第41話

 二時過ぎに﨑里ちゃんを連れて家に戻った。今晩、祐介さんと﨑里ちゃんをもてなすため、台所で張り切って料理を準備している母ちゃんに﨑里ちゃんが挨拶をしちょる。その様子をうかがいながら、俺は座卓に座って専門書に目を通そうとしていた父ちゃんに声をかけた。


「父ちゃん、祐介さんが来る前に、一緒に来てもらいたいところがあるんよ」


 目を上げる。無表情に問う。


「どこに?」

「遠くはないけん。裕佳子も連れて行く」


 父ちゃんはしばらく無言で俺の顔を見て、再び専門書に目を落とした。


 三人で車に乗り、とある場所に着いた。今朝、挨拶しに来ていた場所だ。父ちゃんの顔が険しさを増し、それをうかがっていた﨑里ちゃんの顔がくもった。俺が車をとめたのは、新設された市営弓道場だった。


「父ちゃん、頼みます、一緒に来てください。俺、三月から大阪でまた弓道を始めたんよ。父ちゃんに見てもらいたいんです」

 眉をひそめて何も言わない。

「父ちゃん、俺、高校一年の時に﨑里ちゃんに小嗣竹史くんが行射する動画を見せてもらったん。知っとろう? 彼女がプール棟から撮影しちょったことは? 衝撃的やった。ずっと﨑里ちゃんが、俺とは格が違うって言いよったけど、それまでは、そげんこと素人にわかるもんかっち高をくくっちょった。でも、その動画を見たら、圧倒されて、もう何も言えんかった」

「……」


 一歩引いて無言の竹史を見ていた﨑里ちゃんが口を開いた。


「竹史さん、これは、もとはと言えば私が言い出したことなんです。章くんと竹史さんが一緒に弓を引くところが見られたら、って。高校一年の時、私は竹史さんの、いえ、“袴の彼”の射を見るのが好きでした。刃物のように鋭い射は、正視するのをためらうくらい孤独で美しかった。章くんの射は高校一年の終わりに見たのが最後ですが、“袴の彼”の指導のおかげで、見違えるように美しくなりました。でも、章くんの射の美しさは優雅な美です。血のつながったものどうしなのに、こんなにも違うのがおもしろくて、ふたりの射をいつか見比べることができたら、って思っていたんです」


 その言葉に父ちゃんが口をゆがめた。かすれた声が漏れる。


「もう、無理やわ。四十年間、弓は引いちょらんのやけん」

 そう言って、﨑里ちゃんに向かってぎこちなく微笑んだ。

「父ちゃん、でも、俺の行射を見てもらうことはできるやろ? お願いします」

「部外者が射場に入っていいん?」

「うん、実は今の責任者が、俺が中学の時に弓道教室で教わっとった湯浅先生やったんよ。個人使用できるか問い合わせたときにそれが分かって、今の時期、利用者もそげん多くないけえ、今日は半日貸し切りにって便宜を図ってくださったん」


 俺たちは三人で事務室に行き、湯浅先生に挨拶をした。俺は預けておいた弓具を受け取り、着替えてから射場に入った。﨑里ちゃんに射場の奥で座って見学し、絶対に前に出てこないよう注意をし、弓を手に取る。


つる、もう張っとったんか」

「うん、朝来て準備した」

「後ろで見とる」

 そう言って、父ちゃんは奥に下がった。


 弓を引く。すうっと無に近づいていく。ゆっくりと、かつて体に刻み込んだ記憶を呼び覚ますように行射する。

 

 足踏み、胴造り、弓構ゆがまえ、打起うちおこし、引分け、会、離れ、残心。


 まあ、簡単には中たらない。六年のブランクののち、再開してまだ一年にもならんのやから。甲矢はやにつづき、乙矢おとやを射る。行射を始めると、もやもやしていたものが嘘のように心から消える。束の間のすがすがしさ。


 二射終えて、ふと我に返り、後ろを振り返る。父ちゃんは軽く眉を寄せてこちらを見とる。﨑里ちゃんは何だか目を丸くしとる。


「﨑里ちゃん、どうしたん?」

「音、こんなに大きいの?」

「音? ああ、弦音のことな? ええー、こげなもんよ? 﨑里ちゃんいつも見ちょったやろ、何で知らんの?」

「音なんてしなかったもん」

「え? ああ、もしかして、いつもプール棟の閉め切った窓から見よったからか? 間近で見たの初めてやからか」

「音があると、なまなましさがぜんぜん違うんだね」

 目を丸くしたままそう言った。


「父ちゃん……」


 父ちゃんは眉をひそめたまま言う。


「お前を“指導”したのは、高校一年の一月が最後か? あの頃と比べると、所作に落ち着きを感じるけれど、まだ甘い。顎、もっと引き。腹、力を抜いて。もう一手やってみ」


 ふたりで射場へ行き、ゆっくりと弓を引く俺の後ろで、父ちゃんが背中や肩や肘を軽く叩く。ときに弓手を、馬手を重ね、射癖を矯正する。暖かな気持ちに満たされていく。中学生の時の父ちゃんの、いいや、高校一年生の時の、"袴の彼”の指導だ。


 父ちゃんの指導を受けながら、さらに四射を終えたそのとき、失礼しますとの挨拶とともに射場に入ってきたのは、袴姿の祐介さんだった。父ちゃんの体がかすかにわなないた。

「章くんから弓道を再開するっち聞いてな。迷っとったんじゃけど、思い切って俺ももう一度やってみようと決意したんじゃ」

 照れたように竹史に言った。

「ブランクが大きいけんの、高校生のころには及ぶべくもねえけど、やっぱり弓を引くのは良いな。稽古しちょると、昔叩きこまれたことをどんどん思い出すわ。体はなかなかついてこんけどな」


 横目で父ちゃんをうかがった。祐介さんから目をそらし、口元を引き結んでいる。祐介さんは竹史を見つめていたが、ちらりと俺に目を走らせ、視線を落とした。どこかでハクセキレイが澄み切った鳴き声を響かせている。祐介さんは再び竹史に目を向ける。硬直した竹史から目をそらさぬまま、その場で正座する。軽く頭を下げ、静かな声で語る。


「たけ、聞いちょくれ。俺はあの日、おまえを踏みにじるような言葉を投げつけた。あの言葉は、おまえの人生を歪めてしまったんやろう。いくら謝ったって、謝り足りんことは、わかっちょる。いまさら許してくれなんち虫のいいことを言うつもりもねえし、許せるはずがねえこともわかっちょる。

 でもな、これだけは言わせてもらえんか。俺はおまえの射が好きじゃった。おまえの射は誰よりも美しかった。嫉妬で苦しくなるくらいにな。嫉妬するのと同時に、その美を俺が見つけ出して、俺が磨き上げとるっちゅうことに、誇らしさを感じとった。おまえの美を一番理解しちょるんは、他の誰でもねえ、俺じゃ。弓道教室の先生たちでも、弓道部の池田先生でも、おそらくおまえ自身でもねえ。

 たけ、もう一度、始めんか? 俺はずっと、おまえの射が見たかった」


 正座をしたままの祐介さん、石化したように動かない父ちゃん。俺は射場の奥に目をやった。唇をかみしめ、食い入るようにこちらを見つめていた﨑里ちゃんに手招きする。立ち上がると、おずおずと近づいてきた。


「祐介さん、父ちゃん、ふたりの話に俺たちが割って入るもんじゃねえっちわかっとります。でも、積もる話はあとでふたりで語り合ってもらうとして、まず、俺たちの報告を聞いてもらえませんか? もう、二人は他人どうしじゃないんです。裕佳子のお腹のなかには、俺の子供がいます」


 祐介さんと竹史のふたりが弾かれたように俺たちふたりを見た。﨑里ちゃんが言った。


「竹史さん、お父さん、この子は章くんと私の子供であると同時に、竹史さんとお父さんの血を受け継ぐ子です」


 祐介さんが呆然とつぶやいた。


「たけと俺の血を受け継ぐ子……」


 竹史は﨑里ちゃんをしばらく見つめ、言った。


「裕佳子ちゃん、おめでとう」


 そして、泣き笑いのような微笑みを浮かべた。俺の目から見ても、切なくなるくらい美しい笑顔やった。

 

 その微笑みのまま、こちらを見た。


「章、おめでとう。――ありがとう」


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