第33話

 試しにポテトとチキンのパイにナイフを入れてみると、湯気とともにバターとベーコンとスパイスの香りが立ち上った。うん、火はきれいに通っていそうだ。お皿にひとつのせて﨑里ちゃんに渡す。

「いいにおいじゃね? 食べてみて」

 﨑里ちゃんはズブロッカの瓶をにらんでいる。それに気づいて、尋ねた。

「飲む?」

 瓶をにらみながら小さな声が言った。

「どうしてお酒持ってきたの? もう、セックスしても意味ないでしょ? 川野も私も不快なだけの、何の実りもない行為なんて、もうやめようよ」


 その思いつめた声に、性行為を厭う彼女に無理を強いていたことを改めて知り、いたたまれない気分になった。


「無意味かどうかはわからんけど、でも、セックスはせんよ、安心して。そのために持ってきたんじゃない。﨑里ちゃん、服を着たまま抱きしめられるのは好きっち言っちょったよな? 俺、﨑里ちゃんを抱きしめたい。でも、知ってのとおり、しらふじゃ、苦しいん。やけん、ちょっと飲もうと思って」


 﨑里ちゃんが瓶から視線を上げた。うつろな表情の中で、瞳だけがまるでとろりと油を差したかのように輝いている。子供のようにくっきりと澄んだ瞳。きれいやなあ。こげん時やのにそう思って見惚れた。


「川野は女を抱きしめたくなんてないでしょ? 私に気を遣ってるだけでしょ? そんな必要、もうないから。それに、そんなこと繰り返していたら、アル中になってしまうよ」


 苛立たしそうにつぶやく﨑里ちゃんは、苦しげだけれど、やはり泣いていない。満水になってゆっくりと渦を巻く感情を涙にして吐出させることもできないようだった。この苦しみは、どうやら今までの比ではないようだ。ちょっとまずい。


「アル中にはならんよ。徐々に量も減らせちょるしさ」


「でも、私のことは、もう気遣わないで。川野は川野で、これからの自分の幸せを考えて」


 その言葉に、何かがぷつんと切れた。か細い糸だった。でも、些細なものではなかった。﨑里ちゃんのそばに寄り、抱きしめた。強く抱きしめる。


「﨑里ちゃんのためやない。俺が、俺がこうしたいん。俺は、今まで﨑里ちゃんに助けられてきて、﨑里ちゃんのことを尊敬してきて、﨑里ちゃんのことを可愛いと思うし、時にはイラっとすることもあるけど、ずっと一緒にいたい、離れたくないっち思っちょる。そう思えるんは、﨑里ちゃんだけなんよ」


 声が、腕が震える。しらふで、相手が女性だと意識しながら抱きしめたことなんて、これまでなかった。﨑里ちゃんのことですら、これまでそうできたことはなかったんやから。


「セックスはもう止める。子供ができんことを受け入れる。この世で望むものをすべて手に入れるなんて、誰にもできんもん。俺にとって、何より大事なのは、﨑里ちゃんが俺のそばにいてくれるっちゅうこと。今日、病院で結果を告げられたとき、はっきりそう気づいたん。もうこれ以上、﨑里ちゃんを苦しめたくない。だから、ふたりで現実を謙虚に受け止めよう? それとも、﨑里ちゃんは俺のこと、嫌い? もう、こげんフツーじゃない生活、疲れた? もし﨑里ちゃんが、俺を気遣ってじゃなく、心の底から俺と別れたいっちゅうんなら、それは……受け入れるよ」


 小さな体を抱きしめながらかき口説く。答えを聞かなきゃいけないけれど、聞くのは怖かった。俺は同性愛者で、﨑里ちゃんにフツーの男が持つような恋愛感情を持っとらんやろう。おまけに、体に触れないっちゅう、致命的な欠陥まである。﨑里ちゃんがこげな俺を本気で愛してくれているとは到底信じられない。だから、彼女が口を開けないよう俺の胸に押し当て、腕の中にきつく閉じ込める。腕が細かく震えないよう、ぎゅっと力をこめる。


 﨑里ちゃんが腕の中でもがいた。何か言っている。


「なん?」

「腕、腕、緩めて。苦しい」

「あ、ごめん。苦しかった?」


 俺は慌てて腕を緩めた。腕から抜け出した﨑里ちゃんが肩で息をする。


「窒息するかと思った」

 はあはあと息をしながら、でも、目から虚ろな色は消えていた。次第に呼吸が落ち着いてくる。息をつく合間に言う。

「気持ち悪くないの?」

「――正直言って、つらい。でもさ、気持ち悪さと抱きしめたいって衝動は、どうやら両立するんやな」

「それは、私のために抱きしめてあげたいって衝動?」


 ちょっと考えた。そう、以前はそうやった。﨑里ちゃんに何かしてあげたい、彼女を喜ばせてあげたい、そう思ってやろうとしたことのひとつが、抱きしめることだった。でも、今は?


「俺自身、抱きしめたいみたいや。抱きしめると、気持ち悪さと気持ちよさと、両方同時に感じる。今、言われて気づいたわ」


 﨑里ちゃんがこちらに目を向ける。

「抱きしめてみて、いい?」


 一瞬たじろいだが、うなずいた。﨑里ちゃんの細い腕がしなやかに絡みつき、そっと体が押し当てられる。最初に感じたのは、言いようのない気持ち悪さだった。その瞬間、突き飛ばしたい衝動に襲われ、歯を食いしばる。彼女の熱っぽさと細いなかにも感じる柔らかみが伝わってくると、背筋を羽で撫でまわされるような気味悪さに総毛立ち、腕から逃げ出したくなった。それを必死になって抑え込み続け、もう限界だともがこうとした瞬間、ふっと奇妙な感覚にみまわれた。海の上に投げ出され、水柱をゆっくりと沈んでいくような感覚。なん、これ? 今まで感じたことのない感覚に、戸惑った。﨑里ちゃんが俺の背に回した右手で、ゆっくりと背中を撫でさする。頭を撫でる。その手の動きのひとつひとつに、心地よさを感じ、目を閉じた。


「川野、気持ち悪くない? 耐えられる?」


 﨑里ちゃんの不安げな声が随分と遠くから聞こえる。


「気持ち悪くない。何だか、すごく気持ちいい」


 そう答えると、﨑里ちゃんはしばらく俺の体を撫でていた。そしてようやく体を放すと、ありがとうと言って、俺の頬を撫でた。ぞくりとして身をよじった。


「せっかく作ってくれた夕ご飯、冷めちゃったね。ごめんね。いただこう」

 その声は暗かったものの、さっきまでの痛々しい雰囲気はなかった。

「うん、食べよ、食べよ」


 パイもスープも冷めていたけれど、俺たちは黙々と食べた。

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