第37話

 祐介さんのリクエストに応え、メバルと豆腐の煮つけ、団子汁、焼きナスとミョウガの煮びたし、シイタケのホイル焼きを作り、持ってきたサドのニンニク醤油漬けを添えた。あとは﨑里ちゃんの好きな小葱の卵焼きでも作っておこうかと考えていると、玄関の開いた気配がした。ただいま、という声が聞こえたかと思うと、パタパタと足音を立てて﨑里ちゃんがキッチンに飛び込んできた。白のデニムのパンツに黒いTシャツ、その上に薄手の緑色のカーディガンを羽織っていた。目を見張っている。


「やっぱり川野だ?! どうして?!」


 﨑里ちゃんの顔を見ると、胸が締め付けられて泣きたい気分になった。それと同時に、ちょっと具合が悪く見えるほど青白い顔が気にかかった。


「﨑里ちゃん、久しぶり。俺が来とるって、よくわかったな」

「う、うん、だって、玄関を開けたら懐かしい料理のにおいがしたから」

「そうか、煮つけのにおいかな」

「たぶん。もう絶対、お父さんには作れない料理だからね」


 祐介さんがリビングで苦笑いしている。


「裕佳、ずいぶん早かったのう。今日は六時過ぎになるって言っとらんかったか?」


 﨑里ちゃんが顔をしかめた。


「夕方分析を仕掛ける予定だったGC-MSジーシーマスHPLCエイチピーエルシーもM2の学生に取られちゃった。学会の要旨の提出締め切りが三日後で、それまでに出さなきゃいけないデータがあるから使わせてって、泣きつかれたの。私だって論文の準備で急いでいるのに」


 口をとがらせてそういう﨑里ちゃんに笑いながら言う。


「それは災難やったな。そと、暑くなかった? シャワー浴びてくる?」

「ううん、だって、駅から家まですぐだから、そんなに汗もかいてないよ。お風呂は寝る前でいいよ」

「じゃあさ、荷物置いてきたら、ネギ、刻んでもらってもいい?」

「わかった、ちょっと待ってて」


 そう言いながら﨑里ちゃんは荷物を下ろし、洗面所で手と顔をさっと洗って戻ってきた。 包丁を取り出してネギを刻み始める。トントンとリズミカルな音が心地よい。


「いいな、その音。落ち着くわ」

 﨑里ちゃんが微笑んだ。

「しかも、切れ味からすると、包丁の手入れもかなりこまめにやっとるな? 﨑里ちゃん、大したもんやわ」

 上目遣いで軽くにらむ。

「誉めても、何も出ないよ」

「本気で感心しとるんよ」

「焼くのは、川野、お願いね」

「そうなん? その包丁使いなら、焼くんももう手慣れたもんやろうに。まあ、今日ぐらいは俺がやっちゃるわ」

 そう言うと、﨑里ちゃんが取り出した卵焼き器に油を引き卵焼きを焼き始めた。



*   *   *   *   *   *

専門用語についての説明です。

GC-MS(ジーシーマス):ガスクロマトグラフ質量分析計。蒸発しやすい有機化合物の構造を調べたり、濃度を簡便に調べたりするのに使います。

HPLC(エイチピーエルシー):高速液体クロマトグラフ。蒸発しにくい有機化合物を精製したり、濃度を調べたりするのに使います。

M2(エムに):大学院の修士課程(マスターコース)の二年生

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