のあの日から三月末のあの食事会にかけての二か月間やった。
それまでの父ちゃんは、ほぼ、おるだけの人やった。空気や、玄関の木彫りのクマのような。俺が話しかければうなずき、問いかければ答える。でも、自分から俺にアプローチしてくることは、ほとんどなかった。
口を開かない。目を合わすことすらほとんどない。でも、ばあちゃんの家に引っ越してきたばかりの小学二年生のころ、こんなことがあった。ばあちゃんの家で迎えた最初の夜、慣れないひとりの部屋で寝る心細さから布団にもぐって泣いちょったら、父ちゃんが部屋に入ってきた。驚いて布団から顔を出した俺をしばらく見つめ、ひとこと、明かりついとっても眠れるかと尋ねた。その言葉にうんと答えると、父ちゃんはそれ以上何も言わず、座卓にノートパソコン、電気スタンド、書類を並べて、俺の部屋で仕事を始めた。そのあとすぐにばあちゃんと打ち解け、昼も夜も寂しい気持ちになることはほとんどなくなったけれど、それでも一年間ずっと、俺は電気スタンドに照らし出された父ちゃんの横顔を見ながら眠りについた。三年生になると父ちゃんは俺の部屋での残業を止めたけれど、それから中学生になり、高校生になっても、俺が居間におるあいだは、ずっとそこにおった。新聞や専門書に目を通しながら、ずっとそこにおってくれた。
そげなん、コミュニケーションじゃねえっち鼻で笑われるかもしれん。でも、父ちゃんと俺のあいだには間違いなく共鳴するものがあった。俺は父ちゃんが好きで、人目にはコミュニケーションとも見えない透明で強靭なつながりに安らぎを感じとった。
それが、﨑里ちゃんとふたりで話をしたというあの日から、俺の作る料理に感謝の言葉をつぶやくようになった。時に、和らいだ表情に笑みの気配を漂わせ、俺の視線をとらえてしゃべるようになった。あっけにとられた。そしてぞっとした。俺の知らん人になった、当初はそう感じて落ち着かない気持ちになった。
あの衝撃的だった食事会のあとの帰り道、父ちゃんとふたりで歩きながら、頭の中はいくつもの疑問でいっぱいだったことを思い出す。
なんし、知り合って間もない﨑里ちゃんと、ふたりきりで、俺にも話せんような過去の話をしたん? なんし彼女が父ちゃんのことをそげん理解できるん? なんし“袴の彼”は俺には見えず、彼女にだけ見えたん? なんし? なんし?
道すがら、断片的な答えを聞かせてもらってからも、心のもやが晴れることはなかった。彼女は父ちゃんにとって、何なんよ? ずっとそう問い詰めたくてたまらんかった。でも、怖くて切り出せんかった。おそらく、この先も聞ける日はやってこんやろう。
俺も父ちゃんも、﨑里ちゃんにはかなわないのだ。乱暴で、強引で、下手すれば互いにボロボロになるようなやり方で、人の心の内にずかずかと入り込んでくる﨑里ちゃん。自分を隠し、人には上っ面しか見せない父ちゃんや俺に、他人の言葉は響かんかった。優しい言葉は上滑りし、厳しい言葉は跳ね返された。﨑里ちゃんに捨て身で踏みこまれて、初めて、外からの声が届いた。俺は、父ちゃんにも母ちゃんにも、もちろん、そのほかの誰にだって、そげな態度は取れん。父ちゃんだってそうやった。だから、俺たちふたりは、一緒に暮らし、同類の悩みを抱え、互いの闇を予感しつつも触れ合うことはなかった。ふたりともが、﨑里ちゃんを待っとったんかもしれん。
父ちゃんは表情もなく、ただ正確に運転を続ける。こけた頬、鋭い輪郭、鷲鼻、とがった耳、くせの強い柔らかな髪の毛、暗く落ちくぼんだハシバミ色の目。
パーツを取り上げると、確かに父ちゃんと俺はそっくりや。祐介さんや﨑里ちゃんのばあちゃんに言わせると、竹史と俺はそっくりなのだそうな。それは、顔立ちや姿恰好だけやなく、皮膚の下に隠し持つ、暗い沼の発する瘴気が、そう感じさせちょるんじゃなかろうか。でも、﨑里ちゃんは全然違うと言って譲らないし、俺も、父ちゃんの均整の取れた凄みには及ぶべくもないと感じとる。父ちゃんに対するこげん卑屈な感情も、﨑里ちゃんのことさえなければ、浮き彫りになることもなかったんやろう。﨑里ちゃんを恨む気持ちより、自分の情けなさにため息がもれる。
「章」
父ちゃんが初めて口を開く。
「疲れとるんか?」
そのいたわりの言葉にかすかな苛立ちを感じた。父ちゃんのその言葉のあと、家に着くまで俺たちは無言のままだった。
翌朝、父ちゃんに車を借りて、予め連絡を取っていた昔の知り合いの所へと赴く。懐かしがる相手に心からの挨拶をし、便宜を図ってくれたことに丁重なお礼を述べ、俺たちの荷物が無事に届いていることを確認した。
いったんその場を離れ、駅に向かう。駅舎で十分ほど待っていると、灰色のにちりんが盛大な悲鳴を上げながら停車し、扉から﨑里ちゃんの小さな姿が吐き出された。
「こんにちは」
改札を通ると、いたずらっぽい口調で話しかけてきた。
「おう、こんにちは。行こっか」
﨑里ちゃんの荷物を持ち、車に運ぶと、ふたりで﨑里ちゃんのばあちゃんの家に向かい、簡単に掃除をした。今年、手を入れる人のなかった畑は寂しい様子だったが、家の中はさほど汚れていなかった。台所と風呂、トイレを簡単に掃除し、居間と和室、それに二階の﨑里ちゃんの部屋にも掃除機をかけて布団を準備したあと、祐介さんの昔の部屋も簡単に掃除をして泊まれるようにするからと﨑里ちゃんが入って行き、俺は掃除機を持ってついていった。
「なあ、﨑里ちゃん、ちょっと聞いてもいい?」
﨑里ちゃんが目を上げた。
「うん、なに?」
俺はためらいつつ、言った。
「あのさ、冬に﨑里ちゃんと同性愛の話をしちょったとき、フツーの人だって、多かれ少なかれ、同性に対する恋情を持っとるっち話になったん、覚えちょる?」
優雅に笑う。
「うん、覚えてるよ」
「そんときにさ、祐介さんだって、自分の中の別の愛に気づいて、猛反発したんじゃないかって思う、っち言ったやろ?」
「……」
「あれって、祐介さんと竹史のことよな? なんし、そげんこと思ったん?」
﨑里ちゃんはしばらく黙っちょったが、本棚に近寄ると、箱に入った辞書を手に取った。箱から取り出し、開くと、無言で差し出した。使い古され、書き込みのたくさん残る英和辞典。そこに一葉の写真が挟まれとる。砂浜で“袴の彼”、いや、高校生のころの竹史が祐介さんにおぶさって、ふたりで屈託なく笑っている写真。
「これ、以前見してもらった、アルバムの写真ってやつ? なんしここに?」
﨑里ちゃんが悩まし気な顔で言う。
「そう、アルバムの写真と同じ。おばあちゃんが亡くなったあの夏、少し落ち着いたあと、大学の課題の調べごとに辞書を借りようとして、偶然見つけちゃった」
そう言うと、写真に目を落とし、ふたりの笑顔を見つめる。
「アルバムにある写真なのに、どうしてここにもあるんだろうって、不思議に思ったの。それだけ」
逆光気味の写真の中で、海が銀色に光っている。日焼けした祐介さんと竹史がくっきりと浮かび上がり、笑う。波の音、磯の香、強い日差し、それにふたりの笑い声までが伝わってきそうなスナップショット。
「そうか」
そう言うと写真をもとのように挟んで辞書を閉じ、もとあった場所へと返した。手早く掃除を済ませると、部屋を出ようとした。そのとき、﨑里ちゃんが何か言いかけた。
「なん?」
振り返って顔を見ると、口をつぐむ。
「なん?」
もう一度たずねたが、ほのかに笑って首を振り、お腹にそっと手を当てた。
そのしぐさを見た瞬間、頭の中が真っ白になった。掃除機が手から滑り落ちる。問いかけるように﨑里ちゃんを凝視する。にっこりと笑ってうなずく。
頽れるようにしゃがんだ。涙がこぼれ落ちる。腕に顔を押し当て、懸命にこらえたけれど、嗚咽がもれる。
小学校に上がるまえ、見知らぬ街のショッピングセンターで迷子になったことがあった。お店の人に手を引かれぐすぐすと泣きながら母ちゃんを探し回り、ようやくまあるい姿を探し当てた瞬間、号泣して駆け寄り、スカートにしがみついていつまでも泣き続けた。俺はあのときからちっとも成長しとらん。誰かにすがってぐずり、欲しいものを手に入れたら今度は安堵で泣きじゃくる。
「川野、そんなに泣かなくてもいいんじゃない?」
あきれたような﨑里ちゃんの声が頭上から降ってくる。
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